17、キーライムパイ
歩き疲れた百花と母親は、月光食堂の二階で休んでもらっている。琴音が使用している部屋のほかに、もう一部屋あるからだ。
「看護師長に許可をもらいましたので。そろそろ千華さんを連れてきますね」
三日月湖の砂浜に、デッキチェアを三つ並べながら透真が言った。
「大丈夫でしょうか、百花さんとお母さん」
琴音の問いかけに、透真は小さく笑った。
「なんで笑うんですか?」
「え? 笑っていましたか?」と、とぼけたように透真はデッキチェアにマットを敷く。風はなく、水中から生えている木の枝はそよとも揺れない。
百花が流した朴の葉は、今はどの辺りを漂っているのだろう。
「琴音さんは、百花さんだけではなくお母さんの心も軽くなさったんですよ。病気の子の母親、そして妹。その役割から逃れることはできませんが、話を聞いてもらうだけでも気持ちは晴れます」
「先代もそうしていました」と、透真は続けた。
月光食堂の先代店主。常連の柴本夫妻も透真も先代のことを知っているけれど、琴音に語ったことはない。
「生前の先代が、ぽつりとこぼしたことがあります。『月光食堂は開けておかなければならない、いつか連れてきてもらえる子のために』と」
透真はそれぞれのデッキチェアの側に、小さなサイドテーブルを並べた。
「彼女は誰を待っていたんでしょうか。誰の話を聞いてあげたかったんでしょうか」
傾いた日が、白い砂浜にデッキチェアの影を落とす。蒼く透明な三日月湖を見つめる透真の瞳は静かだった。
もしかしたら先代の店長は透真の祖母なのだろうか。琴音はふと、そんなことを思った。
「解決策はなくとも、誰かが話を聞いてくれるだけで心が軽くなることは確かにあると思います。むしろ忠告もアドバイスも邪魔になることも」
百花は透真の横顔を眺めながら言った。
頑張っている状態なのに「頑張れ」と励まされるのは、きつい。たくさんの矢が背に刺さっているのに「気にするな」と言われて、気にせずにいられる人なんていない。
お願い、手を引っぱらないで。立たせないで。走らせないで。背中を押さないで。
アドバイス通りにできないからと、失望しないで。
百花も琴音も、周囲の期待に応えられずにいる重荷に足を引きずっていた。そして百花の母親でさえも。
「透真さんは、百花さんのお母さんにあえて何も言わなかったんですね」
「まぁ、ぼくは普段から口というか筆を挟みすぎますから。せめて静観しようと……」
透真の言葉の最後の方は、ごにょごにょとくぐもっていた。
そういえば自転車に乗っていた男子学生が、透真の名刺に感動してサインまでもらっていた。
透真は三十代後半か、四十歳ほどだろう。私設図書館の経営だけで生活が成り立つとは思えない。仕事をする必要のない身分なのかもしれないが、謎の人だ。
琴音はじっと透真を見つめた。
「琴音さんは意外と視線が雄弁ですね」
「修道院では、うるさくしてはいけませんから」
静かに生活することに慣れている琴音は、子供の頃の修道院暮らしでもシスターが気づいてくれるまで視線で追いかけた。意外と直接呼びかけずとも、察してもらえるのだ。
「なるほど。修道院暮らしで培った生活の知恵ですね」
諦めた様子で、透真は肩をすくめる。
「私はいわゆる評論家なんですよ。文芸評論家ですね」
「ぶんげいひょうろんか?」と、琴音はころころとした聞き馴染みのない単語を口にした。
政治や経済、軍事の評論家はテレビで見ることも多いが。文芸に関してはあまり目にしない。
「要するに執筆を生業としています。客員教授として女子大で講義しているので、昼間の自転車の学生はそのことを話していたのですよ」
「有名人なんですか? 神川さん」
「地元の新聞に寄稿している程度です、写真も載ったことがあるので。有名かどうかまでは――」
話していて恥ずかしくなったのだろう、透真は背中を向けてしまった。見れば、透真の耳が赤く染まっている。
もしかしてアロハシャツは、学生に対して威圧感を出さないための配慮だろうかと琴音は思ったが、口にはしなかった。
◇◇◇
夕方のアペロのお客はもう帰っているので、店内はがらんとしている。
無風の時間で、高原とはいえ昼の暑さがまだ引かない。
大人だけならセイボリーと呼ばれる塩気のある軽食を出すのだが。子供は甘いものが欲しいだろう。
そう考えて琴音は、事前にキーライムパイを作っておいた。
グラハムクラッカーを砕いて、砂糖やバターを混ぜ込んでおく。今回はビニール袋にクラッカーを麺棒で叩いた。なかなかにワイルドな音が、キッチンに響いた。
『ちょっと琴音ちゃん。どうしたの? ストレスでも溜まっている?』
療養院に奉仕に来ていたシスターが、心配して食堂を覗いたほどだ。グラハムクラッカーのクラストを焼いて冷ましている間に、中に詰めるフィリングを用意する。
卵黄五個を泡だて器で撹拌し、コンデンスミルクをどーんと一缶。
ライム果汁の酸味で食べやすいが、罪悪感たっぷりのパイだ。勿論、甘みのないエバミルクを混ぜることもできるが、今回は怯まない。
キコキコと缶切りでコンデンスミルクを開けると、ほわぁと幸せな匂いがした。
コンデンスミルクは缶を開けないまま、お湯で加熱し続ければとろりとしたミルクキャラメルになる。それはまたいずれ作るとして、今はパイだ。
琴音はキーライムの皮をすり下ろしたものと、果汁を用意した。
キーライムはビターですっきりとした酸味があり、香りが強い。ミントをたっぷり入れたカクテルのモヒートにキーライムを使うので、琴音は多めに仕入れていた。
三日月湖周辺に暮らす客さまはモヒートが大好きだ。琴音は不思議に思っていたら透真が説明してくれた。
『ヘミングウェイがモヒートを好んでいましたからね。うちの図書館でも人気ですよ。「老人と海」や「キリマンジャロの雪」「移動祝祭日」など、よく貸し出しがあります。終わりのない祝祭のような日々を過ごす人たちにとって、ヘミングウェイは特別なのかもしれませんね』
そうなんだ、と琴音は納得した。三日月湖畔の別荘を自宅として暮らしている人が多いのは、高原の下の日常から離れた場所にあるからだろうか。
琴音も『キリマンジャロの雪』は知っている。マンガの『バナナフィッシュ』でアッシュが語っていたからだ。
そもそもタイトルや作中の薬も、サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』からつけられている。
『バナナフィッシュにうってつけの日』が入っている短編集を読みはしたが。琴音には、あまり理解できなかった。
でもきっと透真ならば、自身の感想や語る言葉を持っているのだろう。
琴音は眩しい思いで透真を見つめた。
『フローズンダイキリと午後の死もヘミングウェイにゆかりのあるカクテルですが。まぁ、月光食堂ではモヒートと……他にもミントを使うならミントジュレップなどもありますね』
モヒートはラム酒がベースとなっている。ミントジュレップはバーボンで、ライムは入らない、と透真が教えてくれた。
『もっともぼくの場合は、あまりお酒を飲みませんので、カクテルブックで仕入れた知識なのですが』と、図書館の館長らしい言葉と共に。
そしていくつかのカクテルのレシピを、メモして琴音にくれたのだ。
「ミントは夏によく使うから。自分でも植えてみようかしら」
なぜか修道院のハーブ畑では、ミントは鉢植えになっていた。わっさりと緑が繁るミントには、いろんな種類がある。今度、シスターや野菜を届けてくれる知夏に相談してみよう。




