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16/30

16、夏の鶯

 月光食堂に戻り、琴音は百花と一緒に昼食を取った。

 浜辺で百花に説明した通り、ブルグルと厚切りベーコンのサラダ。スープはガスパチョだ。多めに作ってあったので、今日の琴音の賄いも同じものになる。


「テラス席でいただきましょうか」

「うんっ」


 琴音の提案に、百花が元気に返事する。透真も空腹のはずなのに、まずは百花の母親に知らせるために療養院へ向かった。療養院の事務室なら、母親の携帯電話の番号が分かるらしい。


「このぷちぷち、なぁに?」

「麦を挽いて割ったブルグルです。といっても想像しにくいですよね」


 すでに午後三時を過ぎているので、おやつの時間と言った方がいいだろう。

 テラスの上に張った覆いを透かして、柔らかな日差しがテーブルに届く。歩き疲れたであろう百花に、琴音はレモンの入った水を出した。


「ありがとう、お姉さん。いただきます」


 グラスの水を飲み干す百花の喉が規則的に動く。琴音はすぐに二杯目の水を注いだ。ピッチャーの中に入った氷が、カランと音を立てる。


「冷たくておいしいねー」


 高原なので炎天下というほどではなくとも、汗をかくほどに歩き回ったのだ。これは三杯目もすぐに必要だろう。

 琴音はピッチャーをテーブルに置いた。たっぷりと入れた輪切りのレモンの黄色が鮮やかだ。瀬戸内海の島で採れたレモンは、皮も用いることができる。


 百花の母は氷を嫌うが、温かいお茶は飲みにくいだろう。琴音はそう考えて、氷も入れておいた。


 自分では気づいていなかったが、やはり琴音も喉が渇いていたようだ。レモンの爽やかな風味と澄んだ水が、身体にしみわたっていく。

 野菜たっぷりのガスパチョよりも、まず百花は厚切りベーコンを口に運んだ。


「このお肉、おいしい。ベーコンの味がするよ」

「ベーコンですよ」

「え?」


 フォークに刺して、かじったベーコンを百花はまじまじと凝視する。


「でもね、ベーコンってぺらぺらじゃないの? もっとうすいよ」

「う、うーん、確かにそうですけど」


 琴音はガスパチョをすくっていたスプーンを置いた。一人暮らしをしている時でも、スーパーに行けば売り場に並んでいたのは薄切りのベーコンがほとんどだった。最近は塊のベーコンも見かけるようになったけれど、月光食堂で提供しているものとは味が違う。

 食堂で仕入れているお肉屋さんは、ハムやベーコン、ソーセージも作っている店だ。


『うちのベーコンは桜のチップで燻してるんだよ。桜の香りはベーコンを上品に仕上げるんだな。ヒッコリーもいい。これはベーコンに深みを与える。アップルも甘い香りでいいんだよな』


 お肉屋さんの店主が、ベーコンを届けてくれた時のことを琴音は思い出した。

 燻製を自分でしたことがないので、燻製材によってそんなに味が違うとは思わなかった。

 料理によってハーブを使い分けるのと同じようなものだろうか。


「ぺらぺらって、あんまり恥ずかしいことを言わないでちょうだい」


 テラスの前から声が聞こえた。向かいの席の百花が、びくりと身をすくませる。

 下草を踏み、テラスに上がってきたのは百花の母親だ。あちこち娘を探しまわったようで、スカートにひっつきむしの緑の莢がびっしりとついている。

 母親に連絡をして連れてきてくれたのは透真だ。ひっそりと影のように母親の背後に立っている。


「ごめんなさい、ママ。百花、いい子にしてるから。怒らないで」


 さっきまでは、座ったまま足をぶらぶらと動かしていたのに。今は両膝を揃えて、百花は肩を落としている。

 まるで今から梱包されるかのように、自らの存在を小さく隠すかのように。


「百花」


 母親はやるせない倦怠を顔に浮かべた。何かを言いかけて唇を開き、また閉じる。


「百花にとってのママは、怒ってばかり?」


 そう尋ねた母親は天を仰いで瞼を閉じた。百花は返事できない。そうだと答えれば、また母の怒りへとつながる導火線に火をつけてしまうからだろう。


「……ごめんね。ママは千華の前で笑顔でいなくちゃって、頑張って。その分、百花のことを……見ようともしなかった。もうずっと、百花に笑顔を見せなかった」


 スマホを握りしめた母親の声は震えていた。ぽたり、とテラスの木の床に涙の粒が落ちる。


「ママ、百花にいい子でいるように命令していたね。百花が寂しいのを分かっていて、放ったらかしにしていたんだわ」


 母親として接していたのは姉の千華ばかり。妹の百花は健康であることを理由に「あなたは恵まれているから」と、目をかけずにいた。

 同じ姉妹でありながら、姉にだけ優しい笑顔を向ける母の背中を、百花はどんなに寂しい思いで眺めていたか。


 タイに赴任しているという父親も、祖父母も百花に注意を払わない。

 おそらく、母親が千華のことしか話題にしないから。百花は健康でしっかりしているから、気にかける必要もないと思われている。


 いるのにいない子、やはり周囲から見えていない子なのだ。

 百花は優しい子だから、荒れることもなくただ耐え続けていた。賢い子だから、母親に余裕がないことも理解していた。


 病気の子を抱える親は苦しみの中にいる。だが、健康な子もまた孤独の淵に突き落とされてしまう。

 ただ、誰もが普通でいたいだけなのに――


 カラン、とピッチャーの中の氷が音を立てた。

 琴音は新しいグラスに水を注いだ。氷でひんやりと冷えた、レモンの香りの水を百花の母親に「どうぞ」と差しだす。

 冷水に母親は一瞬とまどったようだが、すぐに手を伸ばした。「いただきます」と百花と同じように言い、冷たい水を一気に飲み干した。


「……おいしいですね、とてもおいしいです」


 母親は両手で空になったグラスを包みこんだ。


「千華のようにならないためにと、百花にはいろんなことを制限してきました。アイスも氷の入ったジュースも、添加物の入った加工食品や菓子も、夜更かしも。千華の病気は生まれつきなのに――どうして私は」

「お母さまは、ご主人の留守を守ろうと必死でいらしたのではないですか?」


 琴音の言葉に、百花の母親は一瞬笑みを浮かべた。その笑顔はすぐにくしゃっと崩れ、唇を噛みしめる。

 母親の頰を涙が伝う。疲れ果て、琴音よりも随分と年上なのに。母親に、泣きじゃくる少女の姿が重なった。


 つらいね、苦しいね。よく頑張っているね。

 きっと誰もが欲しい言葉を分かっている。なのに、傷ついた者同士は互いを慰める術を持たない。そして傷ついたことのない者は、相手の苦しみを理解できない。


「鶯が鳴いてる……夏なのに」


 ぽつりと百花の母親がこぼした。ようやく夏鶯(なつうぐいす)の存在を、その声を聞き取ることができたのだろう。


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