16、夏の鶯
月光食堂に戻り、琴音は百花と一緒に昼食を取った。
浜辺で百花に説明した通り、ブルグルと厚切りベーコンのサラダ。スープはガスパチョだ。多めに作ってあったので、今日の琴音の賄いも同じものになる。
「テラス席でいただきましょうか」
「うんっ」
琴音の提案に、百花が元気に返事する。透真も空腹のはずなのに、まずは百花の母親に知らせるために療養院へ向かった。療養院の事務室なら、母親の携帯電話の番号が分かるらしい。
「このぷちぷち、なぁに?」
「麦を挽いて割ったブルグルです。といっても想像しにくいですよね」
すでに午後三時を過ぎているので、おやつの時間と言った方がいいだろう。
テラスの上に張った覆いを透かして、柔らかな日差しがテーブルに届く。歩き疲れたであろう百花に、琴音はレモンの入った水を出した。
「ありがとう、お姉さん。いただきます」
グラスの水を飲み干す百花の喉が規則的に動く。琴音はすぐに二杯目の水を注いだ。ピッチャーの中に入った氷が、カランと音を立てる。
「冷たくておいしいねー」
高原なので炎天下というほどではなくとも、汗をかくほどに歩き回ったのだ。これは三杯目もすぐに必要だろう。
琴音はピッチャーをテーブルに置いた。たっぷりと入れた輪切りのレモンの黄色が鮮やかだ。瀬戸内海の島で採れたレモンは、皮も用いることができる。
百花の母は氷を嫌うが、温かいお茶は飲みにくいだろう。琴音はそう考えて、氷も入れておいた。
自分では気づいていなかったが、やはり琴音も喉が渇いていたようだ。レモンの爽やかな風味と澄んだ水が、身体にしみわたっていく。
野菜たっぷりのガスパチョよりも、まず百花は厚切りベーコンを口に運んだ。
「このお肉、おいしい。ベーコンの味がするよ」
「ベーコンですよ」
「え?」
フォークに刺して、かじったベーコンを百花はまじまじと凝視する。
「でもね、ベーコンってぺらぺらじゃないの? もっとうすいよ」
「う、うーん、確かにそうですけど」
琴音はガスパチョをすくっていたスプーンを置いた。一人暮らしをしている時でも、スーパーに行けば売り場に並んでいたのは薄切りのベーコンがほとんどだった。最近は塊のベーコンも見かけるようになったけれど、月光食堂で提供しているものとは味が違う。
食堂で仕入れているお肉屋さんは、ハムやベーコン、ソーセージも作っている店だ。
『うちのベーコンは桜のチップで燻してるんだよ。桜の香りはベーコンを上品に仕上げるんだな。ヒッコリーもいい。これはベーコンに深みを与える。アップルも甘い香りでいいんだよな』
お肉屋さんの店主が、ベーコンを届けてくれた時のことを琴音は思い出した。
燻製を自分でしたことがないので、燻製材によってそんなに味が違うとは思わなかった。
料理によってハーブを使い分けるのと同じようなものだろうか。
「ぺらぺらって、あんまり恥ずかしいことを言わないでちょうだい」
テラスの前から声が聞こえた。向かいの席の百花が、びくりと身をすくませる。
下草を踏み、テラスに上がってきたのは百花の母親だ。あちこち娘を探しまわったようで、スカートにひっつきむしの緑の莢がびっしりとついている。
母親に連絡をして連れてきてくれたのは透真だ。ひっそりと影のように母親の背後に立っている。
「ごめんなさい、ママ。百花、いい子にしてるから。怒らないで」
さっきまでは、座ったまま足をぶらぶらと動かしていたのに。今は両膝を揃えて、百花は肩を落としている。
まるで今から梱包されるかのように、自らの存在を小さく隠すかのように。
「百花」
母親はやるせない倦怠を顔に浮かべた。何かを言いかけて唇を開き、また閉じる。
「百花にとってのママは、怒ってばかり?」
そう尋ねた母親は天を仰いで瞼を閉じた。百花は返事できない。そうだと答えれば、また母の怒りへとつながる導火線に火をつけてしまうからだろう。
「……ごめんね。ママは千華の前で笑顔でいなくちゃって、頑張って。その分、百花のことを……見ようともしなかった。もうずっと、百花に笑顔を見せなかった」
スマホを握りしめた母親の声は震えていた。ぽたり、とテラスの木の床に涙の粒が落ちる。
「ママ、百花にいい子でいるように命令していたね。百花が寂しいのを分かっていて、放ったらかしにしていたんだわ」
母親として接していたのは姉の千華ばかり。妹の百花は健康であることを理由に「あなたは恵まれているから」と、目をかけずにいた。
同じ姉妹でありながら、姉にだけ優しい笑顔を向ける母の背中を、百花はどんなに寂しい思いで眺めていたか。
タイに赴任しているという父親も、祖父母も百花に注意を払わない。
おそらく、母親が千華のことしか話題にしないから。百花は健康でしっかりしているから、気にかける必要もないと思われている。
いるのにいない子、やはり周囲から見えていない子なのだ。
百花は優しい子だから、荒れることもなくただ耐え続けていた。賢い子だから、母親に余裕がないことも理解していた。
病気の子を抱える親は苦しみの中にいる。だが、健康な子もまた孤独の淵に突き落とされてしまう。
ただ、誰もが普通でいたいだけなのに――
カラン、とピッチャーの中の氷が音を立てた。
琴音は新しいグラスに水を注いだ。氷でひんやりと冷えた、レモンの香りの水を百花の母親に「どうぞ」と差しだす。
冷水に母親は一瞬とまどったようだが、すぐに手を伸ばした。「いただきます」と百花と同じように言い、冷たい水を一気に飲み干した。
「……おいしいですね、とてもおいしいです」
母親は両手で空になったグラスを包みこんだ。
「千華のようにならないためにと、百花にはいろんなことを制限してきました。アイスも氷の入ったジュースも、添加物の入った加工食品や菓子も、夜更かしも。千華の病気は生まれつきなのに――どうして私は」
「お母さまは、ご主人の留守を守ろうと必死でいらしたのではないですか?」
琴音の言葉に、百花の母親は一瞬笑みを浮かべた。その笑顔はすぐにくしゃっと崩れ、唇を噛みしめる。
母親の頰を涙が伝う。疲れ果て、琴音よりも随分と年上なのに。母親に、泣きじゃくる少女の姿が重なった。
つらいね、苦しいね。よく頑張っているね。
きっと誰もが欲しい言葉を分かっている。なのに、傷ついた者同士は互いを慰める術を持たない。そして傷ついたことのない者は、相手の苦しみを理解できない。
「鶯が鳴いてる……夏なのに」
ぽつりと百花の母親がこぼした。ようやく夏鶯の存在を、その声を聞き取ることができたのだろう。




