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15、気球を見送って

「ご心配なく。彼女の身分は私が保証します」


 聞き間違えるはずのない低く穏やかな声が、琴音の耳を撫でた。百花を抱きしめたままふり返ると、かすれた色合いの青に大きな葉が描かれたアロハシャツが視界に入った。

 困ったように微笑みながら、胸のポケットから名刺入れを取り出しているのは透真だ。


「月灯り図書館の館長って、療養院の近くにある小さな私設の?」


 名刺を受け取り、訝しげに眉根を寄せていた青年だったが。次の瞬間、大きく目を見開いた。

 記されている名前と透真の顔を、青年の視線が何度も往復する。


「え? 神川透真(かみかわとうま)――同姓同名? いや、写真と一緒だ」

「ご存じでしたか」


 青年は口を閉じることもできずに、はわわわわ、と意味不明な声を発した。


「す、すみません。サインをお願いします。あ、紙がない。この名刺の裏でもいいですか?」


 またがっていた自転車を倒し、青年は両手で恭しく透真の名刺を捧げ持つ。


「ご近所の方ですね」


 アロハシャツの胸ポケットから万年筆を取り出して、透真はさらさらと文字を記した。


「私のことはどうかご内密に。ご存じの方もいらっしゃいますが、私はあくまでも私設図書館の館長なんですよ」

「はいっ。神川さんの仰ることでしたら、口外しません。あー、すごいなぁ。俺も男じゃなかったらあの女子大に入学できたのに」


 青年は立ち去ろうとしないので、透真は「では」と片手を上げた。


「百花さん、月光食堂の予約時間を過ぎていますよ。ね? 琴音さん」


 何が起こったのか分からない百花は、ぽかんと口を開いて透真を見上げている。理解できないのは琴音も同じだが、まずは百花が優先だ。


「ちゃんとランチは置いてありますから。百花さんのすべきことを終えてから、食堂に帰りましょうか」


 琴音は百花のスカートをはたいて、土を落とした。ほどけてしまった左の髪を手早く三つ編みにしてあげる。

 ゴムもリボンもないので、三つ編みの最後の部分に毛先を通す。これで三つ編みがほどけない。


「帰る? 食堂に?」


 ゴムもないのに魔法のように髪を編み終えた琴音を、百花は眩しそうに見つめた。


「はい。百花さんが療養院を訪れた時の家は、月光食堂ですよ。ほら、ご飯を食べるところですからね」

「百花の場所なの? 一緒にご飯を食べていいの? 牛さんたちみたいに?」


 百花は瞳を潤ませた。表情がくしゃっと歪み、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。


 ああ、やはりおおかみが見つめていた牛たちの食卓だ。窓の中には決して入れないおおかみには手の届かないぬくもりだ。


「わたしと透真さんは、ランチのお客さまが帰ったらお昼ご飯を食べているんです。少し時間は遅くなりますが、百花さんもご一緒しましょう」

「うん、ごいっしょする。ももか、いっしょに食べる」


 嗚咽しながら、百花は琴音の腰にしがみついてきた。細い腕なのに、その力は強い、まるで溺れまいとする必死さが伝わってくる。手にした朴の葉は、すでに握りつぶされていた。

 百花には家族がいる……だが、いるからこそ孤独が深いのだ。


「食堂に帰る前に、百花さんのしなければならないことを済ませましょうか」


 琴音の提案に、百花はこくりとうなずいた。透真にはその真意が分からぬようで、腕を組んで小首をかしげている。


 三日月湖の浜は、弓のように湾曲している。家と家の間にある木々の道を抜けると、白砂が広がっていた。

 林は木下闇(こしたやみ)が濃く、アクアマリンの湖と石英の白が(まばゆ)くて琴音は目を細めた。


 足を運ぶたびに、砂がキュ、キュと音を立てる。先を進む透真の足跡はすぐに崩れ、アロハシャツの背中は砂の音と共に進んでいく。


「あの、透真さん。どうして透真さんが歩くと、不思議な音がするんでしょうか」


 思い切って琴音は透真に問うた。琴音も百花も同じように砂浜を歩いているのに、透真のような音がしない。


「ああ、これですか?」


 透真は立ち止まり、右足をすっと横に引いた。また砂が鳴った。


「鳴き砂なんですよ、この浜は。石英の粒ですから、こすれて音がするんです。足を擦るように歩くと、音が出やすいですね。あと、砂が湿っていては音が鳴りません」


 百花と手を繋いでいた琴音は、二人でしゃがんでてのひらを砂に押しつけた。そのまま手を横に動かす。

 キュ、キュ。砂が鳴いた。


「すごい。小さい動物がいるみたい」

「本当ですね。確かに鳴いています」


 さっきまで泣いていた百花は、充血した目のままで笑った。何度も砂の上で手を動かして遊んでいる。


「琴音さんは、夕暮れにお酒を浜辺に運んでいらっしゃいますが。たぶん歩き方と湿気が多い時間のせいで音がしないんでしょうね。鳴き砂にとって需要な条件のひとつが、石英の粒が乾燥していることなんです」


 透真は「見ていてください」と言いながら、足を擦るように歩いた。鳴った。

 今度は歩き方を変えて、強く砂を踏み踵の部分で擦ってみる。砂がさらに鳴った。


「わぁぁぁ、すごい」

「本当ですね、透真さんはお上手ですね」


 感動した百花と琴音が思わず拍手を送った。「いやぁ、それほどでも」と、透真もまんざらではなさそうに頭を掻く。


 湖は海ほどには波が立たない。白い石英の砂を撫でるように、澄んだ水がわずかに寄せては返す。

 琴音と百花は汀にしゃがんだ。


「この三日月湖は空を映した蒼ですから。その葉っぱは空を行く気球になりますね」


 鮮やかな緑の朴の葉は、百花がぎゅっと握っていたせいでところどころ葉や葉脈が折れてしまっているが。それでも百花の顔ほどの大きさがある。


「お姉さん、なんでこれが気球って分かったの?」


 百花は目を丸くして、隣に座る琴音を見上げた。


『やっぱりおおかみ』の最後に出てくる気球みたいに、球皮(きゅうひ)である赤いエンベロープも、人が乗るバスケットも、青い三角の旗も砂袋もついていないけれど。

 おおかみが、自分として生きるしかないと心に折り合いをつけたように。百花もまた、心の一部を気球に乗せて飛ばすのだ。


 おおかみも百花も、つらい現実から飛んで行ってしまいたいと願ったこともあるだろう。琴音自身もそうだ。

 それでも、ここにいる。


「ほら、この葉っぱはレモンみたいな形でしょう? 色は違いますが、おおかみが空に飛ばした気球はレモンのようだったと覚えています」


 あんなにも印象的なシーンだったのに。どうして忘れていられたんだろう。最後におおかみが異質である自分自身を受け入れたのに。本当はこんなにもちゃんと覚えていたのに。


「そうなの! 気球ね、こんなかたちなの」と、百花は身を乗り出した。乗り出しすぎて、琴音もろとも砂浜に倒れてしまった。石英の粒が、ギュっと音を立てる。


「大丈夫ですか?」と、透真が二人を助け起こしてくれる。


「ごめんなさい、お姉さん」

「平気ですよ。ちょっとびっくりしただけです」


 二人分の重さで、どうやら鳴き砂も常ならぬ音で鳴いてしまったようだ。


 そして百花は傷んでしまった葉を湖に浮かべた。百花にとっては遥かな空へ。たゆたいながら、葉の上に水が溜まりながらも、朴の葉はゆっくりと進んでいく。


「け」と、百花が小さく呟いた。

 それは百花にとって儀式だったのだろう。


 友達にも学校の同級生にも似た子はいない。療養院の待合室でずっと座り続けていれば、いつかはきょうだいの見舞いにやってきた子に出会うことができるかもしれないが。寂しさゆえに感情をぶつけ合えば、関係はこじれるだろう。

「け」と、琴音はあえてやさぐれた口調で発した。


 子供が子供でいられる時間は、そう長くはない。百花の母親も琴音の母親も、余裕がなかったのだと分かるけれど。

 聞き分けのよい子を押しつけられてもなお「あなたは恵まれているのだから」と、ほんの少しの我儘すらも許してもらえない。

 他の子は、我儘を認めて抱きしめてもらえるのに。


 自分も百花も一番よく見ている母親は、背中だ。こちらを向いてくれない背中なのだ。


 それでも百花は折れなかった。病気の姉を困らせないように、自分なりの道を模索した。思いやりに溢れる優しい子だから。


「百花さん、わたしには我儘を言ってくださいね」

「わがまま? うーんと、コロッケが食べたいとか? スーパーとかのじゃなくて」

「コロッケ、いいですね。ポテトコロッケとクリームコロッケのどちらがいいですか?」


 コロッケは作るのに手間がかかる。だからスーパーのお惣菜でも人気があるが、やはり自分で揚げたものは一味違う。


「ももかが選んでいいの?」

「はい。ちなみにクリームコロッケはチキンかエビかを選べますよ」

「選べないよー」


 情けない声を百花は出した。


「じゃあ、どれも作りましょうか。次に百花さんがいらっしゃる時は、コロッケ定食にしましょう」

「みっつともなの? ポテトとクリームのチキンと、エビ?」

「はい、三つです」


 やったぁ、と百花の笑顔が弾けた。


 夏なのにひんやりとした水に、琴音は手を浸した。指と手の甲に、水の影が映っている。

 少しずつ沖へと向かう朴の葉には、百花の我慢が載っている。でも委縮し続けるような我慢は流してしまっていい。


 ぐうぅぅぅぅ!

 突然、大きな音が聞こえた。百花がびっくりしたように、自分のお腹に手を当てる。


「え? これ、百花のおなか?」


 空腹である事すら気づかなかったのだろう。つらくとも孤独であっても、泣いていてもお腹は空くのだ。琴音は口もとを緩めた。


「食堂に戻りましょう。一緒にご飯にしましょうね」と、琴音が百花の手を取って立ち上がる。


 さぁぁ、と風が湖面を吹き渡る。浅瀬に生えている木の枝が手を振るように揺れた。

 気球を見送ったおおかみは、不思議とゆかいな気持ちになったのだ。百花も今、何かを手放した。それは愛してほしいという執着かもしれない。


「今日のご飯、なぁに?」

「ブルグルと厚切りベーコンのサラダですけど。難しいですね、説明が」


 百花の華奢な手を、琴音はぎゅっと握った。


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