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14、何も持たずに

「百花さん。百花さん」


 琴音は呼びかけた。走りながらも、呼びかけることはやめなかった。

 母親のように叫びはしない。百花の名を大声で呼ぶのは、避けた方がいいと直感で思った。

 十歳ほどであっても、百花は大人であることを強いられた子だ。絶叫する自分の名を耳にすれば、隠れてしまうかもしれない。


 三日月町の湖岸通りをバスが過ぎていく。終点の別荘地のある集落に向かって。

 浜辺の白砂の照り返しに気温で上昇する。入道雲が湧きあがっている、夕立が来るかもしれない。


 別荘地の入り口で、息の切れた琴音は立ち止まった。急に汗が流れて目にしみた。ハンカチも持ってこなかったので、乱暴に手の甲で汗をぬぐう。


 言葉のイメージだけで、平屋建ての家の前面が上から下まで全部窓、みたいな広大な別荘が並んでいると思っていたけれど。近づいてみると意外とひっそりと小さな建物が多い。

 木々に溶け込むような落ち着いた建物で、それぞれの屋根から煙突が見える部分がふつうの民家とは違う。


 コーン、バララ。コーン、バララと規則正しい音が響く。その音に重なるのは夏鶯(なつうぐいす)だ。


 見れば、別荘の庭で初老の紳士が薪割りをしていた。食堂の常連である柴本(しばもと)さんだ。

 割られた薪が地面に飛ぶたびに、乾いた木の匂いが風に乗る。


「あ、あの。すみません、柴本さん」


 琴音は焦りながら声をかけた。

 昔からある民家は塀があるけれど、別荘として暮らしている人は塀の代わりに家の周囲に木々を植えている。さらに気候が良いので、庭で過ごす人も多い。これならば百花を見かけた人も多いだろう。


「ああ、月光食堂の。こんにちは」


 斧を地面において手袋を脱ぎながら、柴本さんが琴音に会釈する。


「こちらに女の子が来ませんでしたか? 小学生で……十歳くらいです」


「んー」と、柴本さんはあごに手を当てて考えた。


「そうだな、子供が薪割りを眺めていたけど。すぐに奥の方に駆けていったよ。何? ぼくも捜そうか?」

「いえ、今はわたしだけで大丈夫です。ありがとうございます」


 よし、まだいける。

 百花はそう遠くには行っていない。追いつくことは可能だ。琴音はこぶしを握りしめた。


 湖畔の道をさらに進む。

 何軒かの住人は、やはり庭でお茶を飲んだり本を読んで過ごしていた。誰もが「確かに女の子が立ちどまって、こちらを眺めていた」と教えてくれた。

 そして「どうかしたの? 一緒に行きましょうか?」とも。


 透真が推測した通りだ。百花はおおかみの行動をなぞっている。

 琴音は絵本の内容を思い出していた。そして、透真が呟いた言葉――なぜひとりきりのおおかみが、孤独の苦しみから解放されたかも。


『おおかみは墓地で寝そべって、幽霊の群れを眺めているんです。その墓碑銘は「ビートルズ」であったり、その中の「リンゴ・スター」。他には「エルビス」であったり。いわゆるロックですよね』


 大人になってから『やっぱりおおかみ』を再読していない琴音は、英語で書かれた墓碑銘など覚えていなかった。そもそもお墓に刻まれた名前を読もうという考えすらなかった。


 おおかみの反骨精神が分からずとも、あの絵本は孤独な子供に寄りそってくれる。たった一冊の本が救いになることはあるのだ。


 それでも百花が知っているのは療養院から月光食堂、月灯り図書館までの距離だ。それ以外の知らぬ土地で迷えば、どんなに不安だろう。


「どうした? 迷子なのか?」


 別荘地を外れた林道から、大きな声が聞こえた。琴音は急いで声の方へ走った。


「泣いてたら分からないよ。どうする? 駐在さんのところに行く?」

「どうしたんですか?」


 見れば、自転車にまたがった青年が百花を見下ろしていた。百花は砂利道にへたりこんで、うつむいている。右の髪は三つ編みで、けれど左はほどけた状態だ。藤色のリボンも右にしか結んでいない。

 百花は手に大きな(ほお)の葉を握りしめていた。


「いや、この子が飛び出してきてさ。スピードは出してないし、ぶつかってないんだけど。ほら、迷子なら警察で保護してもらった方がいいだろ?」

「ぶつかって、ない。ももか、へいき」


 しゃくりあげながら、百花は訴えた。


「まいごじゃない……いい子で、おさんぽしてた、だけだもん」


 細い肩を小刻みに震わせながら、必死に説明を続ける。暑い中を歩き続けたからだろう、百花の前髪はひたいにはりついている。

 そうだ、決して百花は迷子になったわけではない。自らの意思で進んだのだ、どこまでもどこまでも。


「わたしはあちらの月光食堂の店主です。この子は、わたしの知人ですので、保護者に連絡をしてお店で一緒に迎えを待ちます」

「いや、そう言われてもさ。あの食堂って、休業中じゃなかったっけ? それに店主ってもっとご高齢だったし」


 え? 

 百花を抱きしめながら、琴音は固まってしまった。


「身分証明書とか持ってる? いきなり『知人です』って言われてさ、後で事件があったら後味悪いし」

「わたしが誘拐するとでも?」


 想定外の言葉に、琴音は唇がわなないた。急いで店を飛び出してきたから、何も自分が自分であることを証明するものを持っていない。

 身分証明書代わりの免許証どころか、スマホも置いてきてしまった。


「ちが、お姉さん、ももかのおともだちだもん」

「うん、まぁ問題ないとは思うけど、一応ね。ほら、最近物騒だし」


 青年の対応は決して間違ってはいない。けれど、まさか自分が疑われる方に回るなんて思ってもみなかった。


「駐在さんのところに行けば、何も問題ないんだし。ね? すぐにお父さんかお母さんが迎えに来てくれるよ」


 あるんです、警察だなんて問題だらけです。これは百花さんが、自分の抱えた孤独に埋もれていかないための儀式なんです。

 その説明を、果たして誰が納得してくれるだろう。

 このまま百花の手を繋いで逃げれば、琴音は不審者扱いされてしまう。けれど、最後まで百花の冒険を遂げさせてあげたい。

 たとえ一キロに満たない距離であっても、百花にとっては大事なミッションなのだ。

 きしっ、と音がした。道の砂利が踏まれる音が近づいてくる。


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