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13、やっぱりおおかみ

 もし百花が森に入ってしまっていたなら大変だ。三日月湖周辺には道路があり、民家もあるが。森の奥まで進んでしまうと道もないので、子供ならば迷ってしまう。


「ぼくはまず図書館を見てきます。今は休憩中なので利用者は中に入れませんが、もしかすると百花さんがいるかもしれません」


 月灯り図書館へと続く小道を進む透真に「待ってください」と琴音は声をかけた。

 遠く「ももかーっ!」と叫ぶ母親の声が聞こえる。

 手がかりもなく無闇に探しても、たぶん見つからない。百花の母は心配して娘の名を呼んでいるが、きっとまた怒られると百花は隠れてしまうかもしれない。


 さびしい――

 琴音といる時の百花は笑顔だったけれど。母親と一緒の時は全身で寂しさを訴えていた。


「透真さん。図書館は個人情報を守らないといけないことは、わたしでも知っています。たとえ親に尋ねられても、子供の借りた書名は教えない。そうですね?」

「え、ええ。よくご存じですね」


 足を止めた透真が、琴音に向き直った。


「個人の特定を追求しませんので答えてください。長く入院している女の子は、ルドルフのように家に帰りたいと思いますよね。そしてその子にきょうだいがいれば、家にもどこにも居場所がないままに、心が彷徨(さまよ)いますよね」


 風が吹き、さわさわと木々の葉を揺らした。木洩れ日の下で透真が緑に染まる。


「『ルドルフとイッパイアッテナ』と一緒に返却された本のタイトルを教えてください。主人公が影そのものの絵本です」


 主人公の特徴的なセリフがある。それを百花は口にした、たった一言「け」と。

 ためらいながら透真は口を開いた。


「『やっぱりおおおかみ』です」


 透真の言葉に、琴音の脳内に色が溢れた。

 小学生の頃に図書館で読んだ絵本が鮮やかによみがえる。


 どのシーンも忘れていただけで、記憶には残っていた。


 少しくすんだ色合いのヨーロッパ風の石造りの街を、すれた様子でさまようオおおかみ。全身真っ黒なオおおかみの子供は、たった一匹の生き残りだ。

 ウサギの街に、ブタでにぎわう市場に、シカが憩う公園。ヤギの教会に幽霊の集まる墓地。幽霊ですら仲間がいるのに、おおかみには仲間がいない。


 ――おれににたこは いないかな。

 ――おれににたこは いないかな。

 ――おれににたこは いないんだ。


 そしておおかみは「け」と言う。いきがった、けれどやるせない一言を吐くのだ。


 図書館で本を選んでいる子供たちは、貸出手続きを終えると親のいる家へと帰る。

 琴音が帰るのは修道院だ。シスターたちが「おかえりなさい、琴音ちゃん」と迎えてくれるから、寂しさも紛れるけれど。

 琴音に背中を向けた母親は、会いになんてきてくれない。


「作者の佐々木マキさんは、『け』には侮蔑、拒否、あこがれ、寂しさ、負け惜しみといった様々な思いが、たった一音に含まれていると書いていらっしゃいました」


 透真は、かつて読んだことがあるという五十年以上も前の『こどものとも』の付録についていたエッセイのことを教えてくれた。


 ああ、だから百花はあの絵本を読んでいたのだ。琴音は重なり合う葉の隙間の向こうの、狭い空を見上げた。

 病葉(わくらば)だろうか、緑あふれ重なり合う葉の中に、茶に変色した葉が一枚見える。


 病と闘わねばならない子に目も心も気配りも、すべて向いてしまうのは理解できる。けれど、ふつうの子は蔑ろにされて平気なはずがない。


 子供でいられるはずの期間をすべて抜かして、聞き分けのいい大人でいられるはずがない。どこかで破綻してしまう……今の百花のように。


「百花さんは、おおかみのようにどこかに自分と同じ子がいるかもしれないと。そう思いたかったのではないでしょうか」


 琴音は自分の二の腕を掴んで思案した。

 おおかみはいろんな場所で仲間を探した。百花も療養院や月灯り図書館、月光食堂で同じ境遇の子を求めたに違いない。


 でも、いなかった。

 インビジブル――表に出てこない、いるのに気づかれない。


 病気の子は「可哀想だ」と目立つのに、その影の中にひっそりと膝を抱えてしゃがみこむきょうだいの姿に目を向ける人はほとんどいない。誰も手を差し伸べない。むしろ疲労困憊した母親が、その子に当たり散らすこともある。


 じゃあ、健康だからと放置された子供はどうしたらいいの? 病気じゃないから幸せだと刷り込まれて、本当は不幸なのに。


「三日月湖周辺には、街並みはありません。市場もメリーゴーランドのある公園も」


 何が言いたいのだろうか、と琴音は透真の続く言葉を待った。


「ですが、家はあります。あちらに」


 透真は木々の間から見える、青い三日月湖を指さした。


「家、ですか?」

「はい。『やっぱりおおおかみ』の中には、おおかみが夕食時の牛の家を見つめる絵があります。暖炉に火の入った食堂で、牛の家族が夕食を囲んでいるんです」

「確かにありました。覚えています」


 テーブルに着いた牛はパンにバターを塗ったり、スープをスプーンですくったりしていた。前面に真っ黒なおおかみの子供がいて、とても……とても寂しそうだったのだ。


 おれはここにいるよ。どこかに君はいないの?

 おおかみはそんな言葉を吐かないけれど、全身で虚しさと孤独を訴えている。そして、結局誰も仲間はいないと悟り、むしろ愉快な気持ちになるのだ。


 なぜおおかみは悲しみの水底に沈んでしまわなかったのか。透真は、自分の考えをぽつりと呟いた。

 同じ絵本を読んだことがある琴音は、透真に指摘されるまで気づくことはなかった。

 なぜなら英語が記されたその絵は、決して子供に分かるものではなかったからだ。


「ぼくが百花さんの立場なら、おおかみの行動をなぞります。そうすれば、独りなのは自分だけじゃない、おおかみも一緒だと思えますから」


 それは寂しさを知っている人の言葉だった。


「わたし、別荘地に行ってきます。透真さんは図書館の方をお願いします」

「はい。お気をつけて」


 透真は一緒に行くとは申し出なかった。それが琴音には嬉しかった。自分を信じてもらえていることと、何人もで捜索すれば百花は逃げてしまうかもしれないからだ。


 空は眩しく、湖面は太陽の光を反射してきらきらと輝いている。バス停に向かう人たちが、走る琴音を不思議そうに眺める。


 療養院の入り口で、看護師に付き添われた少女が佇んでいた。ピンクのパジャマを着た痩せた少女が歩き出そうとすると、慌てて看護師が止める。


「無理をしちゃいけないわ。退院の日が伸びたら困るでしょ」

「でも。わたしが……」


 少女の肩に手を置いて、看護師は療養院の中へと彼女を誘導した。

 もしかして、と琴音は思ったが。まずは百花を探すのが先決だ。

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