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突然の思いつきで始めた旅から、一週間ぶりに屋敷へ戻った。
すると、意外なことにガウルの機嫌がいい。
「いやあ、殿下。ピスターチュは最高です」
「ピスターチュって、なんだ?」
「殿下が置いていった娘ですよ」
「ああ、あの娘か。……えっ、なに? お前、あの娘に手を出したのか?」
思わずガウルの顔をまじまじと見た。
「何歳離れていると思ってるんだ。引くわー」
「そんなわけないでしょう」
呆れた目で見返された。
「じゃあ、なにが最高だったんだ?」
「論より証拠です。まずは殿下も、ピスターチュの業を受けてみるべきです。一発で昇天しますよ」
「……本当に手を出してないんだろうな?」
念のため、もう一度確認する。
「手を出されたのは、こっちです」
「何を言ってるんだ、お前は」
さっぱり要領を得ない。これ以上付き合っていても時間の無駄だ。
「もういい。あの娘はどこにいる?」
「三階の奥の部屋を与えました」
「大層なもてなしじゃないか」
そこは客間の中でも一番いい部屋だった。薄汚れた娘に与えるような部屋ではない。
もっとも、俺は一週間も屋敷を空けていたのだ。その間に何があったのか、実際に見てみるのが早いだろう。
旅装も解かずに、ピスターチュのいる部屋へ向かう。ガウルも当然のようについてきた。
「それで、殿下は一週間も何をしていたんです?」
「ちょっとした調べ物だ」
「何を調べていたんです?」
「後で話す」
これ以上の追及を避けるため、目的の部屋の扉をノックした。
「どうぞ」
返ってきた声には、以前よりも張りがあった。
扉を開けると、そこには見違えるような少女がいた。
髪も身体も、きれいに磨き上げられている。身につけているのは庶民向けの粗末な服だが、それでも隠しきれない気品があった。十分な食事を取ったおかげか、やつれていた顔には生気が戻り、虚ろだった瞳も今はまっすぐこちらを見据えている。
なるほど。人間、磨けばそれなりになるものだ。
「あら、お帰りになられたのですね」
少女は椅子から立ち上がり、丁寧に頭を下げた。その動きに合わせて、金色の髪がさらさらと流れる。
「このたびは助けていただき、ありがとうございます。感謝の言葉もございません」
「すっかり元気になったみたいだね」
「おかげさまで。名乗るのが遅くなりました。私、イバド・ピスターチュと申します」
「ふん」
その名を聞いて、鼻を鳴らした。
「恩人だと思うなら、偽名を使うのは失礼だと思わないかい?」
「あら」
少しは怯えるかと思って声を落としたのに、少女は呑気に目を丸くした。
「私の名前をご存じなのですか?」
「リナート国で国外追放された伯爵令嬢なんだろう。この国でも有名人だよ」
「そうなのですね」
少女はわずかに困った顔をしたものの、すぐに微笑んだ。
「しかし、私は国外追放された際に、伯爵家からも追放を告げられました。ですから、もう伯爵家を名乗ることはできません。そうなれば、両親からいただいた名前を使うのもよくないと考えたのです。イバド・ピスターチュは偽名ではなく、新しい私の名前なのです」
そこには、少なくとも本人なりの覚悟が感じられた。薄暗いものなど何もないと言わんばかりの、まっすぐな言葉だった。
「なるほど。筋は通っている」
きれいにまとまりすぎている気もするが。
俺はピスターチュの向かいに腰を下ろし、彼女にも座るよう促した。
「ご立派な考えだが、そんなことを考えられる君が、どうして国外追放されるようなことをやらかしたんだい?」
「それは……」
少女は言葉に詰まり、やがて、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あの時は、王子に婚約を解消されそうになっていて、混乱していたんです。どうすればいいのか分からなくて、誰に相談すればいいのかも分からなくて……。そんな時に、いろいろと教えてくださる方がいたんです。聖女に犬をけしかけたり、媚薬を使って王子を誘惑したりすればいい、と」
そこで一度、言葉を切った。
「今は、バカなことだったと自分でも思います。でも、あの時は必死で、そうするしかないと思っていたんです。まさか、あんな大騒動になるなんて……。お父様にもお母様にも、大変な迷惑をかけてしまいました」
苦しそうに胸の内を吐き出す姿は、確かに人の心を打つものがあった。
後ろに立つガウルなど、すでに涙を流している。
お前は本当に、そんなに簡単に感動してしまう男だったか?
「反省しているのかい?」
「もちろんです。その証が、イバド・ピスターチュです」
「どういう意味なんだい?」
「何の意味ですか?」
「君の新しい名前の意味だよ」
「ああ、それはですね……」
少女は頬を赤らめ、手で顔を隠すようにしながら、もじもじとした。
「好きなお菓子の名前をもじったんです」
「お菓子……」
少女らしい発想と言うべきなのだろうか。
先ほどまで語っていた覚悟とは、ずいぶん距離があるように思える。
「甘い生活を送りたいってことか?」
「いえ、いえ、そんな意味を込めたわけではなくて……。またそのお菓子を食べられるような生活に戻れるよう、頑張ろうという意味で……」
「はは……」
思わず苦笑が漏れた。
どれだけ賢しげなことを口にしたところで、結局は世間知らずの少女なのだ。いや、少女というより、まだ子供なのかもしれない。
「君が国外追放された理由は分かった。それで、なぜ貧民街の裏路地でうずくまっていたんだい?供の者はどうした?」
国外追放とはいえ、貴族の娘を着の身着のまま放り出したりはしない。普通なら親戚や縁のある者に預けるものだ。伯爵家ともなれば、この国にも何らかのつながりがある家があったはずだ。ピスターチュも、そこへ身を寄せることになっていたのだろう。
「街道で山賊に襲われたのです。従者が私を逃がしてくれました。その後、従者がどうなったのかは分かりません。再会することもできず、森をさまよっているうちに、この町へたどり着きました」
少女は暗い表情で答えた。
「どこへ行くつもりだったんだ?」
「それが……恥ずかしい話なのですが、お世話になるはずだった方のお名前を覚えていなかったのです。いろいろとショックなことがありすぎて、それどころではありませんでしたし……。まさか山賊に襲われるとも思っていませんでした」
旅人が山賊に襲われるとは、国の治安にも問題がある。とはいえ、俺が国を代表して謝る義理はない。
それよりも、ガウルが「かわいそうに」と泣いているのが鬱陶しい。
「警備隊には届けなかったのかい?」
「それは……この町に入る際、正式な入口を使わなかったものですから。警備隊のお世話になるわけにはいかなかったのです」
こんなに鈍くさそうな少女の侵入を許すとは、警備隊はいったい何をやっているんだ。
「この国でも、すでにお尋ね者なのか?」
「そんなことはありません。こっそり入ったので、誰にも気づかれていませんし、誰からも尋ねられていません」
理屈は通っている。
威張って言うことではないが。
「でも、町に入れたのはよかったのですが、頼れる人もおらず、お金を稼ぐこともできず……。お腹が空いて動けなくなったところで、あなた様に声をかけていただいたのです」
「なるほど。だいたいの事情は分かった」
そう言って納得したふりをしたが、分からないこともある。
ピスターチュが向かうはずだった家だ。国外追放されたとはいえ、伯爵家の娘を預かるのだから、それなりの格式のある家だったはずである。
娘が予定どおりに到着しなければ、心配して警備隊に捜索を依頼するなり、何らかの手を打つなりするだろう。
しかし、俺が調べた限りでは、そんな痕跡は見当たらなかった。
そもそも、そんな家は本当にあったのだろうか。
疑問は尽きないが、今はひとまず飲み込んでおく。
「なかなか苦難の多い人生を歩んでいるようだ。それで、これから君はどうしたい?」
「あら?」
少女は意外そうに目を丸くした。
「ずっと、こちらに置いていただけるのではないのですか?」
けろりと、ずいぶん厚かましいことを言う。
「腹が減っているならついておいで、と言っただけだよ。これから先、ずっと無銭飲食を許せるほど、うちは裕福じゃない。ここにいたいなら、何か仕事をしてもらわなくちゃいけない。得意なことはあるのかな?」
「飛び切りのものがあります」
背後に立っていたガウルが、待ってましたとばかりに声を張り上げた。
「マッサージです」
「……それって、性的なやつか?」
さっきから一発で昇天するとか、妙なことばかり言っている。
「こんなお嬢さんを前にして、何を言っているんです。健全なマッサージに決まっているでしょう」
「決まっているって……普通の伯爵令嬢はマッサージなんかしないだろう」
「そこには感動の物語があるんですよ」
こいつ、いつからこんなに涙もろくなったんだ。
ガウルに促され、ピスターチュが少し困ったような顔で説明を始めた。
「昔、王子が暴れ馬から私をかばってくださったことがあるんです。でも、その時に王子は大怪我をしてしまいました。医師たちが必死に治療をしたのですが、身体に麻痺が残ってしまって……。少しでも痛みを和らげてあげられないかと思って、マッサージを習ったのです」
「立派な心掛けではあるが、ご両親は何も言わなかったのかい?」
「最初は驚かれていましたけれど、反対はされませんでした。だって、王子のためですから」
目を細め、口元に笑みを浮かべる。
どうにも、嘘っぽい。
だから、少し意地悪をしてみた。
「でも、王子様には捨てられたんだろう?」
「そうですね。だって、あの女は癒やしの力が使えましたから。怪我はすっかり治って、私のマッサージなんか必要なくなりました」
朗らかに、笑顔のままで言う。
怖い。
本当に怖い。
申し訳ありませんでした、と心の中で土下座した。
「物は試しです。殿下もピスターチュにマッサージをしてもらえば、一発で分かりますよ」
「お前がそこまで言うなら……頼めるかな」
一週間の旅から帰ってきたばかりで、身体はくたくただ。正直、あちこちが悲鳴を上げている。
たとえ腕が拙くても、マッサージをしてもらえるならありがたい。
「構いませんけれど……まずは埃を落として、さっぱりされてからの方がよろしいかと思います」
「それはそうだな」
荷物を下ろしただけで、まだ旅装すら解いていない。
「では、後ほど頼む」
どっこいしょ、と心の中で呟いて立ち上がる。
「はい。お待ちしております」
ピスターチュは立ち上がり、俺を見送った。
その姿を、改めて眺める。
細く白い腕。節の目立たない、すらりとした指。
どう見ても、マッサージが得意な人間には思えない。
若い娘に施術してもらったというだけで、ガウルが贔屓目に見ているのだろう。
この時の俺は、まだそう思っていた。
まじで飛んだ。
この女、やばい。




