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裏路地で悪役令嬢を拾った。
元は隣国の伯爵令嬢だったらしい。国家転覆を企てた罪で国外追放されたという、なかなかに物騒な経歴の持ち主である。
もっとも、目の前にいる少女は、国家どころか自分の身ひとつ満足に支えられそうになかった。薄汚れた衣服。痩せこけた頬。生気の失せた横顔。なるほど、これがかつて伯爵令嬢だったと言われても、にわかには信じがたい。
「国外追放されるって、いったい何をやったんだい?」
「なにも、やってません……」
少女は消え入りそうな声で答えた。
なるほど。こういうとき、人間というものは決まってそう言うらしい。俺だって、もし憲兵に踏み込まれたら、まずは身に覚えがないと言い張るだろう。身に覚えがないわけではないが、だからといって正直に話す義理もない。
「あの人に、犬をけしかけたぐらいで……」
「犬か。スピッツなんかは、ああ見えて結構獰猛だからね」
「スピッツ?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「けしかけたのはブラックハウンドです」
「それは犬じゃなくて、立派なモンスターだね」
「そうなのですか? 確かに、犬にしては大きいなと思いました」
驚いた。
ブラックハウンドを少々大きな犬と認識できる、その無邪気さに驚いた。いや、無邪気という言葉で片づけていいものかどうか。
「まさかとは思うけど、王子から婚約を解消されそうになって、王子を誘惑するために媚薬を手に入れた。それを飲ませようとしたものの、ことごとく失敗。そのうち業者から代金を請求され、払えないものだから、余った媚薬を国内にばらまいたりした?」
「なんでご存じなんですか?」
少女は目を丸くした。
「隣国の大スキャンダルだからね。この国にまで噂が流れてきている。君、そんなことも知らなかったのかい?」
「……そんな余裕はありませんでした」
少女は疲れ切った顔を膝のあいだに埋めた。
どうやら本当らしい。
これだけ世間を騒がせておいて、当の本人は噂ひとつ耳にしていないというのだから、世の中というものはなかなか面白くできている。
もっとも、同情するつもりはなかった。
俺はこの少女のせいで大損をしたのだ。
正確に言えば、少女が注文した媚薬の代金を回収できていない。商売には成功も失敗もある。ましてや、まともな看板を掲げられない商売なら、こういうことも珍しくはない。失敗したからといって、いちいち客を恨んでいたら身がもたない。
ただし、失敗した相手が向こうから転がり込んできたとなれば、話は別だ。
これは天の配剤というやつだろうか。それとも因果応報か。
どちらでもいい。大事なのは、この少女が何かしら金になるかもしれないということだ。
改めて、少女を眺めた。
あまりに汚れているので、さすがに部屋には上げられない。仕方なく、厨房の床の片隅に座らせてある。今の状態では、顔立ちすらよく分からなかった。
しかし、元が伯爵令嬢なら、磨けば多少は見栄えがするだろう。身なりが整えば、貴族社会に伝手のある人間に売り込めるかもしれないし、別の使い道も見つかるかもしれない。
いや、別に人身売買をしようというわけではない。俺だって、そこまで無節操な人間ではないのだ。
ぐう。
盛大な音がした。
俺ではない。少女の腹だった。
「あ、あの……」
少女はおずおずと顔を上げた。
「ご飯をいただけるというから、ついてきたのですけれど」
「ああ、そうだったね」
道端でうずくまっていた少女に、飯を食わせてやると言ったのは俺だった。
そして、少女は何の疑いもなくついてきた。
警戒心というものを、どこかに置き忘れてきたのだろうか。ここは貧民街だ。善人もいれば悪人もいる。だが、弱っている人間を見つけて、親切心から手を差し伸べる人間ばかりではない。むしろ、弱っているからこそ狙われる。
それくらいのことは、子供でも知っている。
……いや、知っているからこそ、子供でも用心するのだ。
「困ったことに、この家には食料が残っていなくてね」
嘘ではない。俺だって腹が減っている。
「もう少しすれば、家の者が買い物から戻ってくる。それまで待っていてくれるかな?」
「はい……。では、せめてお水をいただけませんか?」
「水か……」
水もない。
正確には、水甕に雨水が残っている。しかし、さすがにあれを飲ませるのは気が引けた。俺だって飲みたくない。
となれば、ほかに出せるものはひとつしかない。
俺は立ち上がり、戸棚から水差しを取り出した。中身を木製のジョッキに注ぐ。琥珀色の液体が、薄暗い厨房の明かりを受けて揺れた。
少女のそばにジョッキを置くと、彼女はびくりと肩を震わせた。
そんなに怯えなくてもいいだろう。別に殴るわけではない。
俺は椅子に戻り、自分のジョッキを傾けた。
「これは、お酒ではありませんか?」
少女はジョッキを両手で持ち、疑わしそうに中を覗き込んだ。
「そうだよ。嫌いかい?」
「飲んだことがありません」
「へえ。君の国の貴族は上品なんだな。この国じゃ、貴族の子供でも若いうちから酒を覚えるものだけど」
「皆がそうというわけではありません。王子には、付き合いが悪いと言われていました」
なるほど。酒の席に付き合わない婚約者というのは、王子様にとって面白くなかったのかもしれない。
いや、そんなことはどうでもいい。
「まあ、無理して飲む必要はないよ。空きっ腹に酒を入れるのは身体に悪いからね」
「そうなのですか?」
少女は素直に頷いた。
そして、しばらくジョッキの中を眺めていたかと思うと、突然、それを口元に運んだ。
ごくり、ごくり。
飲んでいる。
しかも、一気に。
止めようとしたときには、もう遅かった。
俺は呆気にとられたまま、空になったジョッキを見つめた。最近、こういうとっさの場面で身体が動かなくなった気がする。歳は取りたくないものだ。
「……まずい」
少女は低い声で呟いた。
次の瞬間、ジョッキが床に叩きつけられた。
がしゃん、と派手な音が厨房に響いた。
俺は情けないことに、びくりと肩を跳ねさせた。
「まずいなあ……。お父様たちは、どうしてこんなまずいものを、おいしそうに飲んでいらしたのかしら……」
少女は首を傾げ、目をぱちぱちさせた。
「なんだか、世界が揺れて……。あら、回っているのは世界? それとも私? ああ、もう、なにがなんだか……」
言葉がだんだん怪しくなっていく。
やがて少女は、座ったまま上半身を左右に揺らし始めた。
「もう、らめぇ……」
ばたり。
そのまま床に倒れ込んだ。
「言わんこっちゃない」
初めて酒を飲んで、いきなり一気飲みとは。なかなか豪快な娘である。
もっとも、豪快というより、ただの無知なのかもしれない。
そのとき、厨房の扉が開いた。
「殿下、帰っていらしたんですか?」
大きな荷物を抱えた男が入ってきた。ガウルだ。背が高く、鍛え上げられた身体つきで、白いものの目立つ髪をきれいに後ろへ撫でつけている。
「うわっ、くさっ! ……って、なんです、このぼろ雑巾みたいな娘は」
「さっき、そこで拾ってきた」
「なんでもかんでも拾うもんじゃねーって、いつも言ってるでしょう」
「なんでも拾っているわけじゃない。なにか使えそうな気がしたんだ」
「気がした?」
ガウルは、床に転がる少女と俺を交互に見た。
「なにに使うんです?」
「それをこれから考える」
「考えてから拾ってくだせーよ」
まったく、うるさい男だ。
「とりあえず、汚れを落としてベッドに運んでくれ。目が覚めたら飯を食わせてやれ」
「汚れを落とすって、どうやって?」
ガウルは少女を見下ろし、困ったように眉を寄せた。
なるほど。いくら粗暴な男でも、見知らぬ少女の衣服を脱がせるのは気が引けるらしい。
「それくらい自分で考えろ。それと、俺の飯の準備も頼む」
「両方は無理です。飯は買ってきたものから探すか、どこかで食べてきてください。まったく、人使いが荒い。……イライジャに頼むしかないか」
ぶつぶつと文句を言いながら、ガウルは部屋を出ていった。
俺は立ち上がり、荷物から転がり落ちたリンゴを拾った。袖でごしごしと拭いて、かじりつく。
酸っぱい。
歯にしみる。
やはり、歳は取りたくないものだ。
頬をさすりながら扉へ向かい、ふと振り返った。
少女は床に横たわったまま、穏やかな寝息を立てている。先ほどの騒ぎが嘘のようだった。
無防備なものだ。
この町で、そんなふうに眠れる人間はそういない。ましてや、ついさっきまで正体の知れない男と二人きりだったのだ。
もっとも、俺が善人である保証など、どこにもないのだが。
「……寝顔はかわいいじゃないか」
口にしてから、自分でも少し意外に思った。
まあ、いい。どうせ明日になれば、もう少しまともな顔を拝めるだろう。そのときに、こいつの使い道を考えればいい。
俺は扉を閉めた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
この無防備で、世間知らずで、妙なところで豪快な少女が、これから俺の生活をどれほど引っかき回すことになるのかを。
そして、俺自身がその騒動を、いつの間にか手放せなくなってしまうことも。




