第八話 キーボードとアンコとの再会
1989年末、日経平均株価が3万8915円の史上最高値を記録し、平成元年は華々しく終わった。薔薇色の未来が待っていると、誰もがそう思って疑わなかっただろう。
1989末 日経平均ピーク
年末に両親と祖母がバタバタと走り回る慌ただしい空気の中、こたつに入ってみかんを剥きながら、和子は暗澹たる気持ちだった。由恵の年表が正しければ、『1990 バブル崩壊』がやってくるのだから。
「バブル崩壊か……」
和子が思わず声に出すと、こたつの反対側で寝そべっていた由恵がひょっこりと顔を上げた。
「でも、姉ちゃん、木本家はそもそも株を持ってない。土地もこの家の狭い土地だけ。そしてお父さんは市役所勤務だ。そもそもバブルの恩恵を全く受けてないじゃないか」
由恵の言う通りである。あの日父が証券会社の扉を開けなかったから、木本家はバブルの恩恵を受けていない代わりに、バブル崩壊の影響も大きく受ける心配はなかったのである。もちろん景気が悪くなれば、遅効性の毒のようにこの田舎に影響はいずれ及ぶのだろうが。
1990(平成2)年が明けた。新年の日経平均は急落で始まった。
ただ意外なことに、和子や由恵の日常には大した変化もなかった。由恵が言う通り、木本家は株を持っていないし、土地の暴落はまだ始まっていないようだった。テレビのニュースで日経平均の暴落が取りざたされても、木本家には特に影響はないのだった。
「私、バブル崩壊って、もっとこう、ハルマゲドン的にドーンと来て、大パニックになるみたいな類のものだと思ってた」
和子が言うと、由恵も頷く。
「今のところ、誰もこれが長い不況の始まりだとは思ってないよね。何年か経って振り返った時にやっと、あれがバブルだったこと、バブルが崩壊したことに気づくんだろうな」
歴史の教科書に載るような出来事は誰も気づかない程に静かに始まったのであった。
***
1991(平成3)年、由恵は小学校に入学した。和子は五年生になり、集団登校の登校班の班長になった。
「班長は姉ちゃんかよ。私には、『班長さんは王子様だった』系イベントは用意されないのか……」
由恵は恨めしそうである。だが、和子は由恵の小学校入学が嬉しかった。登下校や学校で、二人きりで話すことができる時間が増えたのだ。和子と由恵は「木本姉妹は非凡である」と先生達の噂に上りつつも、突出し過ぎないよう慎重に小学生生活を送っていた。
そんなある日、父が家電量販店の大きな袋を抱えて帰ってきた。
「なんだと思う?和子、由恵、箱から出してごらん」
父はニコニコとご機嫌である。二人で箱から出そうと四苦八苦するが、ずっしりと重い。由恵が袋を抑えて、和子が引っ張り出した大きな箱に書かれた文字は『TOSHIBA パーソナルワープロ Rupo』
「ワープロたい。今じゃ市役所でもワープロが使えて当たり前だけんな。家にもあったら便利だと思って買ったったい」
箱から取り出されたワープロはノートパソコンより一回り大きい。父が何かを取りに書斎に行った隙に、ワープロの画面を開いた由恵が言う。
「分厚っ!ベゼル広過ぎで、液晶ちっちゃ!」
「いや、でもこれすごいんだよ。後ろに感熱紙を差し込んで印刷ができる」
和子が言うと、由恵は画面を傾けてワープロ後部のプリンター部分を確認した。
「まじか!すごっ!ある意味、ノートパソコンより進んでるじゃん!」
和子は父にワープロを使わせてもらった記憶がしっかりと残っているのだが、由恵にはワープロは新鮮らしい。子供の頃の四学年差はなかなか大きかったのだなと和子は改めて思い知った。大人になってからは友達のように過ごしていて、下手すると由恵の方がしっかりしていて怒られたもんだけど、実はしっかりと妹なんだな。ワープロを見つめる幼い横顔を見ながら和子は思った。
家事をしていた母と祖母も興味津々で居間に集まってきた。父が鼻高々でデモンストレーションを始める。
「こうやって電源を入れるだろ?」
グレーの液晶に文字が表示されると、わっと母と祖母が声を上げた。木本家にテクノロジーが届いた瞬間である。
文書作成ソフトを開いて父が文書を入力し始めたが、ブラインドタッチができないので、これがなんとも遅い。ローマ字入力ではなく、かな入力をしている。
「おっそ……」
由恵は何も言わなかったけど、和子には由恵の心の声が確かに聞こえた。
父が十分以上掛けて打ち込んだ数行の文書を感熱紙に印刷すると、母と祖母からは感嘆の声が漏れた。ワープロの前にはタイプライターが長いこと幅を利かせていて、タイピストとして専門の勉強をした人しか使えなかったというから、二人が驚くのも無理はない。
「現代まで先が長すぎる……」
由恵はそう溜息を吐いていたが、和子は久々に再会したワープロに少しだけ胸が高鳴ったのだった。
父は購入したことですっかり満足したらしく、そんなに頻繁にはワープロに触らない。ワープロにぴったりなサイズのバッグを祖母がキルティングの生地で誂えてくれたので、たまに持って出かけていたが、購入から一年程が経った頃には和子の方が使う頻度が高くなった。使い勝手がパソコンとは違うので最初は戸惑ったが、すぐに慣れた。
文書作成してそれを印刷する。もしくはフロッピーディスクに保存する。それくらいしか使い道がないのだが、久々のキーボードの感触は心地よかった。
「子供は何でもすぐ覚えるな!」
父は和子のタイピングの速さに驚愕していたが、子供の飲み込みの早さだと勝手に納得してくれた。小学二年生の由恵がローマ字入力をするのはさすがにまずかろうと、由恵は和子と二人の時にだけ、こっそりワープロを触って、頭の中の年表を打ち出してみたりしていた。
***
1991(平成3)年の夏、由恵が和子に尋ねた。
「ねえ、ねえちゃんそろそろ修学旅行でしょ?いつからなの?」
「突然どうした?9月30日からの一泊二日だけど……?」
和子がカレンダーを見ながら答えると、由恵は「もうすぐか」と呟き、その前日の29日に赤い丸を付けた。
「姉ちゃん、覚えてない?『アンコ』がうちに来たのは姉ちゃんの修学旅行の前日だよ」
アンコは木本家の将来の愛犬だ。ちょうど餡子のような茶色い毛だったので、由恵がそう名付けた。一回目の和子の修学旅行の前日に量販店に買い物に行ったときに、駐車場をうろうろしていた子犬を由恵が拾ったのだ。
和子は前日ギリギリまで荷物を準備していなかった。夜になってようやく荷物を詰め始めたところ、リュックのショルダーストラップの付け目の生地が裂けていることに気づいた。このままでは生地が破れてストラップが外れてしまう。母は自分のリュックや父のボストンバッグを持っていくように勧めたが、「こんなかわいくないバッグで行く位なら、修学旅行行かない!」と和子が愚図りだし、やむを得ず夜遅くまで開いている普段行かない量販店に母、和子、由恵で向かうことになったのだ。
「だから、姉ちゃんには今回も、ギリギリに荷造りして、愚図ってもらわないと困る!」
由恵が強い目で和子に迫る。
9月29日は日曜だった。父と母はバドミントンの大会だということで、昼間は不在だった。由恵は押し入れから和子のリュックを引っ張り出してきて、ショルダーの付け根を点検すると、一生懸命生地を引っ張っていた。
「いい感じ!大分弱ってきた」
夕食後、たぷり午後六時半まで待って、和子は荷造りを始めた。準備をあらかた終えて、時計を見ると七時。近所の複合施設に入っている鞄屋さんは七時には閉まるから、この時間なら安心である。隣で見守る由恵を見てから、和子は大げさに叫んだ。
「あー、お母さん!バッグのショルダーのところが取れそうになってるー!!」
「どれ、お母さんに見せてごらん」と母がやってきた。「縫えるかしら?」なんて言いながら見ていたが、生地がかなり弱っているのを見て諦めたようだった。
「お母さんのリュックを貸してあげようか?それかお父さんのボストンは?」
前回と同じ展開だ。和子は多少躊躇いつつも強く言った。
「どっちもかわいくないから嫌っ!それなら修学旅行行きたくない!」
母がきょとんした顔で和子を見ている。一回目とは違い、今回の和子はずっと物分かりの良い娘として通ってきたのだ。
「あら、そう?いつも我儘言わないかずちゃんがそこまで言うとなら、今から買いに行こうかね?」
母は立ち上がると、車の鍵を取りに行った。
「ちょっと早い気がする……」
由恵が眉を顰める。
「一回目の時はここでお姉ちゃんとお母さんの攻防が長かったんだ。姉ちゃん、アホだなあと思いながら見てたからよく覚えてる……」
「今回は『信頼と実績の和子』が過ぎたかな……」
和子も不安そうに頭を掻いた。
量販店に着き、駐車場に車を停めた。店内に入り、和子と母がバッグ売り場に向かおうとすると、由恵が和子の袖を引っ張った。
「ママぁ、由恵、姉ちゃんとお菓子見たいから先に行っといて!」
「少しだけよ、早く来てね」
母の後ろ姿を見送ると、由恵はお菓子売り場の奥に和子を連行した。
「姉ちゃん、店に入る時に周りを見渡したけど、アンコらしき犬はまだいなかった。で、思い出したんだけど、あの時は店から出る時に『蛍の光』が流れてて、焦ってたんだ。つまりかなり閉店間近だった。そして店から出たところにアンコがいて、私が捕まえた……今はまだ七時二十分、閉店までまだ四十分もある……リュック選ぶのに四十分掛けられる?」
「そうは言っても、この店のバッグ売り場はそんなに広くない……」
「とにかく姉ちゃんはできるだけたっぷり時間を掛けて選んで!私が策を考える!」
そう言うと、由恵は手近にあったじゃんけんの手の形をした『まけんグミ』を掴むと、和子を引っ張ってバッグ売り場に向かった。
「ママー、このグミ買ってー」
「もう、由恵ちゃん、一つだけだけんね」
「ねえ、ママ―、姉ちゃんだけずるいー、由恵もリュックが欲しいよー」
由恵が頑張っている……私もやらねばなるまい。
「うーん、どうしようかな。こっちももう一度試してみる……」
和子はそう数の多くないリュックを取っ替え引っ替え試し続けた。
「ねえ、あんた達、明日かずちゃんの集合時間は早いとよ!早く帰らんと!」
まずい、母がイライラし始めている。まだ七時四十分、恐らく『蛍の光』は後十分は流れないだろう。和子が思わず由恵の顔を見た瞬間、由恵が叫んだ。
「いたたたた、痛い!お腹が痛い!!!」
「え、由恵ちゃん、大丈夫ね?」
「由恵、トイレに行く!」
母に困惑と心配を残して、由恵はトイレへと走った。そして、その後たっぷり十五分は出てこなかった。ようやく『蛍の光』が流れだし、二人の元へ帰ってきた由恵は満面の笑みである。
「もう大丈夫だから帰ろう!」
お会計を済ませて店から出ると、果たしてそこには薄汚れた茶色の子犬がいた。由恵が間髪入れずに捕まえて、着ていた上着で包んだ。全く躊躇がない。
子犬は由恵の腕の中で小刻みに震えていた。フワフワの毛は泥だかなんだか分からないもので固まり、不安そうな目をしている。
「由恵ちゃん、うちは飼えんよ!」
母が悲鳴に近い声を上げた。
「この子を連れて帰らないなら、由恵も帰らない!」
由恵は即答する。和子はうっすらとしか覚えていないけど、一回目の時も由恵はこんな風にきっぱりしていたなと思う。
押し問答の末、母が「今日だけだからね!」と折れて、子犬は木本家に向かうことになった。
明日には『アンコ』と名付けられ、家族みんな、特に母がメロメロになることを、和子と由恵はよく知っている。




