第六話 証券会社の扉
父の雑誌は、木本家の様々なところに出没した。父は寝る前に寝室で読み、食後に居間で広げ、トイレに持ち込んで時には数十分も出てこないで母に怒られていた。
表紙には大きく『これからの財テク』、『株で資産を増やす』『NTT株は買いか』なんて見出しが踊っている。
由恵の年表によると、これから起こる出来事はこれだ。
1989末 日経平均ピーク
1990 バブル崩壊
今は1987年。これから一年半ほど株は日々最高値を更新し、含み益はどんどん膨らむ。人々はますます株に熱狂するのだろう。
ただ和子と由恵にはバブル前後の記憶がほとんどない。和子が小学校の低学年、由恵に至っては幼稚園だったのだからそれも当然だ。だから父が株に興味を持ってくれたのは嬉しいが、時期が時期だけにちょっと困ったことでもあると思った。
ある日の夕食後、母と祖母はそれぞれ家事をしていて、居間には父、和子と由恵の三人だけだった。父は例の雑誌を読んでおり、和子はドリトル先生を読んでいた。由恵は画用紙にクレヨンでお絵描きをしているが、由恵の描いている誰かの顔はなかなか完成しない。由恵が父と和子の様子をチラチラと伺っていることを和子は知っていた。
「パパ」
和子はできるだけ自然な声を出した。
「ん?」
「この本にはなんで書いてあるの?かずちゃんも見たい」
「これか?これは株の本だよ。和子が読んでもあんまり面白くないかもしれないな」
「かぶ……お金が働いて、増えるんでしょ?」
父は和子を見て眉を上げる。
「よう覚えとるな」
「なんで株を買うと、お金が増えるの?」
父は雑誌を座卓に置くと、和子に向き直って腕を組んだ。
「なかなか難しかことば聞くなあ。」
「パッパー!」
由恵が画用紙に書いた謎の生き物の絵を見せてくると、父は破顔して由恵を抱き上げた。
「由恵は絵が上手だもんね」
抱き上げられた由恵が「きゃー!」と声を上げる。四十一歳とは思えない、屈託のない声である。まだ三歳にもなっていないので当たり前なのだが。
「そうだ、和子。由恵は絵がうまかだろ?だけん、絵を売る会社を作るとしよう。由恵株式会社だ」
父は胡座に由恵を乗せて続ける。
「でも由恵はお金がない。その時に株券ていうのば作って、誰かに買ってもらう。和子は由恵はいい絵を描くから、きっと絵がたくさん売れると思う。だから由恵株式会社の株を買うんだ。」
そう言いながら父は和子に由恵の絵を渡した。
「この株券ば持っとると、年に一、二回、お礼のお金がもらえる。もちろん由恵の会社が儲かっとればの話だけどな。由恵の会社がいい会社でたくさんお礼を払っとると、他の人がその株を欲しくなる。そうなー、お父さんが欲しくなるかもしれん。そうしたら、和子はお父さんにその株を高く売ってもいいんだ」
なかなか分かりやすい説明に和子は感心する。難しいことや複雑なことを子供にも分かりやすく説明できる人は賢い人だ。由恵も父の膝の上で、軽く頷いている。
「ずっと株を持っといてお礼をもらい続けるとでもいいし、売って大きなお金をもらうのもいい。でも株の場合は銀行の定期預金より大きく儲けられることがある代わり、損することもある。由恵株式会社がいい会社じゃなかったら、和子が買った時の価格より安くなってしまうかもしれん。これが株たい」
お父さん、大分雑誌読み込んでるんじゃないの。これは結構本気に違いない。
「ねえ、パパも買うの?」
和子が身を乗り出すと、父は何とも言えない顔をした。
「うーーーーーーーーん……」
この上もなく長い「うーん」である。大分迷っていると見える。
「市役所の人でもNTT株、前の電電公社、電話会社たいね、NTT株ば買って儲かったなんて人もおんなはるばってん、お父さんなかなか踏ん切りがつかんとよ。まあ、まずはしっかり勉強してから考えるたい」
石橋を叩いて渡る慎重派の父。父が石橋を渡る日は簡単には来なさそうであった。
***
木本家の投資ステータスには一向に変化は訪れないが、既に秋も終盤となっていた。祖母を除いた一家は熊本市に隣接する某町にある母の実家・渡辺家を訪れた。
母は二人姉妹の妹である。母の実家は黒光りする瓦屋根の二階建ての日本家屋で、農家を営む祖父母と母の姉である伯母夫婦が同居していな。伯母夫婦には中学一年生の緑ちゃんと小学校六年生の由佳理ちゃんという娘がいた。この二人は面倒見が良く、和子と由恵と会うと根気強く相手をしてくれるのだった。
渡辺家の敷地は田舎の農家だけあって広大である。家以外にちょっとした蔵まで建っている。庭には岩で囲まれた池があり、白とオレンジの錦鯉が三匹泳いでいた。
横広い玄関に、長い廊下。家の中央には二間続きの広い和室があり、それを囲むようにして家の両端に祖父母と伯母家族それぞれの居住スペースがあった。 二階には広い物置と寝室が三つある。
一階の和室の床の間には、巨大な仏壇と、丁度ハイハイしている由恵くらいのサイズの巨大な木彫りの熊があり、一回目の時の和子は熊が動き出すんじゃないかといつもビクビクしていた。
従姉達による接待かくれんぼ――隠れるために長時間待ってくれる上に、「隠れるのがうますぎて見つからないよー」という茶番を五分以上繰り返してくれる――で、和子と由恵は昔懐かしいカセット式のカラオケセットの隙間に隠れていた。
「ねえ、ねえちゃ、こどもめしぇんでみると、このいえ、めいろだな」
由恵がしみじみと言う。
「ママ、よくあのいえに、よめにいったわ……」
「田舎だから広いんだろうけど、うちも普通に田舎だしな。あの環境で同居はしみじみすごいわ」
和子も同意するのであった。
***
母の実家の帰り、木本家は熊本市の中心部に買い物にやってきた。
熊本の中心街は路面電車が通る電車通りを挟んで、下通と上通と呼ばれる長い商店街が伸びている。電車通りからは緑に囲まれた熊本城と立派な石垣が見えて、和子の大好きな光景だった。由恵はここに来るのは実に久しぶり、二回目の人生では初めてである。
「ねえちゃと、ちゅなぐ!」
スクランブル交差点での信号待ち中、由恵は母の手を放すと、和子のもとにやってきた。
「ねえちゃ……、あんがい、いまとかわんないな」
由恵の言う通り、街を走る車や路面電車の形や、丸っこい手書き文字の看板が昭和の雰囲気を醸し出しているが、歩いている人達は今とほとんど変わらないのである。若い人が多くて賑やかではあるが、バブルに向かう華やかな空気は、幼い姉妹には感じられなかった。
熊本のシンボルである百貨店「郷土のデパート・鶴屋」もこの交差点にある。四角い建物の上に色とりどりのアドバルーンが浮かんでいる。白地に赤と紺の配色に、鶴をあしらったロゴと「Tsuruya」の文字。熊本県民にはお馴染みのデザインで、街を歩くとこの紙袋を提げている人を多く見かける。とっておきのお中元やお歳暮は鶴屋で買う。この配色の包装紙で包まれているのが、ステータスなのである。
母がお歳暮を選ぶ間、父は和子と由恵を連れて外に出た。母の買い物は限りなく長い。「あなたも選んでよ」と母に怒られつつも、隙さえあれば、父は外への逃亡を図るのであった。
今日の父は目的があるようだ。由恵を抱っこすると、和子の手を引いて、下通の方向へずんずんと歩いていく。下通はアーケードのある長くて広い商店街である。十分程歩きそのアーケードが途切れたところで、父は右に曲がった。そして数十メートル進んだ、ある建物の前で立ち止まった。ビルの看板と目の前の自動ドアには『大熊本証券』と書かれている。
和子は息を呑んだ。
自動ドアのガラスは真ん中が帯状にすりガラスになっているので、中の様子は伺いしれないが、私と由恵は、そして父は、とうとう証券会社にたどり着いたのだ。今日が人生一発逆転の第一歩となる!
父の腕の中の由恵を見ると、こちらを見て頷いている。
和子と由恵は父の第一歩を固唾を吞んで見守った。
父は自動ドアが開かないくらいの距離を取って、そのビルをじっと眺めていた。たっぷり一分くらいもそうしていただろうか。
父がためらいががちに数歩下がると、くるりと『回れ右』をした。
「パパ!入らんと……?」
「今日は、ママも待っとるけん。また来るけん……」
口の中でもごもご言うと父は鶴屋の方向に歩き出した。
この一分程の間に父の頭の中に、投資に失敗して家族で路頭に迷うイメージが去来したのだろうか……和子と由恵に知る由はなかったが、この後父はついぞ証券会社に足を運ぶことはなかったのである。
和子と由恵は投資は自分でするしかないと心を新たにした。と同時に、バブルからその崩壊に向かっていく難しい時期に、父があの扉をくぐらなかったことは木本家にとって良かったのかもしれないとも、仄かに思ったのであった。




