第五話 五千円の未来
1987年、そして昭和62年の春。
和子は小学一年生になった。赤い革のランドセルは教科書等を詰めると、小学一年生の和子の肩にずっしりと重い。小学校に入学してからは、誕生年や入学年度等、元号が使われる機会が増え、和子は自分が昭和にいることを嫌が応にも実感した。
小学校生活はそれなりに順調だった。幼稚園同様、先生に気を遣い、クラスメイトに気を配った。勉強は言わずもがな、一切問題はなかった。小学一年生の授業はさすがに成人には簡単過ぎる。授業は退屈だったので、教科書の先の方を読んだりしていたが、子供らしく前向きな授業態度は保った。
小学校は集団登校である。高学年の子が班長となって黄色い旗を持ち、待合場所である空き地に集まった近所の子達を引率して登校するのだ。この登校が和子は密かな楽しみだった。五年生の班長さんは近所の高木兄弟のお兄さんの方だった。腕白な弟とは違い、小学一年生にも優しく対応してくれる真面目な良い子であった。しかも彫りが深くて色白のなかなかの美少年で、半ズボンから出た足がすらりと長かった。彼は和子の推しにちょっと似ていたのだ。班長さんと話しながらの登校時間は、和子にとってちょっとした癒しの時間だった。一回目には感じなかったときめきであった。
由恵は二歳七か月になった。発音はしっかりしてきたが、まだ赤ちゃんらしい舌っ足らずさが残っている。和子が小学生になり、帰宅が幼稚園の頃より少しばかり遅くなったのが不満そうだ。
毎週水曜日の夕食後にバドミントンサークルに行く両親のルーティンは今も変わらない。和子と由恵が人目を気にせずに喋れる一番の楽しみな時間だ。
***
小学校に上がって最初の梅雨の水曜日、和子は風邪を引いて微熱が出てしまった。咳も出ているので、大事を取って学校を欠席することになった。
「今日はばあばとお留守番で、おうちで寝ときなっせ」
そう言って、母は由恵を連れて買い物に出掛けた。
父は仕事だから、家には和子と祖母だけである。和子は祖母の部屋に寝かされていた。由恵の「仕込み」のために祖母と寝るようになったことがきっかけであったが、今ではそれが習慣となっていた。たまに、二階の寝室で両親と由恵と寝ることもあるけど、祖母の部屋で寝ることの方が多かった。
布団に腹ばいになって本を読む。父の出張土産の『ドリトル先生』シリーズである。母は「早すぎるんじゃない?」と言っていたが、和子は父に「グッジョブ!」と言いたかった。たまに父の書斎の本棚からこっそり本を拝借してはいるが、家族の前で堂々と読める本が増えるのはなんとも嬉しかった。
祖母が家事をする音を遠くに聞きながら本を読んでいたが、いつのまにかうとうとしていたようだった。玄関のチャイムの音で和子は目覚めた。祖母の部屋は玄関のすぐ隣にあるのである。
「こんにちは、郵便局です。」
「はいはいー」
祖母の足音が聞こえてきて、ガラガラと玄関の引き戸が開いた音がした。
「学資保険の集金に参りました」
この時代はわざわざ集金に来ていたのか。ご苦労なことだな。和子は半身を起こした。
祖母が学資保険を掛けてくれていたのは覚えている。和子が十八歳になった時に「学資保険が満期になったけん、お父さんとお母さんに百万円を渡して、和子ちゃんの学費にしてもらうけんね」と言われたのだ。その後、祖母はふふふと笑いながら続けた。
「増えた分はばあばのお小遣いにさせてもらおうかね」
昔の利率は良かったと聞くが、どの程度だったのだろうか。和子は布団を抜け出し、部屋の引き戸を開けた。
「ばあば」
祖母が振り返る。
「あらら、かずちゃんな、目が覚めてしまったとね」
「う~ん、ばあばがいないから、寂しくなったのぉ」
目いっぱいかわいい小学一年生を演出する。
「木本さん、もしかして和子ちゃんですか?」
ブルーグレーの制服に身を包んだ三十代と思しき男性が、祖母と和子を交互に見て微笑んだ。祖母が和子を前に押し出す。
「小学校に上がったばっかりとですが、今日は熱を出してしまって。かずちゃん、郵便局の古賀さんよ。ご挨拶ばせんね。かずちゃんの学資保険のお金ば集金にきてやんなはったとよ」
「こんにちは」
和子は両手を腿の前に揃えて礼儀正しくお辞儀をする。祖母と古賀さんはその様子をニコニコと見ていた。
「ばあば、がくしほけん、ってなあに?」
和子が大げさに首を傾げて子供らしいたどたどしさで聞くと、古賀さんが説明してくれた。
「和子ちゃんが大きくなって、お嫁に行ったり、上の学校に行ったりした時のために、おばあちゃんが毎月少しずつ積み立ててくれているんだ。和子ちゃんが十八歳になった時に、積み立てた分に上乗せしてお金が戻ってくる仕組みなんだよ」
お嫁に行く……なんとも昭和な響きである。
見上げると、祖母がお財布を持ってにっこりと頷いた。
「毎月、積み立てよるとよ。今月分、よろしくお願いします」
祖母はそう言うと、古賀さんに新渡戸稲造の五千円札と「保険料徴収帳」と書かれた二つ折りの細長いカードを渡した。どうやら集金の際にここに印鑑を押して領収印とするらしい。
「ねえ、お兄さん『積み立てた分に上乗せ』って、お金が増えるってことでしょ?何で増えるんですか?」
古賀さんはポリポリと頭を掻いた。
「やあ、和子ちゃんは鋭い質問をするなぁ。和子ちゃんのおばあちゃんみたいに色んな人が積み立てているお金を、郵便局は投資……お金を貸して欲しいっていう人や会社に貸してあげるんだ。そしたら、借りた人や会社が『貸してくれてありがとう』って少し上乗せして返してくれるんだよ。その分が和子ちゃんが十八歳になった時に増えて戻ってくるんだ」
古賀さん、小学一年生に誠実に説明してくれる優しい人である。果たして本当の小学一年生がこの説明を理解できるのかは和子には分からなかったが。
「どれくらい増えるんですか?」
古賀さんは少し困った顔をして祖母の顔を見たが、祖母がいいですよというように頷くと口を開いた。
「おばあちゃんが和子ちゃんが十八歳までに毎月積み立てを続けて、そうだな、分かりやすいように全部で百円になったと考えよう。そしたら郵便局がそれに四十円を足して、百四十円にしてお返しするって感じかな」
合計百万円を積み立てて、十八年後の満期時には百四十万円位になるということか。これはなかなかどうして悪くない。保険だから死亡補償なんかも付いていることを考えると、むしろ物凄くいいのでは。祖母はなかなかの投資家である。
和子は思い出した。就職したての頃、お得だからと祖母に強く勧められ、十五年満期の養老保険に入ったっけ。内容もろくに確認せずに加入したけど、満期時に戻ってきたお金は払い込み総額よりも結構少なくて、ちょっとがっかりしたのだった。死亡保障があったし、年末調整で少しばかり税金が戻ってきていたのを考えたらとんとんかもしれないけど。でもばあばはこの成功体験があったから、私のためになると思って勧めてくれたんだろうなあ……
和子が考えこんでいる間、古賀さんは徴収帳に押印し、祖母に渡した。
「最近は利率が下がっていますからね、今はこちらはお宝保険ですよ。はい、では確かに頂きました」
「ほら、かずちゃん、古賀さんが帰りなはるよ。教えてもらったお礼ば言わんと」
祖母が和子の肩を優しく叩いて促す。和子はぺこりと古賀さんにお辞儀をした。
「お兄さん、ありがとうございました。ばあばのお金は私が十八歳になるまで、郵便局で寝ているんじゃなくて、働いてくれているんだと分かりました!」
和子が元気に言うと、祖母と古賀さんが同時に和子を見た。そして二人はお互いの顔を見合わせた。
しまった。小学生らしい感想を言おうと思ったが、言い過ぎたか……
和子の脇の下を冷たい汗が流れる。
だがそれは杞憂だった。
「ははあー!和子ちゃんは賢かですな!」
古賀さんが心底感心したように腕を組んで頷く。
「うちの坊主は二年生ですが、こぎゃん賢くはなかですよ」
「おしゃべりな子で……」
祖母は恐縮しつつも満更でもない顔をしていた。
和子は悟った。
人は見えない物は信じない。
逆もこれ然り。つまり見える物は簡単に信じてしまうのである。
目の前のあどけない小学一年生は何よりも説得力があって、ちょっとくらい子供らしくないことを言っても、大人達は「賢い子だな」とか「大人の話を聞き齧ったんだろう」と勝手に納得してくれるのだ。
これはもうちょっと攻めちゃってもいいのかなと和子は思う。すぐ調子に乗る悪い癖は二回目の人生でも治らないのであった。
***
その日の夕食、祖母は珍しく饒舌だった。
「今日古賀さんが学資保険の集金に来なはったんだけど、かずちゃんが学資保険の説明ば聞いて『お金が働いてくれるから増えるんですね』なんて言わすとよ。古賀さんな、まあ、たまげなはって、こぎゃん賢か子は見たことなかて、神童て!」
多少話を盛る癖は孫達にも受け継がれているかもしれない……
ちらり。スプーンで冷ややっこを食べていた由恵が和子に目線を遣した。「姉ちゃん、調子に乗ってボロ出すなよ」という声が聞こえてきそうだった。
「和子は経済に興味があるとかね。将来は銀行の行員さんになるね」
父も満更でもなさそうである。正直なところ、今回は労働階級を卒業して、資本家として生きていきたいのだと和子は思ったが、もちろん言わなかった。
「大学の経済学部に行くかもねえ。こりぁ、パパとママもしっかりお金ばためんとね」
母も目を細めて言う。
「お金、増やす?」
和子はあどけない仕草で首を傾げる。
「そうだなあ、学資保険以外にも銀行にお金を預けたら、利子っていうおまけがついて前より増えるんだよ。特に定期預金っていう、何年間はお金を引き出しませんよっていう約束をすると、普通よりもたくさん利子が増えるんだ。」
父が説明していると、母が口を挟んできた。
「和子が生まれたくらいの頃には六パーセントくらいの定期もあったけど、今は三、四パーセントだけん、なかなか増えんけどね……」
思わず和子と由恵は顔を見合わせた。驚愕の利息である。二人は記憶のある限り、利息なんてないのが当然という人生を歩んできた。ここ数年でやっと一年定期に一パーセントくらいの利息が付くようになって大喜びしていたのである。三、四パーセントでも、信じられない程に高い。
「そうね、もう銀行に預けとったっちゃ増えんて言うて、株をする人も増えてきよるね」
と父が応じる。
株!株!!!
和子が覚えている限り株の話題が木本家の食卓に上ったのは今日が初めてだった。もしかしたら今日は輝かしい億り人への第一歩かもしれない。
「ねえ、パパ、うちは株買わないの!?」
思わずそう言った和子の声は由恵の大きな声で搔き消された。
「ゆえちゃん、かぶ、たべゆ!」
食卓は笑いで包まれる。
「由恵ちゃん、その蕪じゃないとよ」
「季節じゃなかばってん、明日八百屋さんにあったら買ってきてあげようだい」
一気に二歳半が食卓の話題を搔っ攫った。
***
「ねえちゃん、せめしゅぎ!」
両親がバドミントンサークルに行った後は二人で二階の両親の寝室で過ごすのが習慣となっていた。二歳児が小学一年生を責め立てる。
「しぇいては、ことを、しそんじる、だよ。まだ、じかんは。たっぷりあるんだから、しんちょうに、いこう」
「おっしゃる通りです……」
和子は反省した。
「とうしには、じかんが、いちばんの、みかただよ。まじゅは、ていきよきん、じゃない?」
「お年玉は定期に全ツッパ、だな」
「よんぱーせんとは、あつゅすぎる!」
今日の会話の流れからお年玉を定期に入れてとお願いしてもそう不自然ではないだろう。まずはそこからだ。年利三、四パーセントもあれば、それもまた立派な投資である。
その週の日曜日、ふらっと出かけた父は珍しく雑誌を買って帰ってきた。表紙には「財テク」、「株」なんて文字が躍っている。あの日の食卓の話題が、小さな心の変化を父にもたらしたのかもしれない。




