第四話 答え合わせ
この由恵は、あの由恵なんだ。
その事実を理解した瞬間、和子の喉の奥は熱くなった。由恵が生まれるまでの三年半、そして由恵が生まれてからの一年半。五歳の和子は家族に囲まれて幸せだったけど、内側の四十五歳はいつも孤独だった。
「ねえちゃ!」
由恵は小さな歯を見せて笑った。
「びっくり、ちちゃ?」
「そりゃあ、するだろ!あんた『ねえね』も言わなかったのに、突然『ねえちゃん』って!」
「『ねえね』ちゃう!『ねえちゃん』いいちゃかっちゃ。れんちゅう、ちちゃ!」
「姉ちゃんって言いたくて練習したのか!」
感動させるじゃないか。
「どっきぃでぃ!」
「どっきりかよ!人生賭けたどっきり仕掛けてこないでよ!」
由恵は至極満足そうににっかり笑う。
こいつ、あの由恵だわ。四十一歳の底意地の悪さ、しっかり持ってやがる。
「ただいまぁ!」
玄関の引き戸が開き、母が帰ってきた。色々答え合わせしたかったけど、まだお預けのようだ。
「由恵、次二人の時ゆっくり話そう!」
由恵はお尻のように白くて丸い頬っぺたを軽く揺らせて頷いた。
***
二人で話すチャンスはなかなか巡っては来なかった。五歳と一歳である。二人が家にいる時には必ず大人が誰か一緒にいた。だが水曜日には必ずチャンスが巡ってくることを和子と由恵は知っていた。
父は職場のバドミントンサークルに入っており、身体を動かすのが好きな母も参加していた。水曜の夜七時、晩御飯を食べさせ終わってから二人は仲睦まじく連れ立って近くの体育館に向かうのだった。
夕食中、由恵は母の給仕で食べていた離乳食の終盤にうつらうつらしはじめた。
「あら、由恵ちゃん、今日はおねむが早かね」
母が由恵の頭を支えながら、畳に敷いたタオルに由恵を横たえる。和子の隣で仰向けになった由恵は、母が食器を片付けようと後ろを向いた刹那、和子のワンピースの端を引っ張り目配せすると、またそっと目を閉じた。
「ママぁ、かずちゃんも眠い~由恵とねんねする~」
母の手を引いて、大げさに目を擦りながら和子は言う。
「あらー、今日はお外でたくさん遊んだとかね。」
「じゃあ、上に連れて行くけん。かずちゃん、いこか」
父が由恵を抱き上げると、和子の手を繋いで立ち上がった。この時代の九州男児にしては、細かいことに気づくなかなかのイクメンであった。
父が寝室に布団を敷いて、和子と由恵に茶色くて重い毛布を掛けると、二人はすぐに小さな寝息を立て始めた。父は数分ほど二人の寝顔を見つめていたが、すぐに部屋を出て行った。
二人は階段の軋む音を聞きながら息を潜めていた。
「行ったね」
「いっちゃ」
「でも家を出るまで待とう」
由恵が真剣な顔で頷く。
五分程すると、玄関から声が聞こえてきた。
「いってきます。お義母さん、よろしくお願いします」
「二人とも上で寝とらすけん、よろしく、お袋」
「いってらっしゃい」
そして玄関の引き戸を開け閉めする音がした。玄関の鍵を閉めた祖母は自室に入ったようだ。しばらくするとミシンを踏むカタカタという音が聞こえてきた。
「よし、今度こそ大丈夫そうだね」
和子が毛布から出て起き上がって敷布団の上に座ると、由恵ものっそりと起き上がって座った。大きな頭がなんとも不安定そうである。和子は部屋の隅にあった幼児用の椅子を持ってきて由恵を座らせた。目線が近くなって話やすい。
「どこから話そうか。まずはここに来る前のあの時のこと……眩しい光を見たよね……そして衝撃がきて……」
「んっ」
「多分、交通事故だったのかな」
「んっ」
「私、次の瞬間気づいたら、生まれてたんだよね、こっちで。由恵もそう?」
「んっ。まちゃしぇて、ごめ、ね。ひとい、ふあん、だた、よね」
「待たせてごめん、って?ありがと……赤ん坊の口で喋るの不便だよな」
「私の場合はさ、殊の外早く状況を理解したっていうか、生まれ変わったんだなと実感したんだ。生まれてからの一連の感覚のあれこれが生々し過ぎて、さ。まあ、正確にはこれを生まれ変わりと呼ぶか分からないけどな……だって本人に戻ってる訳で。」
「ちょれな」
「『それな』って……それ昭和に通じるのかね」
「しゃあね」
「さあねって……由恵、あんたさ、いつ頃私があの和子だって気づいたわけ?」
「しゃいちょ」
「最初からかよ!気づいてたなら言ってよ!」
「ねえちゃ、かぶの、はなち、ばぶゆ、とか、あっぷゆ、とか。でも、ゆえ、くち、うごきゃない……」
「『バブル来るよ』て言ったのも、アップルの上場日聞いてたのもしっかり理解はしてたのか……その苦労、分かる。口動くようになるまで大変よね。赤ん坊するのもストレス溜まるよなあ……」
「まんま、あでぃ、ない、きちゅい。けぇき、おいちかた!」
「味ない?うん、離乳食の薄味きついよなあ!って、お前、四十一の癖してケーキ鷲掴みにして食べたの、確信犯だったのか!」
「ゆえ、いっちゃい」
人差し指を立ててにっこりと笑った顔は紛れもなく屈託のない一歳児のもので、でもあの由恵の顔だった。和子はふいに涙が出そうなのを堪えて乱暴に言って笑う。
「四十一歳だろ!」
由恵は頬を膨らませてぷいっと顔を背けた。
ようやく、同じものを覚えている相手と話せた。
この五年間、家族に愛されて幸せだった。
でも、誰にも言えなかった。
私は2026年から来た四十五歳です。
株で大儲けして二回目の人生では逆転したいんです。
そんなことを言える相手はこの世界に一人もいなかった。
でも今は由恵がいる。ただし、興奮して話した口の端から多少涎が垂れてはいるが。
「由恵、涎」
「ん」
和子が袖で拭こうとすると、由恵は嫌そうに顔を背けた。
「ちっちゅ」
「ティッシュね。はいはい」
ボックスティッシュから一枚引き抜き、由恵の口元を拭う。実年齢四十一歳の妹の涎を拭く。人生は想定外のことばかりが起きる。
「私達、死んだのよね?」
「ん……」
「二人一緒になんて、最大の親不孝したなあ……」
「ん……」
「明彦は……ミーコは……どうしてるだろ……」
和子の夫・明彦、そして飼い猫のミーコ。ずっと気になっていた一人と一匹の名前を五年ぶりに口にするのは、心にずしんと重かった。
「ねえちゃ……」
和子の背中を由恵が擦る。小さくて不器用だけど、温かい手だった。目尻に溜まった涙が零れ落ちそうで、和子は顔が上げられなかった。
「あっぷゆ はちじゅうねん、じゅうにがつ、じゅうに」
突然、由恵が呪文のように言った。アップル、1980年12月12日。
「えんびであ、きゅうじゅきゅうねん いちがつ にじゅうに」
エヌビディア 1999年1月12日。
「え!あんたナプキンに書いてたの覚えてる訳!?」
弾かれたように和子が顔を上げる。
「ん、なじぇか、じぇんぶ、おぼえてゆ。ねんぴょう、も」
「全部!?しかも年表まで!まじか!!」
「まじ」
「私達あっちでは株の素人だったけど、これは本気で株で一攫千金いけるのでは?勝てる!勝てるぞ!!」
「ん!」
「でも上場日よりももっと覚えておくべきこと、あったよな」
「しょれな……」
「実は……私も覚えてることあるんだ」
和子はワンピースのポケットから小さく畳んだ紙を取り出して、由恵に渡した。由恵が不器用な指でゆっくりとそれを開く。
「こで……!!」
「そう、推しグループメンバーの入所日一覧……私もナプキンに書いたことだけはなぜかずっと覚えてるんだ。いつ忘れちゃうか分からないから、字が書けるようになった時にメモったの。でもどうせならもっと役立つ情報書くべきだった……」
由恵は和子の書いた不器用な文字をじっと見つめた。そして一度目を瞑るとゆっくり開けて、こう言った。
「ちゃいじゅーよー!」
キラキラした瞳だ。舌ッ足らずだったけど、和子にはなんていったのかすぐに分かった。
「最重要!」
未来はナプキンに書いてある。
その内容は必ずしも実用的とは言えず、結構、いやかなり偏ってはいるけれど。




