第三話 由恵、ログインする
由恵、小さな由恵。私の妹。何も喋らない、私の妹。
もちろん、当たり前である。赤ん坊なのだから。生まれて数か月の赤ん坊が突然、
「姉ちゃん、アップルはいつ上場したんだっけ?」
などと言い出したら、それは転生ではなく怪奇現象である。
和子も分かっていた。分かってはいたが、焦れていた。ものすごく焦れていた。
由恵は泣く。
寝る。
飲む。
出す。
ニターと笑顔を見せる。
また泣く。
それだけだった。
和子は毎日、由恵の顔を覗き込んだ。
「由恵、由恵!」
返事はない。由恵の赤い頬っぺたに顔を近づけて、耳元に囁く。
「ねえ、あっぷるの、じょうじょうびは?」
やはり返事はない。
母が振り返る。
まずい!
「和ちゃんは由恵ちゃんがかわいくて仕方のなかとね。いいお姉ちゃんね!」
和子の想像とは違い、母は一生懸命妹に話し掛ける新米お姉ちゃんをただただ微笑ましく眺めていた。
由恵は一般的な赤ん坊の成長曲線をなぞっているようだった。生後三か月で首がすわり、生後四か月で声を出して笑うようになり、生後五か月で寝返りをした。生まれたばかりの頃は赤かった肌が白くなってきて、頬がふっくらとしてきた。至極一般的な赤ん坊である。今のところ非凡な様子は——四十二歳を思わせるような非凡さは——見当たらなかった。
最近は「だー」や「まんま」みたいな、この上もなく赤ん坊らしい発語があったりする。その度に和子は由恵のもとに行って耳元に話し掛けた。
「由恵!もしかして喋れるようになった?」
でも由恵はきゃっきゃと声を上げてご機嫌そうに笑うだけだ。
もしかして、もしかすると、由恵は本当にただの赤ちゃんなのかもしれない。
和子はその考えを追い払おうとするように頭を振った。
少なくとも、私にとって大事な妹だ。たとえあの由恵ではないとしても、あと十年もすれば色々話せるようになるんだから。
ただ四歳の和子にとって十年はとてつもなく長く感じた。ほとんど永遠と変わらないくらいに……
和子が少し落ち込んでいるのには由恵以外にも理由があった。和子は四歳になった。そして現在三月。来月になれば幼稚園が始まるのだ。
今、舞ちゃんと遊ぶだけでもしんどいのに、幼児に囲まれて生活することになるのか……
既婚ではあったが子供のいなかった和子は、子供が苦手だった。正直なところ、一回目の人生で積極的に子どもが欲しいと思ったことがない。しかも今回は精神年齢が違い過ぎる。和子は幼稚園の同級生の親とさえ、下手したら二周り歳が違うのだ。一日入園イベントに行ったけれど、和子の母よりも随分若そうなお母さん達が多く見受けられた。さすが昭和だ。クラクラしてくる。
***
由恵の様子に変化が見られないまま四月になり、和子は幼稚園に入園し、桃組さんの一員となった。
結論から言うと和子は案外うまくやった。幼稚園が楽しい訳では断じてない。だが、四十五年分の社会経験は大きかったのである。
幼児達が好き勝手に過ごしている小さな教室。「動物園かよ」と悪態をつきたくなる気持ちを抑えて、和子は非常に真っ当に振舞った。すなわち、先生の指示をよく聞き、順番を守り、友達が欲しがればおもちゃも本も譲った。泣いている子を慰め、手洗いうがいをしっかりした――もっともそれは誰が齧ったかわからないおもちゃを触った後に手を洗わずにはいられなかったからなのだが――
お弁当を食べるのが遅いのは一回目と同じだったが、できるだけ残さないように努力した。若い母に悲しい顔はさせたくないではないか。
「和子ちゃんは本当にしっかりしていて、みんなに慕われているんですよ」
先生にそう言われた母は嬉しそうだった。
一回目は幼稚園嫌いで随分迷惑を掛けたらしいけど、今回は努力するよ……
和子は夕食を作る母の後ろ姿にそう誓った。
***
和子が幼稚園に行き始めて半年が経った。疲れることは変わらないが、幼稚園に通うことには慣れてきた。そしてその頃、由恵は一歳の誕生日を迎えた。
父が市役所の帰りにケーキを買ってきた。丸いデコレーションケーキにろうそくを立て、家族で居間に集まり、ハッピーバースデーを歌ってお祝いする。
それにしても狭い居間だ。ダイニングルームではなく、「お茶の間」。小さな床の間付きの六畳の和室に、食器ダンス、本棚、和ダンスがところ狭しと並んでいる。和子が夫と住んでいたマンションのリビングダイニングは二十畳だったから、衝撃的な狭さだった。この狭い居間で三人の成人と一人は乳児とは言え子供二人が肩を寄せ合い、食事を取るのだ。
和子はホクホクしていた。ケーキを食べられるのは思いの外嬉しい。一回目の人生、さして裕福だった訳ではないが、会社員である和子には気が向けばいつでもケーキを買えるくらいの経済力はあった。しかし子供である今はケーキを食べられるのは誰かの誕生日とクリスマス位のものである。特に昭和の子供にとってはケーキは特別だったんだなとしみじみ思う。
母が慎重にケーキを六つに切り分けると、「形だけね」と、大きめの一切れの載った皿を由恵の前に置いた。まだ離乳食中の由恵にはまだケーキは早いのだろう。母が自分のケーキをほんの少しだけフォークで掬い、由恵の口に近づけた。
その時である。由恵は目の前の自分のケーキを鷲掴みにすると一気に半分程を口に突っ込んだのだ。父が慌てて由恵を抱き上げたが、時すでに遅し。由恵はケーキを飲み込んでしまっていた。一瞬呆気に取られた一同だが、食卓が笑いに包まれる。
「由恵ちゃんは食いしん坊ねえ」
ニコニコと顔を見合わせる家族と口の周りをクリームでいっぱいにした由恵を尻目に和子は暗澹とした思いを噛み締めていた。
こいつ、本当にただの赤ん坊なのかも……
***
由恵の誕生日から数週間が経った頃、和子は思いがけぬ単語を木本家の茶の間で聞くこととなった。
「円高が進んできよるらしい」
発信源は難しい顔をして新聞から顔を上げた父だった。和子が二回目に生まれて以来、頭の中では繰り返し考えた単語ではある。だが、それを家族が口にするのを聞くのは初めてであった。和子は由恵の積み木の相手をしつつ――と言っても、由恵は和子が積み上げた積み木を崩して喜ぶだけなのだが――父の二言目を待った。母が尋ねる。
「で、円高が進むとどうなると?」
「そりゃあ……」
父は言い淀んだが、新聞に目を落とすとそのまま言った。
「輸出産業に打撃、だろう……」
「ふうん……」
気のない母の応え。父はそそくさと新聞を畳むと出勤していった。
多分この二人円高が何かすらあまり分かっていないのではないだろうか……元来うちの家族は経済音痴なんだよな。熊本の田舎に住む二人からしたら円高なんて遠い出来事だろう。
そう思っていた和子だったが、その週に何度かテレビでも同様の報道を聞くことになった。
「ニューヨークのプラザホテルで行われた先進五カ国蔵相・中央銀行総裁によるドル高是正の合意を受けて、円高に歯止めがかからず一ドル二百二十円台半ばで推移しています……」
「プラザホテル」、「円高」……何だか聞いたことのあるような組み合わせである。和子はしばらく考え込んだ。
「プラザ合意だ……!」
和子は大学生の数ヶ月間個人指導塾の講師をしていた。ファーストフードに比べれば少しばかり時給が良かったのだ。しかし時給が発生するのは正式な授業のみ、授業の準備、生徒へのお便りノートの記入、自習の監督等無給の仕事が発生し、時給を計算してみたら数百円であった。やりがい搾取以外の何物でもない。馬鹿馬鹿しいと数ヶ月で辞めたバイトだった。
そのバイトで現代史が苦手な中学生に説明するために補足資料を作ったっけ。
「アメリカはドル高が進み、大幅な貿易赤字を重ねていました。この不均衡を是正するためにG5がドル高是正を行うことに合意しました。これがきっかけで劇的なドル安・円高が進み、バブル経済へのきっかけになりました……」
つまりこれからバブルがやってくる……!
和子は小さなおもちゃのピアノで叩きつけるように前衛的な曲を演奏している由恵の元に行くと、耳元に囁いた。
「由恵、バブルが来るよ!」
「バブ……?」
「そうそう、バブル!!」
由恵はにっこりと笑うと、「バブゥゥゥゥ!」と唇を振るわせて豪快に涎を飛ばした。そして、またピアノの演奏を始めるのであった。
ダメだこりゃ……
和子はぐったりと肩を落とした。
***
1986年4月。
和子は幼稚園の年長になった。百合組さんである。前世で習得に異常に苦労したスキップは早々に克服した。事前の自主練が効いたのである。こうやって先回りして苦手を潰していけば、一回目とはまた違った人生になるのではないかと思う。
そんな小さなことよりも。何とか株を買える環境を手に入れて、一回目とは比べ物にならない程に裕福な生活が送りたい。だが、五歳児にとって株は途轍もなく遠かった。
由恵は一歳七か月となった。ママ、パパ、ばあば、マンマ、ワンワン。赤ちゃん言葉が堰を切ったかのように由恵の口から飛び出すようになった。
でもこいつ、「ねえね」は言いやがらないんだ。
和子は不満である。一回目よりも手厚くお世話してやってるのに。お前が生まれてくるのを誰よりも心待ちにしていたのは私なのに。全く薄情な妹だ。
最近は熱心に経済情報を話し掛けるのもやめた。そろそろ認めるべきだろう。こいつが普通の赤ん坊だということを……
母はスーパーに買い物に行った。家に残った祖母は自室で和子の浴衣を縫ってくれている。つまり和子は自由だった。今まで積み上げてきた信頼と実績の賜物である。
由恵は積み木で遊んでいる。以前は和子が積んであげた積み木に傍若無人の限りを尽くすだけだったデストロイヤーも、積み木を五個くらい積めるようになった。
五歳児が言うのも何だが、赤ん坊の成長ってあっという間だな。
和子は熱心に積み木を積む由恵の後頭部を見ながら、母の「主婦の友」をめくる。インターネットのないこの時代。読み物といったら、出版物しかないのである。和子は活字に飢えていた。
雑誌に思わず夢中になっていた和子は、「だっ!」という由恵の声で我に返った。由恵がこちらに積み木を持って覚束ない足取りで歩いてくるではないか。転んで頭でもぶつけたら大事である。和子は立ち上がり、由恵の元に歩み寄った。
「由恵、だめ!危ないよ」
「ん!ん!ん!」
由恵は和子に赤色の積み木を押し付けてくる。
「由恵、ありがと」
そう言って和子が受け取ると、由恵はにっこり笑って言った。
「おち!」
「ん?」
「おち!!」
和子が首を傾げると、由恵は焦れたように小さな口をゆっくりと動かした。
「おち、の、いど!!」
越智の井戸…?
由恵は何を伝えたいんだ?
和子はきょとんとする。由恵は眉を顰める。そして下唇を突き出しながら和子のワンピースの袖を乱暴に引っ張ると、言った。
「ねえ、ちゃ!」
「ねえちゃん」……?まさか今姉ちゃんと言おうとしたのか?
和子は状況が理解できずに固まった。由恵は「ばあば」は言うのに、さして難易度が変わらなそうな「ねえね」は今まで口にしなかった。その由恵が「ねえちゃん」?
「由恵、もう一回言って」
和子は縋るような思いで、由恵の小さな両肩を掴む。
すると由恵は満面の笑みで和子が床に置いた積み木を指さして、言ったのだった。
「ねえちゃん、おちのいど!ねえちゃん、ゆえ、の、おちのいど!」
「由恵!由恵なの?」
「ねえちゃん!おちのいど!」
和子は由恵を抱きしめた。すごく小さくて、ちょっと湿ったみたいに温かい。
「おち、の、いど!」
和子の腕から逃れようと身を捩りながら、由恵は尚も積み木を指さす。和子は赤の積み木を見ながら少し考えた。
「おちのいど……分かった!『推しの色』か!メンカラのことかよ!」
和子が腕を伸ばして由恵の顔を覗き込むと、由恵は満足そうに笑った。
「ねえちゃん、おまたちぇ!」
和子はその瞬間、理解した。
由恵が、あの由恵が、二回目の人生にログインしたのだ!
※小説家になろうとカクヨムで投稿しています。




