番外編・第七話 爪切りとバリカンと
「五か月!? 由恵、あんた、妊娠してるの……!?」
「うん……」
「いつから分かってたの!?」
由恵は目を細めた。
「うーん、7月、あの日の少し前、かな……。正確に言うともう五か月半」
「なんで教えてくれなかったのよ! お父さんとお母さんだって大喜びだよ!」
由恵は和子に向き直った。
「姉ちゃん、私、四十二歳になったんだよ? 素直に喜べる程には若くない……。言ってなかったけど、三十代前半の頃不妊治療をしていたこともあったんだ。でもできなくて、高度不妊治療までは進まずに自然に任せることにしたの。病院も忙しかったし、クマさんとなら二人でも幸せにやっていけると思ってたし……。それが、この間生理が遅れてることに気づいて、『まさかもう更年期か!?』と思ったら、実は妊娠だったってわけ……。不妊治療してた三十代前半にできなかったのが、今できるなんて思わないじゃん……?」
「で、でも、そうは言っても、めでたいじゃん? 子供が欲しいって気持ちはあったわけだし……」
由恵は小さく溜息をついた。
「クマさんは『奇跡だ!』って喜んでくれて、私の身体をものすごく気遣ってくれてる。人獣共通感染症もあるから、病院でもかなり慎重になってて、もうスーパー過保護よ。やりにくいほどに……。いいパパになるのは間違いないと思う。でも、私は少し複雑な気持ちなんだ……。今まで子供がいないことを前提に人生設計してきたわけじゃない? 病院の経営のことだってある。それに母体が四十代だと流産率も上がる……。だから、あんまり早めに言って、みんなにぬか喜びをさせたくないと思ったの。幸運にも五か月半まで何事もなく来ることができて、所謂安定期に入ったから、今回の帰省で言うつもりだったの。龍ちゃんとことダブル妊娠になったのは想定外だった……」
和子は由恵の肩にそっと手を置いた。
「私は、嬉しいよ。もちろん龍ちゃんに子供が生まれるのは嬉しいけど、由恵が妊娠ってのは、もっと、なんだろう……、違う質の喜びがある。私も近くにいるし、手伝えることがあったらなんでも言ってよ」
由恵は力なく笑った。
「姉ちゃん、ありがとう……。嬉しいし、本当にありがたい。でも今は不安な気持ちの方が大きくて、素直に喜べないんだ。それがお腹の子供に申し訳なくて……。そもそも無事に産めるのか、健康で産んであげられるのか……。そんでもって、クマさんはもう五十歳だよ。自営業だから定年はないとは言え、これから子供が学校を卒業するまでのことを考えると、すでに気が遠くなりそう……。なんか話してたら疲れてきちゃった。ちょっと昼寝するね……」
由恵が階段を上るのを和子は下から見守った。妊娠している事実を知ったからか、心なしか身体が重そうに見える。
「クマさん、えらい過保護だなあと思ったけど、今は気持ちが分かるわ……」
由恵の背中が見えなくなった階段を見つめながら、和子はそう呟いた。
和子は一人で散歩に出ることにした。家に一人でじっとしている気分ではなかったのだ。母校である小学校の隣の神社に行って、念入りに参拝した後、神社の裏の公園で塗装の剝がれかけた青いベンチに座った。九月とは言えまだ午後の日差しは強いが、楠の大木の梢が折り重なって、日を遮ってくれる。
和子はイヤホンを装着して、スマートフォンを操作した。
「もしもし?」
「和子!」
イヤホンから明彦の声が聞こえる。
「ミーコ、元気?」
「元気、元気。映そうか」
明彦はそう言うと、和子の返事を待たずカメラをオンにした。ソファの肘掛で香箱座りしたミーコが映し出される。視線を感じるのか、耳を倒したいわゆる『イカ耳』状態になっていて、画面から視線を外してなんだか不機嫌そうな顔をしている。
「ミーコ、ミーコ、ママだよ! 愛してる! 今日も世界一かわいい猫だね! ママのこと忘れないでね! 」
しばし親馬鹿をした後、和子は軽く息を吸ってから言った。
「……ねえ、明彦、昨日言ったじゃない? 龍ちゃんの婚約者のエマさんが妊娠したって、お父さんとお母さんの念願の初孫だって」
「うん」
「初孫じゃなかった……」
「?」
電話の向こう側で明彦が混乱している気配を感じて、和子は一息に言った。
「……由恵が妊娠してて、もう五か月半だって」
「ええ、そうなの? おめでたいねえ。クマさん、大喜びなんじゃない?」
明彦の声は思いの外のんびりとしている。
「私すごく驚いてるんだけど、明彦は驚かないの?」
「もちろん驚いてるけど、よかったなあって気持ち」
――四十代の妊娠を聞いた時の男性の反応って、こんなもんなんだろうか……。それとも明彦が特別なのかな……。高齢出産がどうとか、母体への負担がどうとか、高齢の親だと経済的にどうとか、そういうのはあんまり考えないんだろうか……。
「由恵は色々不安なこともあるみたいで、手放しで喜んでるって感じじゃなかった」
「そうなのか。確かに隈元家も共働きで、しかも動物病院を経営しているから大変だよね。俺達も手伝えることとかあるといいんだけど、俺達も子育ては初心者もいいところだからなあ」
「そうだね……」
考えているのだろう、明彦は少し間を置いてから、おっとりと言った。
「でもそうだなあ、俺、ミーコのお風呂と爪切りはずっと担当してるし、お尻と肉球の毛をバリカンで刈るのとかも慣れてるから、そういうのは手伝えるかも」
「……そういうことに関しては、あの家にはプロフェッショナルが二人もいる……。そもそも、人間の赤ちゃんと猫は結構、いや大分、違うと思う。」
和子のツッコミに明彦はまたしてもおっとりと答えた。
「それもそうか……。そしたらそうだなあ、俺にできることは数学を教えることくらいになっちゃうかなあ、十年以上はお呼びでないかもしれないけど」
和子は思う。今回の人生だけでも随分長く一緒に暮らしているけど、相変わらずこの人の思考回路は分からない……。でもこの人は、毎回私の想定の斜め上にポジティブで、話していると自分の悩みが馬鹿らしく見えてきて、謎に元気が出てきちゃうんだよなあ……。一回目の人生では、こういうところに苛々させられたこともあったから、私自身が変わったのもあるかもしれない。
「赤ちゃんの世話はともかく、困ったら家事の手伝いに行ってあげたいなとは思ってる……」
和子がそう言うと、明彦は言った。
「ああ、いいね、それなら俺もできる。皿洗いとかトイレ掃除は得意だし」
「明彦も手伝いに行ってくれるつもりなんだ?」
「そりゃあ、お邪魔じゃなければもちろん」
「ありがとね……」
和子はそう言った後、少し躊躇ってから素早く言った。
「私……、明彦のそういうとこ、好きだわ」
電話の向こうで明彦が息を呑むのが聞こえた。
「突然どうしたの?!……そういうとこって、どういうとこ?」
「そういうとこ、全体的に……。切るね、バイバイ!」
「え、待って、俺も好き……」
柄でもないことを言ってしまった……。明彦が言い終わる前に電話を切った和子は、柔らかな日差しの中で伸びをした。




