番外編・第八話 見えない明日へ
和子が栗団子を買って家に帰ると、由恵はすでに起きていた。
「姉ちゃん、おかえり」
少し照れ臭そうな由恵にビニール袋を差し出しながら、和子は言った。
「はい、由恵の好きな『アレ』」
「ありがと! 丁度お腹空いてたんだ。妊娠してからものすごくお腹減るんだよね……」
受け取るなり、由恵は透明なパックから栗団子を取り出し、もどかしそうに簡易なラップの包装を開けた。栗団子を貪るように食べる由恵を見ながら和子は言った。
「明彦に由恵の妊娠のこと電話したんだ。そしたらね、明彦が言うの。『ミーコで慣れてるから、赤ちゃんの爪切りに、お風呂、それにお尻と肉球の毛のバリカン刈りなら手伝えるかも』って」
「爪切りとお風呂はともかく、お尻と肉球って、明彦さん、人の子供をなんだと……」
由恵は思わず吹き出した。
「もちろん容赦なく指摘した。そしたら『じゃあできるのは、数学を教えることくらいかな』って言ってた」
「それはありがたいが、大分先だな。今の私からすると、それはもう果てしない程に……。なんか明彦さんらしいね……。あ……!」
由恵は栗団子を持っていない方の手をお腹に添えて、目を瞑り、眉間に皺を寄せている。
「どうした? 痛いの?」
和子が聞いても由恵は目を瞑ったままだが、眉間の皺は消えて穏やかな顔になった。
「姉ちゃん……、もしかしたら、これ、胎動かも……。赤ちゃんが動いてる」
そう言って目を開けた由恵の頬はほんのりと上気していた。
「なんかお腹がゴロゴロするな、ガスが溜まっているのかなと思っていたんだけど、胎動だったんだ。今初めて分かった!」
そう言うと、由恵は和子を手招きした。
「姉ちゃん、触ってみて」
和子は、ゆったりとした上着を捲ってTシャツ越しの由恵の下腹部に、恐る恐る手を当てた。細身の由恵のお腹がこんなに丸みを帯びていたことに、和子は初めて気づいたのだった。こんな風に妊婦のお腹に手を当てるのは、母が龍太郎を妊娠していた三十年以上振りのことである。包み込むように手の平を当てて由恵の体温を感じながら、和子はしばらく息を潜めて待った。
「あ! 今!」
由恵がそう言った時、内側からノックされるような小さな振動が和子の手に伝わった。本当に微かな感触。
「そうか、ここにいるんだね……」
和子が手を放して静かにそう言うと、由恵は食べかけの栗団子をテーブルのパックの上に置き、両手で自分のお腹に手を添えた。
「初めて胎動を感じたよ。週数的にちょうどそのタイミングと言えばそうなんだけど、このタイミングなのがなんだか不思議な気持ち……」
和子はまだ暖かさの残る自分の手を見ながら言った。
「栗団子が好きな子なのかな。それとも理数系の赤ちゃんなのかな……」
由恵は笑った。
「そうかもしれないし、姉ちゃんが帰ってきて嬉しかったのかもしれない! はたまた、明彦さんがお好みなのかも……」
和子も顔を上げて笑った。そして、由恵の手をテーブル越しに両手で握った。
「明彦は子育ての戦力にはならないかもしれない。でも私は龍ちゃんの時の経験はあるし、明彦だって数学はまだ先だとしても、家事とか手伝えることはあると思うよ。クマさんがいるから、あまりお呼びではないかもしれないけど……」
「うん、ありがと……」
「私はクマさんや明彦みたいに楽天的なタイプじゃないから、由恵の不安な気持ちが分かる。でもいくら考えても、未来は見えないから、今私ができることで由恵の気持ちが軽くなることがあったら、遠慮なく言ってほしい」
由恵は和子の両手からそっと手を抜くと、残りの栗団子を一口で食べて、ゆっくりと咀嚼した後に言った。
「姉ちゃん、私ね、7月のあの日、『この人生に満足してる』って言ったの、嘘じゃないんだ」
「うん」
「この子のことも含めて、これからの未来にはいろんなことが起きるだろうけど、きっとなんとかなる、よね?」
和子は由恵の目をしっかりと見つめて、言い切った。
「分かんない」
「えええ……、そこは嘘でも『なんとかなる!』って言うとこじゃない?!」
「だって、私達、このたった数か月の間にも、未来のことは分からないって思い知ったじゃない? 十年ぶりの地震があって、龍ちゃんが結婚することになって、エマさんが妊娠して。しかもあんたまで妊娠してると来た!」
「それはそうだけど……」
項垂れる由恵の肩を和子は軽く叩いた。
「未来は分からないけど、由恵の隣にはいつもクマさんがいる。あんまり頼りにはならないかもしれないけど、私と明彦もいる。お父さんとお母さんも、龍ちゃんも、それにエマさんもいる。渡辺のおじちゃんとおばちゃんや、緑ちゃんと由佳理ちゃんだって、妊娠のことを聞いたらきっと喜ぶよ。それに役に立つかはともかく、キナコとミーコもいる。ばあばやアンコ、じいちゃんとばあちゃん達のあの世組も応援してくれてる。それだけは、絶対に確かだよ」
「うん……」
由恵の目にはみるみるうちに涙が溜まってきた。
「だから不安な気持ちはもちろん分かるけど、一人で抱え込まないで。不安に飲み込まれそうになったら、私や周りの人に話してほしい。一緒に乗り越えさせてよ」
「姉ちゃん、ありがと……」
由恵はすんと鼻を鳴らして指で涙を拭い、和子はそんな由恵を少しばかりいたずらっぽい目で見ながら言った。
「由恵、私はあんたの四十二年の人生を二回分、つまり八十四年分も見てきたんだよ。こんなに長く一緒にいた妹が、母親になっていくのを傍で見ることができる。世界広しと言えども、そんな姉は間違いなく私だけだよ」
「それは違いないね!」
由恵が吹き出し、和子も笑ったが、その後きゅっと唇を引き締めた。
「由恵が妊娠してるって聞いてもちっとも実感がなかったんだけど、さっき胎動を感じた時に思ったんだ。『ああ、かわいいな』って。不思議だよね、まだ見たことすらないのに、なんだかすごく愛おしい……。この子が育っていくのを傍で見せてもらえると思ったら、私、実はわくわくしてきてる。由恵の不安を思えば不謹慎だと思うし、子育てのいいとこだけ摘まもうとしてるみたいで、罪悪感もあるけど……」
由恵は赤い目で笑った。
「いいじゃん、いいじゃん、いいとこ取りしてよ! 私は姉ちゃんや明彦さんに助けてもらえたら、すごく助かるから、これぞWIN-WINだよ!」
玄関から賑やかな声が聞こえてきた。
「和子、由恵、ただいまー」
「ただいまー」
「今そこで龍ちゃんに会ったとよ」
両親と龍太郎が一緒に帰って来たのだ。
「あ、栗団子がある!」
ダイニングルームに入ってくるなり、龍太郎はテーブルの栗団子に手を伸ばした。
「手ば洗ってから!」
その手を母がぴしゃりと叩いて、大げさに痛がる龍太郎に、家族みんな笑った。
いつも通りの、平凡だけど賑やかな今日。そして、もっと賑やかな明日がやってくるはずだ。由恵には言わなかったけど、和子はそう信じていた。一点の曇りもない未来ではないかもしれない。どうしようもない現実に打ちのめされる日だってあるだろう。でも明日を積み重ねたその先には、辿り着いて良かったと思える、そんな未来がきっと待っている。由恵とエマさんのお腹の中にいる小さな命のために、そう信じたいじゃないか。
「ねえ、お父さん、お母さん、龍ちゃん、大きなニュースが二つあるよ」
そう言った由恵の目はまだ赤く、不安の欠片が残っていたけれど、さっきよりはずっと晴れやかだった。なぜか今になって、和子の目頭がじんわりと熱くなってきた。
「トイレに行ってくる!」
「姉ちゃん、そんなに高らかに宣言しなくても……」
和子は賑やかなダイニングを後にした。
手洗い場の小さな鏡の中で、少しだけ潤んだ目をした自分がこちらを見ている。
和子は鏡の向こうの自分に向かって口角を上げた。
今回の人生の私の方が、少しばかりいい顔をしているように思えるのは気のせいだろうか。私は一回目の私より『今の私』の方が結構、いや、かなり好きだと、胸を張って言える。こんな気持ちになる日が来るなんて、二回目の人生が始まった時には思わなかった。
和子は鏡の中の自分に向かって満面の笑顔を作った後、目元をそっと抑えて、鼻をかんだ。
「由恵ちゃん、勿体ぶらずに早く教えてよー!」
ダイニングに戻ると、龍太郎が由恵の袖を引っ張りながら懇願している。その様子を見て、両親が楽しそうに笑う。
「教えてほしかったら、ばあばの部屋に来な!」
和子はそう言って、引き戸を勢いよく開けた。日が差し込むリビングは、眩いほどに白く、明るかった。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
全五話の予定で始めた番外編ですが、最終話の手前で悩み込んでしまい、少し時間が空いてしまいました。
そして気づけば予定よりだいぶ増えて、第八話にて無事完結しました!
最後はかなり悩んだので、今はようやく解放されたような気持ちです。
一旦、和子と由恵の物語はこれで終わります。
でも、きっと二人はこれからも幸せに暮らしていくと確信しています。
作者である私がそう思っているので、確実です(笑)
またいつか、木本家やその周囲の面々に会いたくなったら、番外編をひょっこり書くこともあるかもしれません。
その時は、また読んでいただけたら嬉しいです。
評価、感想、ブックマーク、リアクションをくださった皆さま、本当にありがとうございます。
本編完結後もこうして読んでいただけて、とても幸せな気持ちです。
作品や、和子と由恵の姉妹を気に入っていただけましたら、引き続き評価やブックマークなどで応援していただけると、とても励みになります。
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本編から番外編までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




