第四十四話 買えなくても
翌日、和子にターミナル駅近くの喫茶店に呼び出された明彦は、向かい側に座るなり、ニコニコしながら和子に封筒を差し出した。
「はい、残りの五十万円。なんだか昼間会うの、久しぶりだね」
「違う、違う! こっちが返したかったんだって!」
「いやいや、これは師匠にあげたものだから返されても困る」
「返すって! もらえないって!」
和子に封筒を押し返された明彦は、受け取った封筒を中身の札束ごと引き裂こうとした。
「あんた、何やってんのよ!!」
思わず立ち上がって、明彦の両手を抑えつけた和子を上目遣いに見ながら、明彦は言う。
「師匠、俺、絶対に受け取らないからね? 師匠が受け取ってくれないんだったら、破って捨てるから」
和子が応えられないでいる間に、明彦は和子の手をすり抜けて立ち上がると、和子のトートバッグに手を伸ばした。そして、封筒を突っ込むと、テーブルの上の伝票を取った。
「じゃ、俺、帰るわ。もらうのがどうしても気になるんだったら、月に百円返してよ」
「な……」
「あ、対面でよろしく、ね。それじゃ、また」
その後、和子が何度メールしても、電話しても、明彦は百万円は貸したと言い張り続けた。根負けした和子は、百万円を龍太郎の治療費に充てることにして、月一万円ずつ返していくことにした。
五月から龍太郎の第二段階の治療が始まった。八月まで毎月一回の抗体薬の投与を続けて、その後は二か月空けて二回投与する。同時に、数か月かけてステロイドを減らしていき、早ければ夏にステロイドの投与を止めるのを目指すとのことだった。その後は抗体薬と少量の免疫抑制薬で様子を見ていくことになる。
龍太郎の毎月の抗体薬の投与が終わり、由恵が二十四歳の誕生日を迎えてしばらく経った頃、アメリカの大手投資銀行『リーマン・ブラザーズ』が経営破綻した。
「とうとうきたね……」
テレビを見ながら、由恵が呟いた。
「うん、でも株を買う金がないな……」
和子は溜息をついた。
和子は少しずつ毎月貯金を続けているし、由恵は奨学金を受け取っている。しかも和子は明彦から借りたお金にはまだ手を付けていない。投資するお金が全くないというわけではなかった。だが、龍太郎の治療が完全に終わる前に、いつ上がるのか分からない株を購入することはできなかった。たとえそれが2026年には数百倍になっているのだとしても……
龍太郎の経過は良好だった。だが、八月の抗体薬の投与後に二か月間隔を空けたところ、CK値が上がってしまった。その結果、抗体薬の投与回数が増えて、第二段階の最終投与は2009年3月までずれ込んだ。後になって分かったのだが、それは皮肉にもS&P500が底を打った月だった。抗体薬の費用は想定より大きくなり、最後には明彦に借りたお金まで使い切ってしまったのだった。
最後の抗体薬の投薬後は、龍太郎は免疫抑制薬のみを続けながら、定期的に検査を受け、最終的に薬無しの寛解を目指すことになる。卒業式が終わってすでに帰省していた由恵は、最後の投与から一週間後の大学病院での検査と診察に立ち合った後、和子に電話を掛けた。
「姉ちゃん、龍ちゃんの抗体薬の投与が終わったよ。後はこのままうまくいけば、今年の夏か秋には、免疫抑制薬もやめられるかもしれないって!」
「やった……!」
和子もその週末から有休を合わせて十日ほど帰省してきて、久々に祖母を除く木本家全員が揃った。獣医師国家試験を控えていた由恵は年末年始にも帰省しなかったのだ。
「なんかさ、由恵ちゃんより俺の方が健康に見えない?」
家族が揃った夕食で、龍太郎がふいに言った。元々瘦せ型の由恵は、国試に向けての勉強を続ける中で随分と痩せてしまっていた。睡眠時間が短かったのに加えて、直前にはストレスからか随分と食欲が落ちていたのだ。心配した和子があれこれ食べさせようとしたが、あまり食べず、国試が終わる頃には随分と痩せていて、体重はまだ戻っていなかった。
一方龍太郎は少々ふっくらとしており、健康そうに見えた。ステロイドを使っていた頃の食欲増進や、運動不足の影響だろう。龍太郎の言う通り、二人を並べたら十人中十人が由恵の方が病気だと思うであろう状態になっていたのだ。
両親も和子もそう思っていたが、体型や病気に関わるデリケートな問題なので、皆口をつぐんでいた。ましてや龍太郎は思春期真っただ中である。
「実は思ってた……でも言っちゃいけないかと……」
そう言う和子に、龍太郎は笑いながら言った。
「なんでよ! 俺、太っててもかわいいでしょ? うまくいけば、今年中には運動の制限もなくなるかもしれないって、先生が言ってた。そしたら俺、今度はスリムでかっこよくなるよ」
年の離れた末っ子として木本家に生を受け、家族全員に愛されてきた龍太郎は、生来の明るさと、姉たちの少々過剰な程のかわいがりによって育まれた、行き過ぎなくらいの前向きさをすっかり取り戻したのだった。
みんな思わず笑ったが、由恵の笑顔にだけは少々陰りがあった。由恵は国試の合格発表を控えているのだ。
数日後の朝、由恵と和子は、祖母の和室の仏壇の前で、今は使われていない祖母のベッドの上にノートパソコンを置き、正座でスタンバイしていた。朝の十時に農林水産省のページで合格者の受験番号が掲載されたPDFが公開されるのだ。時計は十時を回ったが、由恵は動かなかった。
「更新しなよ、私がしようか?」
和子がマウスを奪おうとすると、由恵は抵抗した。
「いい、いい、いい! 自分でやる。でもまだ心の準備が……」
「あれだけ勉強してたんだもん。きっと大丈夫だよ。……あんた、まさかまたあがり症を発動したってことはないでしょうね!?」
「それは、ない。実力は出し切ったと思う。それで受かってなければ、単なる私の実力不足だよ。そう、全て出し切ったんだから……」
由恵は深く頷くと、更新ボタンを押し、リロードされた画面に少し間を置いてPDFが表示された。
「だめ、怖い、見れない……姉ちゃん、見て……」
「いいけど、また私が合格発表見るのかよ……」
和子は目を右手で覆った由恵から受験票を受け取ると、PDFと受験票を交互に確認しながら、スクロールしていたが、しばらくするとぴたりと止まった。
そこに、由恵の番号があったのだ。
「あった……」
「嘘……」
「だから、私はこんな時に嘘をつく程に豪胆ではないって……おめでとう、由恵!」
その声を聞いて、隣のリビングで聞き耳を立てていたであろう、両親と龍太郎が駆け込んできた。
「おめでとう!!」
みんなで抱き合って喜んでいると、由恵の携帯が鳴った。
「出なよ。大事な電話でしょ?」
「え、いや……」
「いいから!」
和子はそう言うと、両親と龍太郎の背中を押して、自分も和室から出た。
「和子ちゃん、由恵ちゃんの電話、誰?」
「分かんないけど、大事な人じゃない?」
「それは、俺よりも?」
和子は笑いながら、不満そうな龍太郎の肩を抱いて、ダイニングに向かった。龍太郎の背は、いつの間にか和子と変わらないくらいになっていた。




