第三十八話 ばあばに似てる
珍しくゆっくりと銭湯に浸かった和子と由恵は疲れていたのかもしれない。何度か目が覚めてもまたうとうとして、日が高くなってからようやく目覚めた。
「あんた達、やっと目が覚めたとね。会社と大学が始まったらどうするとね」
母は呆れた顔をしている。龍太郎は友達の家に遊びに行っており、すでにいなかった。
「おふくろもえらい起きてこんけん、見てくる」
祖母の和室に父が行ってしばらくした後、ガタっと音がして、父が叫んだ。
「救急車! おふくろ、息をしてない……」
由恵が弾かれたように立ち上がって駆け出し、和子と母もそれに続いた。
由恵は布団をめくり、祖母の首と手首に指を触れて脈を確認すると、無言で首を横に振った。医療の知識がない和子にさえ、祖母の様子から亡くなっていることは明らかだった。
「救急車……」と部屋を出ようとした母を由恵が押し留めた。
「お願いできるなら、かかりつけ医の先生に来てもらった方がいいかもしれない。入院してたのは、近所の山本内科でしょ?」
「電話してみよう」
父が電話すると、休診日だが山本先生が在宅だったので、すぐに来てくれることになった。十五分程して現れた先生は一通りの確認の後、死亡診断書を発行してくれた。
「肺炎の後で心臓が弱っていたのかもしれません。お風呂も心臓に負担を掛けますから、眠っている間に急な不整脈を起こしたのかもしれませんね」
先生はそう言いながら、両親を見て、次に和子と由恵を見た。
「穏やかな顔をされていますから、きっと苦しまれなかったと思いますよ。木本さん、『孫が帰ってくるけん、それまでには退院せんと』って、お孫さんたちが帰省するのをそれは心待ちにされていました。皆さんがいるときにご自宅で亡くなられて、きっと幸せだったと思います」
先生にお礼を言って見送った後、両親は葬儀社に電話を掛けたり、親戚に連絡をし始めた。和子と由恵は正座をして、ちょうど目線の高さにあるベッドの上に横たわった祖母の横顔を見ていた。
「由恵、ばあば、死んじゃったね……銭湯、止めた方が良かったのかな」
「そんなことないと思うよ。ばあば、昨日すごく楽しそうだったじゃん」
由恵は祖母の頬に手を触れて、言った。
「姉ちゃん、私、今、実習でたくさんの病気の動物を見てるでしょ。ときどきアンコが死んだ時のことや、あの時ばあばが私に言ってくれたことを思い出すの。ばあばが言った通り、私の隣で亡くなったアンコは幸せだったと、今は思うんだ。ばあばもきっと幸せだったよ。最後に家族みんなと、特に姉ちゃんといられて」
「私……?」
和子が瞬きをすると、右目から溜まっていた涙が一筋流れた。
「そう、小さい頃からばあばとずっと一緒に寝てたのは姉ちゃんじゃん? ばあばは姉ちゃんを一番心配してたし、一番誇りに思ってたし、姉ちゃんがばあばの『一等』だったと思うよ」
和子はなにか言おうとしたが、言葉は出てこなかった。代わりに出てきたのは嗚咽だった。静かに泣く和子の肩に腕を回して、由恵は和子の肩をさすった。
「姉ちゃん、ばあばは一回目より六年半長く生きて、姉ちゃんが大学を卒業して就職するのを、そして、私がみんなに助けられてなんとか獣医学部に入るのを見てた。それに龍ちゃんの小学校入学から六年生までを見守ることができたよ。『プロジェクト・BA』は大成功だったと、私、今は思うんだ」
いつの間にか由恵も静かに泣いていて、二人は抱き合ってしばらく泣いた。
祖母の通夜は翌日、葬式は翌々日に行われることになった。
和子は会社の上司に、由恵は研究室の先生や同期に電話を掛けた。祖父母の忌引き休暇として三日休みを取ることができるが、無理せずに有休も合わせて、来週いっぱい実家にいるといいと、和子の上司は言ってくれた。由恵も同期の子が実習の当番を代わってくれて、来週いっぱい熊本にいることができることになった。
「ただいまー」
玄関から龍太郎の声が聞こえて、ダイニングにいた皆は顔を見合わせた。和子と由恵は龍太郎に説明する言葉を持ち合わせていなかった。父は「僕が言うけん」というと立ち上がった。
「龍太郎、ばあばの部屋に行こうか」
父が龍太郎の肩を抱き、和室へ連れて行った。数分後、和子が母と由恵と共に部屋に向かうと、今は葬儀会社から借り受けた布団に寝かされている祖母の横で正座した龍太郎は泣いてはいなかった。龍太郎はきゅっと虚空を睨むようにして言った。
「ばあばはさ、みんなで大晦日にモノポリーして、お正月にお節とお雑煮食べて、かずちゃんと由恵ちゃんと銭湯行って、そのまま寝てさ、きっと楽しかったよね?」
そう言いながら、龍太郎の目にはみるみるうちに涙が溜まってきた。
「だから、僕泣かないんだ。ばあばがアンコが死んだ時に言ってたもん。アンコは最高に幸せだったって。ばあばもきっと幸せだったよね。だから、僕は泣かない」
溜まった涙がポタリと落ちては、龍太郎の顎を伝ってセーターに染み込むのを、和子は見ていた。龍太郎は涙を拭かず、じっと虚空を見つめ続けていた。アンコが死んだ時にその理不尽さに声を上げて泣いていた龍太郎が、哀しみを内側に押し込めて耐えている。
龍太郎は本当に大きくなったんだな。
和子は少々場違いな感慨を覚えて、この瞬間にそんな感情が起きたことに驚いた。冷静にそんなことを考える自分は心が冷たいのかもしれない。でもばあばも「龍ちゃん、もう赤ちゃんじゃなかね」って言うかもしれない。和子はそんなことを考えていた。
龍太郎は涙を右腕で乱暴に拭き取ると、両手を太ももに付いて立ち上がり、無言で和室を出て行った。
一回目の人生で和子は木本の祖母と渡辺の祖父の葬式に出席した経験があったが、これが二回目で大人になってから初めて出席する通夜と葬式だった。和子と由恵は夕方に近くの服屋で喪服を買った。龍太郎は卒業式用に買っていたブレザーと黒いパンツで出席することになった。
通夜の会場に入ると、祭壇の花とは別に、父の職場である市役所からの供花と共に、既に和子の会社の名前の入った立派な供花も飾られていた。上司が総務部に手配を依頼してくれたのだろう。きっとばあばにとっては名前も聞いたことのない会社だろうに、「いい会社に入った」と私が照れてしまうくらいに何度も繰り返していたんだ。ばあばは、この花を見て喜んでいるかもしれないな。和子はそう思った。
通夜はつつがなく行われ、父が祖母の弟と共に斎場に泊まってろうそくの番をすることになった。遠方に住む祖母の親戚が何人か家に泊まることになったので、母と和子と由恵、それに龍太郎は家で過ごした。
翌日、葬式が行われた。渡辺の祖父母に伯母夫婦、従姉の緑ちゃんと由佳理ちゃんも来てくれた。和子と由恵も葬式の受付をしたり、忙しく立ち働いている間に葬式も終盤に差し掛かり、棺の周りに出席者が集まり、出棺の前に花を棺に入れる時が来た。
棺の中の祖母は少しふっくらと健康そうに見えた。頬に綿を入れて、お化粧を施されているせいかもしれない。和子は祖母の綺麗にセットされた髪を軽く撫でて、頬に手を触れた。ひんやりと乾いた質感で、生前の柔らかさはなかった。でも、祖母は少しばかり誇らし気に微笑んでいるようにも見えた。
「ねえ、ばあば、なんかかわいいね」
花に囲まれた祖母の耳元辺りに花を足しながら、龍太郎が言った。
「姉ちゃん、やっぱりばあばに似てるわ」
和子の横顔を眺めた由恵がふいにそう言うと、母が「ふふっ」と笑った。
「ほんと、和子がやっぱり一番ばあばに似とるね」
目を赤くした父も少し笑った。
そして祖母の棺は静かに閉じられた。




