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未来はナプキンに書いてある 〜一攫千金を目指す姉妹の昭和・平成奮闘記〜  作者: Tokinapo


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第三十五話 今週三回目のカレー

 2003(平成15)年の残りの3月は、凄まじく慌ただしかった。


 両親は由恵のN獣医大への進学に賛成し、現在の資金で足りない分は出すと言ってくれた。毎月三万円を和子に支払うことにも同意してくれて、広い部屋への引っ越しの際には数十万円を援助すると約束してくれた。和子が入社するF社は安月給ではないが、新入社員の給料で敷金礼金を支払うのは厳しい。しかも、投資していた資金を失った和子にとって、両親の提案はとてもありがたかった。

 この時点ではまだ外国株式には特定口座の制度がなかった。源泉徴収もされないので、和子は今回の売却益の税金を来年の確定申告で支払うため、ある程度の金額をプールしておく必要があった。この頃の上場株式の売却益には軽減税率が適用されており、10%と現在に比べると半分だった。一年後に税金を払うのは辛いとは言え、その分和子の心は多少軽いのだった。


 卒業式に出席するために和子は一足先に東京に戻り、由恵は少し遅れて上京することになった。まだ入学式に着るスーツすら用意していないので、買わなければいけないものもたくさんあったのだ。

 と言っても、しばらくは和子の狭いアパートに住むことになるわけで、家具も家電も不要である。寝具も和子がどうにか押し入れに収めている来客用の布団があるので、とりあえずは購入しないことにした。


「由恵ちゃんまで東京に行っちゃうとはねえ……」


 母は由恵と買い物をしながら、最後の時間を名残惜しそうに噛み締めているように見えた。


 両親と祖母は由恵のN獣医大への進学と上京を寂しく思いつつも祝福してくれている。だが、問題は龍太郎だった。すっかり地元のA大に行くつもりだった由恵は、「龍ちゃん、由恵ちゃんはおうちから大学に通うからね」と不用意にも龍太郎に言ってしまっていたのだ。


「由恵ちゃん、ずっとおうちにいるっていったもん! 嘘つき! 由恵ちゃんなんて大嫌い!」


 龍太郎は泣き喚いた。今回に関しては完全に由恵が悪い訳で、由恵は平謝りだった。


「龍ちゃん、ごめん! 夏休みには帰ってくるから、帰ってきたらたくさん遊ぼうね」

「夏休みなんてずっと先じゃん!!」

「帰ってくる時お土産たくさん買ってくるし、龍ちゃんの好きな物買ってあげるよ?」


 龍太郎は上目遣いで、ちらりと由恵を見た。


「……今は? 今も龍ちゃんの好きな物買ってくれるの?」

「……何が欲しいの……?」


 かくして由恵は龍太郎ご所望の本とケーキを買ってやることで、大好きな弟、兼『推し』からの「大嫌い!」の刑を免れたのであった。


 ***


 ついに由恵が上京し、和子と由恵、二人の新生活が始まった。和子の現在の部屋は二十平米程度、北区の部屋よりは二平米程は広いとは言え、ほぼ誤差レベルである。和子のベッドの隣に由恵の布団を敷くと、もうローテーブルも置けないので、テーブルは壁に立て掛けておくしかなかった。


 窮屈ではあるが、家に帰って由恵がいてくれるのは自分にとっても良いことだったなと和子は思う。和子にとって久々の新入社員生活が始まり、一回目の人生で二十年以上勤めた勝手知ったる会社とは言え、誰かに愚痴りたいと思うこともあったのだ。一回目に新入社員として入社した会社に比べれば、全然ましではあったけれども。


 由恵にとっては全てが新鮮な大学生活である。一回目の時は文系の短大に行ったのが、今回は四年制どころか六年制の獣医学部だ。一回目の三倍という長期間大学に通い、最後には国家試験まで待ち構えていると思うと、ちょっとクラクラしてきそうだった。しかし、今回の学費は姉の和子、両親、木本の祖母、渡辺の祖父母、伯父伯母という総力戦で出してもらっている。頑張らない訳にはいけないと由恵は意気込んでいた。和子は「あんまり頑張ろうとしないで。また、あがったら困るからさ……」とそんな由恵の肩を揉みながら言うのだった。


 一年生では教養の授業が多いとは言え、獣医学部の授業は文系の短大とは全然違っていた。理系や獣医学の基礎科目、実験や実習もあり、忙しさは短大の時とは比べ物にならないのだった。初めての白衣に舞い上がった由恵だったが、そんな暇もないくらい忙しい毎日が始まったのであった。


 和子は、一回目で通い慣れたF社で、それなりに新鮮で平和な新入社員生活を送っていた。


 通常、入社してしばらくは社内の相関図が分からず苦労するものである。この人達は同期入社だとか、誰と誰が犬猿の仲だとか、実はこの二人は付き合ってるとか。それを知らない間はどこで地雷を踏むか分からないし、地雷を踏み抜いたことにすら気づいていなくて、後でそれを知った時なんて、本当に生きた心地がしないのだ。

 その点、二回目の人生分の二十二年間のブランクがあるとは言え、和子にとっては二十年以上働いた会社である。今の関係どころか、今後の関係すら把握しているというのは強かった。ただし、この二人はすでに同棲してるんだっけ? まだ結婚はしてないんだっけ? とか細かいところで困ることはあったが。


 それを差し引いても、和子が二回目でも入社したいという会社だけあって、F社はいい会社である。ほぼすべてにおいて和子が一回目に新卒で入社したO社とは真逆であった。


 O社は家族経営の会社で、社長の家族が役員のほとんどを占めており、社長の一存で就業規則が翌日に変わるなんてざらだった。始業時間は九時だが、八時に来て掃除をしてから朝礼に参加しないといけなかった。もちろん前残業にはならない。終業時間は六時だが、時間通りには帰れない。どんなに仕事がなくても最低一時間は残業するのが常識だという謎ルールがあり、新入社員でやることがない時には、和子はひたすら壁の時計を見つめていた。部署に一台しかパソコンがなかったので、メールを繰り返し読んで時間を潰すことすらできなかったのだ。もちろん残業代は出ない。有給休暇を取る際は理由を明記して上司に承認してもらう必要があり、病気以外で取る人はいないので、毎年たくさんの有休が消えていった。

 ほぼ強制参加の飲み会では若い女性社員は強制的に役員の隣に座らせられて、お酌をさせられた。しかも参加費を取られる。そして、極めつけは年に一回の社員旅行で、旅費は毎月給与天引きされ、欠席は葬式くらいしか認められず、くだらない隠し芸をしなければならなかった。


 昭和から平成の前半に掛けてはありふれた会社だったのかもしれないが、和子にとっては物凄くストレスだったのだ。F社は全てにおいて逆である。つまり家族経営ではなくて、就業規則が変わる時には従業員代表の意見を聞くし、そもそも社員に不利になるような変更自体が行われない。始業時間までに出社すればよくて、残業の必要な時にだけ残業し、その分の残業代が支給される。有休取得の際には理由は不要で、旅行で連続休暇を取る人もざらにいた。パソコンは一人一台支給されている。年に数回しか行われない飲み会は自由参加で、好きな場所に座ることができ、費用は会社負担である。社員旅行はない。


 至極真っ当な会社で、付き合い方を知っていればそこそこに真っ当な人達と働くのは悪くなかった。もちろんたまに残業もあるが、真っ当な理由で、真っ当な時間残業するのであれば、残業代も出るし悪くないのだった。


 和子が終業後に自分のアパートに辿り着くと、換気扇からカレーの匂いがする。その匂いに心を躍らせながら、和子は部屋のドアを開けるのだった。ドアを開けてすぐの台所の一口コンロで、由恵がカレーを温めている。それがたとえ今週三回目のカレーであろうとも、由恵と今日の出来事を話しながら食べる夕飯はほんのりと幸せだった。

 由恵は大学であったことを身振り手振りを交えながら話すのに夢中で、いつの間にかスプーンを持つ手が止まっている。そんな由恵を見ていると、自分の五百万円の『投資』は間違っていなかったと、和子はそんな気持ちになるのだった。


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