第三十四話 これも『投資』
「これはさすがに無理だ……」
N獣医大の学費の書かれたパンフレットを前に、木本家の両親は頭を抱えた。
由恵は前期、後期の二次試験の健闘空しく、国立G大に落ちてしまった。由恵が合格した大学は二校。東京の私立N獣医大、そして熊本の私立A大の看護学部である。木本家にとってかなりのダメージではあるが、両方の大学に入学金を納めていた。それだけ両親はどちらを選ぶべきなのか決めかねていたのだ。
元々志望していた獣医学部に合格しているのだから、もちろん由恵を行かせてやりたいと思う。だが、私立の獣医学部の授業料は木本家の想像を超えていた。それで、大学生最後の長い春休みに帰省してきた和子も加わって、唸っているのだった。私立の授業料を支払うまでには五日ほどの猶予しかない。それまでにどちらの大学に行くか決める必要があった。
N獣医大で一年間に掛かる学費は約二百二十万円、一年目は入学金やそれ以外の費用もかかる。そして獣医学部は六年間である。六年間で支払う金額は、学費だけで約千三百万円にのぼる。しかも東京で一人暮らしをさせる必要があると思うと、どう考えても木本家で賄える金額ではないのだった。
「A大の看護学部に行くよ」
由恵は伏し目がちに微笑んで言った。
「うちにはまだ小学校一年の龍ちゃんがいるんだから、私にこんなに学費が掛かったら破産しちゃう」
祖父の掛けてくれていた養老保険が二百万円、祖母の掛けてくれていた学資保険百万円が満期を迎えていた。だが、N獣医大の学費の前では、焼け石に水だった。
由恵が寝た後、両親がダイニングで相談しているのを、和子はリビングから引き戸に耳を当てて聞いていた。
「私、明日、渡辺の父にお願いしてみようと思うとよ」
「そんな、和子の学費を出してもらって、養老保険まで掛けてもらって、これ以上は……」
「でも由恵がかわいそう過ぎる……ある程度お父さんから借りてなんとか行かせてあげられんどか……」
「わかった、じゃあ僕もお願いしに行くけん。一応聞くだけ聞いてみよう。由恵は置いていこう。お義父さんも断り辛くなるだろうし、由恵に期待させたくない」
「お父さん、お母さん!」
和子は引き戸を開けると、突然の登場に驚く両親に言った。
「私も行く! じいちゃんにしっかり学費のお礼を言いたいし」
翌日、両親と和子は龍太郎を祖母に託して、渡辺家に向かった。両親は和子の同行を認めたが、余計なことを言わないようにと釘を刺した。和子は元々何かを言うつもりはなかった。祖父のお金のことを確かめたいと思っていたのだ。
渡辺の祖父は決して首を縦には振らなかった。
「貸すとは言え、いくらなんでも大金過ぎる……」
と渋い顔で言い、両親もそれ以上強くは頼まなかった。和子は祖父に学費を出してもらったお礼を言いながら、暗澹たる気持ちになった。やはり用地買収の金は無くなっているに違いない。伯父と伯母にも聞いてみると、「最近のお父さんの金遣いはかなり静かになったから、恐らく……」とのことだった。
木本家が車に乗ろうとしていると、祖母が小走りにやってきた。「これを」と祖母が渡したのは百万円が入った封筒だった。
「とても足りんだろうばってん、由恵ちゃんのために使ってはいよ。私の貯金だけん、気にせんでいいけん」
両親が返そうとしたが、祖母はどうしても受け取らず、母は額に押し抱くようにして封筒を受け取った。
***
「由恵、浪人はどうかな」
家に帰ると父が切り出した。祖母が龍太郎を近所のスーパーの買い物に連れ出してくれていた。
「予備校の学費はなんとかできるけん、来年もう一度挑戦してみないか?」
「お父さん、ありがとう。でも、もういいの」
由恵はすっかり諦めてしまっているように見えた。作り笑顔が痛々しかった。
「お父さん、由恵に浪人は向いてないように思うよ。本当は合格圏内だったのに、センター試験であがってしまってダメだったんだもん。浪人なんてしたら、もっとプレッシャーがかかって、あがるに決まってる」
和子が言うと、由恵は頷いた。
「ほら、姉ちゃんの言う通りだよ。そもそも獣医なんて私には向いてなかったんだよ……」
由恵の言葉を無視して、和子は続けた。
「だからさ、今年、N獣医大に行かせよう」
「和子!?」
「かずちゃん!?」
「姉ちゃん!」
由恵と両親の叫びを完全に無視して、和子は続けた。
「じいちゃんの養老保険が二百万円、ばあばの学資保険百万円、さっき、ばあちゃんがくれたのが百万円。あと実は伯父さんと伯母さんが五十万円出させてほしいって言ってくれたんだ。由恵には恩があるからって」
「恩って?」
両親は混乱しているが、目を丸くする由恵に少し笑いかけて、和子は続けた。
「これで四百五十万円。到底足りないんだけど、もし、もしもだよ、ここにそれ以外に五百万円あるとしたら、 合計九百五十万。これで少しばかり現実的にはならないかな?」
「五百万……!?」
和子は携帯を開くと、困惑する両親と由恵の目の前に小さな液晶画面を近づけた。
「私の証券口座に約五百万円入ってる。昨日の晩、私が持ってた株を売ったんだ。銀行口座に入金されるまでは数日かかるけど、これを由恵の学費に使ってよ。授業料の支払いの締め切りに間に合わなさそうなら、まずは手元にあるお金で先に払ってもらうことにはなるけど」
「和子!」
「かずちゃん!」
「姉ちゃん!」
また三人が同時に叫んだ。
「みんな色々言いたいことがあるのは分かるけど、これは私がばあばからもらった学資保険の通帳のお金と自分で貯金してきたお年玉やお小遣いを元手にして、株を買って増やした真っ当なお金だよ。変なことはしてないから安心して。自分で稼いだお金じゃない、ばあばやお父さんとお母さん、じいちゃんやばあちゃんにもらったお金が元手だから、由恵にも使う権利があると思うんだ」
「こんな大金、姉ちゃんに出させられないよ! それに、それでもN獣医大なんて無理だよ」
由恵が叫んだ。
「その通り。まだ授業料にも足りないし、東京での一人暮らしをするお金が必要だもんね。それで、お父さん、お母さん、提案なんだけど、由恵を私の部屋に住ませるのはどうだろう。今のアパートを更新したけど、いずれもう少し職場の近くに引っ越したいと思ってたんだ。あの部屋に二人はかなりきついけど、しばらくしたら少し広めの部屋を借りるからそれまでの辛抱だよ。お父さんとお母さんが、由恵の食費と光熱費の一部として三万円負担するってことでどうかな。そして、残りの学費をなんとかお願いできればと思うんだけど……」
「姉ちゃん、来て!」
由恵は和子の手を引っ張ると、二階の自分の部屋に連れていき、ダイニングには両親が残されたのだった。
***
「あんな大金、姉ちゃんに出させられないって!」
ベッドに座って、首を項垂れる由恵に、和子は四つ折りの紙を手渡した。由恵が覚えていたナプキンに書いた年表と株価をワープロで清書して感熱紙に印刷したものだった。和子は薄くなった文字の中の一行を指差した。
「『2001 ITバブル崩壊・9・11』、私、これで儲けたんだよ。2001年に二十歳になってすぐネット証券の口座を開設して、9・11の後にアマゾン株を百三十万円分買ったら、現時点で五百万以上になったんだ。まだITバブルの暴落から戻ってない株もたくさんあるから、買ったのがアマゾンだったのは幸運だった。私が先に成人して株が買えるようになって、たまたまいいタイミングで買えただけで、もとはと言えば由恵のナプキンのおかげじゃん? だから気にしないで使ってよ」
「気にするって……姉ちゃん、その株2026年まで取っておけば、それこそ億万長者で『上がり』かもよ?」
和子は由恵の肩に腕を回した。
「大丈夫! 次のリーマンショックでまた仕込むからさ。……正直言っちゃうと、一回目の人生で、何も知らない状態だったら、私、さすがに五百万円出す勇気はなかったと思うんだ。由恵の年表があって、次の暴落が分かっているから出せるんだよ。だからさ、これは私一人のお金じゃない。それに誤解しないんでほしんだけど、これも『投資』だからね? 将来お迎えするミーコに二十四時間対応可能な獣医がいたら、心強いでしょ? ミーコのために一生こき使わせてもらうからさ」
「姉ちゃん……」
目を潤ませる由恵の髪の毛を、和子はわしゃわしゃとかき混ぜた。
「あと、うちに居候したら、食事係はあんただからね! ただし、ご存じの通り、私の数少ない特技の中の一つは同じものを毎日食べても飽きないことさ。忙しくなってきたら納豆ご飯でもいけるから」
「姉ちゃーん! ありがとう!!」
由恵は和子に抱き付くと、声を上げて泣き出した。
「あとはお父さんとお母さん次第だけど、きっとなんとかしてくれるよ。無利子の奨学金が借りれそうなら、申し込んでみてもいいかもしれない。借りておいて、使わずに済んだ分は卒業後にすぐに返してもいいし。獣医学部は実習とか忙しそうだから、どれくらいバイトできるか分からないしね」
泣き止まない由恵に、最後に和子はこう言った。
「あんたの大学生活一番のミッションは、獣医国家試験までにあがり症をなんとかすることだからね。それだけは頼んだよ……」
由恵は和子の肩に頭を埋めたまま、しゃくり上げながら頷いた。




