第三十三話 模試の神
「姉ちゃん、終わった……」
それが、センター試験の成功をそわそわしながら祈っていた和子が、試験二日目の夜に由恵から受けた電話の第一声だった。
「ちょっと落ち着いてよ! 自己採点の結果も出てないのにどうした!?」
初っ端から絶望ムードの由恵に動揺した和子は、思わず大声を出した。
「自己採点なんてしなくても結果は分かってる……姉ちゃん、すっかり忘れていたんだけど、私って、とんでもないあがり症なんだった……」
変にふてぶてしいところがあり、毎回模試より本番の方が必ず良い点数を取るという和子と違い、一回目の人生の由恵はあがり症だった。模試やちょっとした試験であれば問題ないのだが、「人生が賭かっている」と本人が思い詰めてしまうような重要な試験を受ける際には腹痛、吐き気、冷や汗に襲われて、頭が真っ白になってしまう。そのせいで高校受験も大学受験もうまくいかず、実際の実力よりも下の学校に行くことになったのだった。
「でも、あんた、高校受験の時なんか鼻歌歌い出しそうなくらいリラックスしてたっていうじゃん? すっかり治ったんだとばかり……」
「そう、今回の人生ではあれを経験してないから、自分でもすっかり忘れていたんだ。M高は楽勝だと思ってたから、まったくあがらなかったみたい。でもセンターは全然違った。マークシートは全部埋めるには埋めたけど、国語や英語の長文読解なんて全く頭に入ってこなかったし、数学も全然だと思う。終わった……姉ちゃん、あんなに英語教えてくれたのにごめん……」
由恵が受け取った判定は国立のG大、Z大共にD判定だった。G大の方が偏差値は高いが、二次試験の配点が高く、二次での逆転の可能性があると言われていたので、前期、後期ともにG大に出願することにした。
二月上旬、G大の二次試験に先駆けて、N獣医大の試験が行われる。由恵は試験の前日に世の中の不幸を全部背負っているような顔をして、和子のアパートにやってきた。
「由恵、だ、大丈夫?」
「なにも大丈夫でないよ……」
暗い、暗過ぎる……和子は絶句した。なんだか部屋の照明さえ暗くなった気がするくらい、由恵は落ち込みようはひどかった。
翌朝、早く起きて身支度を整えた、強張った由恵の背中に和子は声を掛けた。
「リラックス! リラックス!」
由恵が振り返ってキッと、和子を睨む。
「そんなの、できる訳ないじゃん!」
和子は大げさに目を丸くした。
「えー、なんでよ? 授業料高過ぎて、受かっても絶対行けっこないって由恵言ってたじゃん? そしたらそこまで緊張する必要ある?」
「う、それはそうだけど……」
「じゃあ、言わばこれは、G大の二次試験の予行演習、模試みたいなもんでしょ? 肩の力抜いてこうぜ」
「うん……」
「人生二回目の四十代の意地見せてこい! 十代に負けんなよ!」
「うん!」
少しばかり顔がきりっとした由恵を駅まで送って、和子は白い息を吐きながら澄んだ青い空を見つめた。どんな結果であれ、由恵が後悔しない結果になってほしいと願いながら。
「本気で模試だと思って受けてきたわ。模試の神の力、見せつけてやったわ! 姉ちゃん、ありがとね」
由恵はそう笑って帰って行った。由恵に笑顔が戻って和子はほっとしたのだった。
***
二月中旬、和子は九時四十五分頃にN獣医大キャンパスを訪れていた。掲示板の前にはすでにたくさんの学生や保護者が集まっていた。和子はコートのポケットに入れた由恵の受験番号が書かれたメモを取り出しては、何度も確認した。和子の手の汗でメモは波のようにたわんでいた。
10時ちょうどに大学職員が掲示板に合格番号の書かれた紙を貼り出した。少し遠巻きに待っていた人たちが一斉に掲示板の周りに集まった。皆一心不乱に自分の番号を探す。方々でわっと声が上がるかと思えば、何度も何度も上から下まで番号を必死で見ている人の姿もあった。
和子も掲示板の前へと歩み寄った。番号を見るとかなり飛び飛びになっている。二十倍以上の倍率だと聞いていた通りの狭き門だった。上から見ていき、隣の列に移る。もうすぐ由恵の番号の辺りだ……
「あった……」
思わず、和子はそう声に出していた。あった、由恵の番号だ……! 合格だ!!
和子は掲示板から少し離れて、震える手で携帯を取り出すと、携帯を開いて木本家に電話した。
「もしもし? 和子ね!」
呼び出し音が鳴る前に電話に出た母の声が震えている。
「お母さん、由恵に代わって」
すぐに電話口に由恵が現れた。
「姉ちゃん、気を遣わんでいいから、言って」
電話口で、由恵がゴクリと唾を飲む音が聞こえた。
「受かってた! 受かってたよ、由恵! おめでとう!」
「嘘!」
「こんなことで嘘言うかよ! なんか面白いこと言おうと思ったけど、頭が真っ白で思い浮かばなかった。おめでとう、由恵! よく頑張ったよ!」
由恵が声を上げて泣き出して、和子の目にも涙が溢れてきた。
「和子っ! どうなってるんだ? 落ちたのか?」
泣き出した由恵から受話器を奪ったのであろう、父の狼狽えた声が聞こえる。
「なんでよ、お父さん! 由恵、受かった、受かったよ!」
「受かった!! 受かったって!!」
父がみんなに向かって叫んで、わっと歓声が上がった。きっと電話の向こうはお祭り騒ぎなんだろう。
和子は、N獣医大近くのケーキ屋さんでショートケーキを一切れ買った。そして『ゆえ、おめでとう!』とプレートにメッセージを入れてもらった。
由恵の受験はまだまだ続く。でも今日だけはこの喜びを噛み締めてほしいと、和子は思った。




