第三十二話 『そこそこ』こそ至高
2002(平成14)年4月、和子は大学四年生に、由恵は高校三年生になった。そして木本家の末っ子である龍太郎もとうとう小学校に入学した。和子は就活、由恵は大学受験であり、木本家にとって勝負の年である。
由恵は学校から帰ると、毎日受験勉強に励んでいた。「アンコのことを考えなくて済むから助かる……」と言うのを聞いて、和子は胸が苦しくなった。
一方、和子の就活は2001年の秋から始まっており、2002年1月から3月の間に会社説明会を受け、エントリーシートや履歴書を提出し、筆記や適性試験まで完了していた。会社によっては一次面接まですでに終了している。
冬休みに帰省した際、由恵に氷河期の就活を労われても、和子は飄々《ひょうひょう》としていた。
「姉ちゃん、きっと大変だよね」
「大変っちゃ大変だけど、そうでもない。一番大変なのは履歴書を手書きしないといけないことだね。修正液使ったら誠意が感じられないから、反故にして最初から書けって言われてるんだよ。平成の精神論、クソだわ!」
六月。その妙な飄々さそのままに、和子は木本家に電話で告げた。
「F社から内々定が出た。就活終わり!」
両親に電話を代わってもらった由恵は、子機を自分の部屋に持ち込んだ。
「姉ちゃん、F社ってどういうこと!? 姉ちゃんが一回目に働いてた専門商社じゃん!」
「そうそう」
「今の姉ちゃんならもっといいとこ狙えたんじゃないの? 下手すりゃ外務省とかさ……」
「は、無理無理。言っとくけど、この会社、結構難しいのよ、この氷河期に新卒で正社員として入社しようと思ったら。一回目は契約社員で入って、三年後に正社員登用してもらったからいけただけ」
「ねえ、大学受験あんなに頑張って、大学でも頑張ってる姉ちゃんはどこいっちゃったの!? 就活に関しても、もっと上昇志向はないわけ?」
「ないね。それにこの会社いい会社よ。年間休日が多くて、有給休暇取りやすくて、残業少な目で、給料も悪くない。そして最も大切なことは、ヤバい人が少ない」
「わかるけどさ……」
「二十年以上働いた会社よ。事業内容も、会社が欲しがる人材像も、面接官の面々の性格も知り抜いとる。大変とは言え、一回目の就活と比べればだいぶ楽だったわぁ」
「ちょ、姉ちゃん! やりがいとか、そういうやつは!?」
「別にやりがいもない訳じゃない。社内に英語できる人少ないから、アメリカのメーカー担当の部署に最初から配属されるだろうし。私、将来的には投資で増やした金で暮らすから、そこそこの頑張りで、そこそこの給料稼いで、そこそこ緩く、消耗せずにやっていきたい。だから一生懸命勉強してきたのよ」
「まさか、あの受験や大学での頑張りが、『そこそこ』の実現のためだったとは……まあ、姉ちゃんがそれでよければいいんだけど」
「いい、いい。大学までに積み立てた努力と、投資で増やした金で悠々自適な人生を送るよ。だからこそ、姉さんは、君の獣医という崇高なキャリアチェンジを誇りに思い、応援しておる……!」
「ちょ、茶化すなよ!」
「応援してるのは、ほんとだって! 頑張れよ、受験生。そういえば、N獣医大だっけ? 夏のオープンキャンパス、来るんでしょ?」
「一応、お父さんとお母さんも見てきなさいって言ってくれてるしね。ただ、学費的に無理だと思うよとは伝えてるんだけど。あの二人は東京の私立獣医学部の恐ろしさを知らない……」
「でも由恵興味ある大学なんでしょ? ちょっとした息抜きも兼ねて来たらいいじゃん。私も会いたいし」
「そうだね、そしたらお父さんとお母さんに言ってみる。飛行機決まったら連絡するね」
「はいよー、待ってる!」
七月下旬、由恵は和子の家に泊まって、オープンキャンパスに行くことになった。和子のアパートからN獣医大は、電車を含めて三十分以内で着いてしまうくらいに近いのだ。
オープンキャンパスに行った由恵はN獣医大を気に入ったらしかった。2003年度から二学部制になるらしいが、それでも比較的小規模の大学だ。そうは言っても、馬場や厩舎も併設されており、付属動物医療センターもまもなく竣工するという。生徒数も多くなく、お互いがお互いを知っているような、アットホームな雰囲気の大学だった。
「学費的に絶対無理だけど、東京でこの大学に通ったら、姉ちゃんとも頻繁に会えるしいいよねえ」
オープンキャンパスから帰ってきた由恵は楽しそうに、でもどこか諦めた目をして和子に語ったのだった。
「滑り止めとして受けるにはレベル高すぎるんだけど、お父さんとお母さんが私立の獣医学部も一つくらい受けてみなさいっていうから受けるね。受験の時はまた泊めてね。あとは滑り止めとして熊本の私大の看護学部かなと思ってる」
由恵の志望校も大体決定した。あとはセンター試験の結果を見て、国立のG大とZ大のどちらを受験するのかを決めるだけだった。模試ではB判定が続いていた。
2002年12月、木本家は静かで、そしてどこかピリピリしていた。帰省した和子は、その空気に自分の受験の冬を思い出すのだった。由恵にとって、センター試験でも、国立の二次試験や私立の試験でも、英語は不可欠だった。和子は四年間培ってきた家庭教師経験を活かし、由恵に徹底的に受験英語を叩き込んだ。
そして、年が明け、由恵のセンター試験がやってきた。




