第三十一話 幸せな眠り
元旦、家族みんなでお屠蘇を飲み――と言っても母と祖母と和子は酒に弱く、残りは未成年なので、みんな一舐めしただけで、用意したお屠蘇はほとんど父が飲んだ――、お雑煮とお節の後はみんなのお楽しみ、お年玉タイムである。
両親から子供達へ、そして祖母からは両親も含めた全員にお年玉が渡される。今年は和子も由恵と龍太郎にポチ袋を渡した。「龍ちゃんも起きとくって言ったのに、誰も起こしてくれなかった!」と不機嫌だった龍太郎も、機嫌が直って満面の笑顔である。アンコもお年玉として大きな骨のおやつをもらい、一心不乱に噛んでいる。
和子が祖母からもらったお年玉の入った封筒にはこう書いてあった。
かずちゃん
たくさん一緒にお出掛けしてくれてありがとう。
かずちゃんと一緒におれて、ばあばはとっても楽しかったよ。
また、帰って来てくださいね。
ばあば
封筒を見た和子は由恵と目を見交わした。由恵も頷くと、親指を立てて笑った。一回目とは違う2002年が確かにそこにはあった。
和子と由恵の残りの休みも、祖母とアンコに張り付いて終わった。それは少しだけ退屈で、でも幸せで、特別な時間だった。大人に近づく程に減っていた祖母とアンコとの時間は温かくて、心地良かった。そして両親や龍太郎ともこんな風にのんびりと過ごすのは久しぶりなのだった。
和子は東京のアパートに帰り着き、母と祖母に持たされた大量のおかずや野菜を冷蔵庫にしまうと、早々にベッドに入った。とても疲れていた。でも心地良い疲れで、和子は久々の自分のベッドでゆっくりと眠ったのだった。
和子が携帯を見ると、すでに十時だった。白黒の小さな液晶画面に『不在着信5件』と表示されていた。発信元を見ると、『実家』である。余程熟睡していて気づかなかったらしい。和子は木本家に電話した。
「はい、木本でございます」
「もしもし、お母さん?」
「あ、かずちゃん! ……かずちゃん、アンコが、アンコが死んでしまった……」
「えっ……」
和子は携帯を持った自分の指先がすうっと冷えていくのを感じた。アンコは死なないで済んだはずだった。だって由恵と私が助けたのだから……喉の奥に何かが詰まったようになって、声が出なかった。
「由恵は……?」
やっとのことで絞り出した声はかすれていた。
「由恵はすっかり取り乱してしまって、アンコを連れて、部屋に籠ってしまっとる。あの子がアンコと一緒にリビングで寝とったんだけど、起きたらアンコが死んでしまっとったとよ。『なんで!』、『私のせいだ』って、泣いて泣いて、もう見てられんかったとよ・・・・・・」
母が泣いて喋れなくなって、父が電話を代わった。
「そういうことだけん、これからアンコを火葬できるペット霊園を探すつもりだ。僕達もまだ混乱しとるけど、由恵が落ち着いたら、みんなでお通夜をしたいと思っとる。その時はまた電話するけん、電話が通じるようにしとってくれ」
父は落ち着いていたが、その声には悲しみが滲んでいた。電話を切った和子は、ベッドに崩れるように横たわった。どうして……? 私達はうまくやったはずだった。ばあばもアンコも2001年を乗り越えて、2002年を迎えた。これからもずっと一緒いるはずだったのに、なんで……? いくら考えても答えは出ない。和子の頬を伝った涙が、枕を濡らした。
携帯のバイブが鳴り、液晶を見ると『実家』と表示されていた。飛び起きた和子が電話に出ると聞こえてきたのは、かすれた小さな声だった。
「姉ちゃん……」
「由恵! 大丈夫?」
「大丈夫じゃない……」
明らかに泣いているであろう、鼻声の由恵は言った。
「お父さんとお母さんが龍ちゃんを連れてアンコに供える花を買いに行ったから、下に降りてきたの。姉ちゃん、アンコ死んじゃったよ。起きたら冷たくなっていた。隣にいたのに、私気づかなかった。私のせいだ!」
「由恵のせいなんて、そんなことあるはずない……」
「私のせいだよ。一回目にアンコが死んだ時、散々動物病院の悪口を言ったのに、私が隣にいたのに気付かなかった……」
ひっ、ひっと由恵がしゃくり上げながら続けた。
「姉ちゃん、私は獣医になんてならない! アンコがいないのに獣医になっても意味なんてない!」
その時電話の向こうから、玄関のドアの開く音が聞こえて、龍太郎の「ただいまぁ」という声が聞こえた。そして、電話は切れた。
一時間程経ち、再び和子の携帯に着信があった。父だった。
「和子、今からアンコのお通夜ばするけん、和子も参加して」
一瞬間を置いて、少し音質が変わった。父が電話をスピーカーに切り替えたらしい。みんなが鼻をすする音が聞こえる。その中で「ねえ、なんでアンコずっとねんねしてるの?」という龍太郎の無邪気な声が余計悲しかった。
「弔辞。アンコ殿、あなたはその食い意地といたずらにより木本家を混乱に陥れ、その愛らしさによって、木本家を明るく、明るく、照らしました……」
父の弔辞は一回目と同じだったが、こう続いた。
「そして、あなたはばあばの孫として、私達夫婦の子供として、和子と由恵の妹として、そして龍太郎の面倒見のいい姉として、愛され、そして私達家族に惜しみない愛情を注いでくれました……」
皆のすすり泣く声が聞こえた。そして、龍太郎の癇癪を起こしたような泣き声が聞こえてきた。
「ねえ! なんでアンコ起きないの! なんでみんな泣いてるの!」
五歳の龍太郎にとって、動かないアンコも、家族みんなの涙も、理不尽過ぎて承服できないのだろう分。長い間、誰も喋らなかった。みんな言葉が見つからないのかもしれない。
その時、祖母の静かな、でもしっかりとした声が聞こえた。
「ねえ、龍ちゃん、アンコはもう十歳だったとよ。犬の十歳はばあばと同じごつ、もうおばあちゃんなの。人も、犬も、歳を取ったら、いつかはいつも夜寝るのとは違う、深い眠りが来るとよ。でも本人にとっては、決して悲しいことじゃないとよ。くたびれてしまった身体とお別れして、とっても身軽で楽になるからね。残された家族は寂しかけども……」
「分かんない、分かんないよ!」
龍太郎が子供独特の甲高い声で叫ぶ中、祖母は根気強く続けた。
「ねえ、龍ちゃん、アンコみたいに幸せな犬はおらんとよ? アンコは由恵ちゃんに拾われてうちに来て、由恵ちゃんが隣におってくれる時に、深い眠りにつけたんだけんね。だけん、アンコは穏やかな、幸せそうな顔をしとったでしょ?」
和子は思った。ああ、ばあばは由恵に語り掛けている…… 龍太郎はもう叫ばなかった。
「ばあばには分かる。アンコは由恵ちゃんのことが一等大好きだったとよ。最期に目を瞑る時に、隣に大好きな人がいてくれるなんて、最高の幸せたい。ばあばも、いつかそんな風に逝けたらどんなによかろうかと思っとるのよ。だけん、由恵ちゃん、お願い、そんなに自分を責めんではいよ。アンコがいなくなったことを悲しむのはいいけど、自分を責めんで。アンコも、ばあばと同じ気持ちで由恵ちゃんのことを心配しとるに違いないけん」
由恵の泣き声が聞こえてきた。由恵が声を上げて泣くのを、和子は長年聞いたことがなかった。
皆が泣き止まず、父が涙声で「一旦、切るけん」と電話を切った。電話を切った後も和子の涙は止まらなかった。
翌日、和子が大学のパソコン室に行くと、由恵からメールが来ていた。
姉ちゃん、
昨日は取り乱してしまってごめん。
ばあばが言ってくれたように、アンコは私といて幸せだったかな。
いくら考えても答えは出ないけど、そうだったらいいな。
あんなこと言っちゃったけど、私やっぱり獣医を目指そうと思う。
アンコがいなかったら思いつきさえしなかった夢だから、
私が獣医になったらアンコが生きてた証が残る気がするんだ。
プロジェクト・BAは成功ではなかったかもしれないけど、
冬休み、アンコとたくさんの時間を過ごせて良かった。
由恵
和子はパソコンをシャットダウンしたが、なかなか消えない画面を見つめた。
ばあばが生きている。アンコはいなくなってしまった。でも最期の時に由恵が隣にいた。それだけは一回目とは違った。ばあばの言う通り、きっとそれはアンコにとっても、由恵にとっても、幸せなことだったんじゃないかと思う。
プロジェクト・BAは今までの中で一番悲しい結果にはなったけど、決して失敗ではなかったんだと、和子はそう思った。




