第二十九話 張り付くしかない
和子と由恵の一回目の人生で、2001年の年末は木本家にとって最も辛い年末だった。
12月26日に祖母が家の近所で車にはねられた。毎日祖母が楽しみにしていた銭湯の帰りのことだった。頭を打った祖母は昏睡状態で近くの市民病院に運ばれた。祖母の意識が戻らず、木本家は不安な日々を過ごしていた。
その三日後の年の瀬も迫った12月29日、かかりつけの動物病院に入院していたアンコが亡くなった。アンコはもともと心臓が悪かった。いつもより荒い息をしていたので、心配になって動物病院に連れて行くと、年末年始のお休みに入る前に一晩酸素室に入れてみようと提案された。一晩入院させて、翌日迎えに行く予定にしていたのだが、翌朝母が受けた電話はアンコが死んだという報せだった。アンコは動物病院の酸素室で嘔吐し、吐いたものを喉に詰まらせて死んでいたらしい。夜の動物病院は無人だったのだ。翌朝病院にきた獣医が倒れているアンコを発見したのだと言う。
アンコは呼吸が多少荒いことを除けば、食欲もあり、毎日二回散歩に行く元気な状態だった。あの時病院に連れて行かなければ、まだ元気でいたに違いなかった。両親が病院から連れて帰ってきたアンコの身体は死後硬直が進み、すでに硬くなっていた。両親がペット用の火葬場の翌日の予約を取って、その日は家族四人でささやかなお通夜を行った。
「弔辞。アンコ殿、あなたはその食い意地といたずらにより木本家を混乱に陥れ、その愛らしさによって、木本家を明るく、明るく、照らしました……」
弔辞を読んでいた父が言葉を詰まらせ、母も和子も由恵も涙が止まらなくなった。段ボールの中で色鮮やかな花に囲まれた小さなアンコの周りで、四人は声を上げて泣いたのだった。
そして祖母は目を覚ますことなく、まるでアンコの後を追うように亡くなった。和子と由恵は、大好きな祖母にお別れも感謝の言葉も伝えることができなかった。ばあばの隣にはきっとアンコがいてくれる、そう思うことが木本家にとっての唯一の慰めだった。想像もしていなかった年末の慌ただしい通夜と葬式が終わって、木本家が本当の意味で祖母の不在を思い知ったのは、静かな正月だった。
家の中の至る所に祖母の思い出があった。でも、仏壇の前で家族全員にお年玉を渡してくれていた祖母はもういない。封筒にはいつも祖母の几帳面な字で一人ずつにメッセージが書いてあった。和子が大学に合格した時、リビングで和子に抱き着いて褒めてくれた祖母はもういない。日当たりの良い和室で、毎日のように縫い物をしていた祖母はもういない。ダイニングテーブルのテレビが一番見やすい定位置を陣取って、こっそりアンコにパンをあげていた祖母はもういない。そして、祖母の足元でおこぼれを待ち続けるアンコも、もういないのだ。
家族揃って賑やかに過ごすはずだった木本家の2001年の年末と2002年の正月は、予想外に悲しい色で塗りこめられてしまった。
***
「思い出すだけで泣けてくる……」
和子とアンコと一緒にいつも散歩コースを歩きながら、ダウンコートで着膨れた由恵は目にうっすらと涙を浮かべていた。
「私も……」
首にマフラーを何重にも巻き付けた和子も、鼻をスンスン言わせている。
二人は例のごとく、アンコの散歩をしながら、次のプロジェクトの作戦を練っていた。プロジェクトの内容はもちろん、ばあばとアンコを事故から救うことである。そんな深刻な議論が頭の上で繰り広げられているとは知らないアンコは、呑気な顔で軽快に歩いたかと思えば、急にぐっと腰を落として踏ん張っている。
和子と由恵は、祖母とアンコの事故について、秋からメールでやり取りをしてきていた。お互いの記憶を補完しながら正確な日時を思い出し、対策を相談していたが、事故を防げる術は思い付いていなかった。しかも、今回の人生は一回目とは微妙に変わっているわけで、同じ形、同じタイミングで事故が起こるのかは分からないし、事故自体が本当に起こるのかすらも分からないのだ。
二人が出した結論は、冬休み中はべったりと祖母とアンコに張り付くことだった。祖母に和子、アンコに由恵という役割分担で、ワン・オン・ワンでターゲットを常にマークする。それが唯一にして絶対の作戦だった。祖母を家の中に押し込めておく訳にもいかないので、祖母の外出には必ず和子が同行する。毎日の銭湯通いももちろん一緒である。アンコは由恵の担当だが、和子も祖母の予定が重ならない限りはアンコの散歩にも参加することにした。
かくして、今回のプロジェクトのため、2001年12月21日金曜日、和子は最後の授業が終わると、すぐさま羽田空港に向かい、夜の便で熊本へと帰ってきたのだ。そして翌日、いつもより早い午後三時頃に由恵とアンコの散歩をしながら、作戦会議をしているのである。
***
「私が、ばあばに常に張り付き……」
「私が、アンコに常に張り付く……」
和子と由恵は本日数十回目となる同じ言葉を唱えた。もはやほぼ呪文である。
「アンコ用に何本か酸素缶を買ったけど、人間用のが効果があるかは分かんないな」
由恵は深い溜息を吐いた。
「ねえ、姉ちゃん。もうプロジェクトの話、やめようか……」
「うん……」
由恵の提案に和子も応じた。いいアイデアも結論も出ないまま、堂々巡りする議論に二人は少々疲れていた。
「姉ちゃん、突然なんだけどさ、浮いた話はないの?」
「は!?」
あまりにも唐突な由恵の方向転換に和子は素っ頓狂な声を上げた。
「突然どうした!?」
「いや、前から気にはなっていたんだけど、今まで聞く機会なかったなあって」
「ないよ」
「え、そうなの? なんかごめん。姉ちゃんがそこまでもてないとは思ってなかった……」
「いや、待てよ、なんだよ、それ。全然ない訳じゃない……あるにはあった。でも短期間だったし、あんまりいい思い出じゃないから言ってなかったけど……」
「え、何それ!?聞いてもいいやつ?」
「別にいいけど……」とニット帽を被った頭をポリポリと掻きながら、和子は話し始めた。
「私が二年生の四月から実質三か月くらいかな、サークルの先輩と付き合ったんだ。一つ上の三年生で、専攻も同じ英語。お父さんが商社だから海外勤務に帯同してた帰国子女で、これでもかってくらい爽やかなの。背も高くてね」
「え、エグいじゃん!そんな優良物件をなんで逃したのさ?」
「……重めだったんだ……」
「重め?」
「価値観の違いって絶対あるじゃん? 我々四十代は『そもそも人の価値観は千差万別、家族でも夫婦でも完全に一致することはないのだ』って悟ってるじゃん? でもさ、二十代は違ったんだ……下手したら、朝まで生討論。腸の中身までお互い見せ合おうぜ! ってノリよ……」
「まあ、でも若さの迸りっていうか、それはそれで好感持てない?」
「持てるかよ……寝たいよ。翌日一限から教職の必修だよ?」
「まあまあ、若者はそうやってぶつかり合って血を流しながら、分かり合うもんなんだって」
「血ぃ流したくない。平和に生きていきたい……」
「まあ、そりゃ重いわ、な。そんな不毛な話し合いするよりも、受験勉強の方が大事だよ、勘弁してくれ、て思うわな……」
「もしや由恵、あんたも!?」
「違う、違う! 今は姉ちゃんの話じゃん?」
「ふーん?ふーん?……まあ、言いたくないならいいけどさ……ともかく、先輩との仲は最終的に私が夏の帰省を決めたことで、かなり険悪になったんだ。『そんなに長く帰るの? 和子にとっては、俺より家族の方が大事なんだ?へー』とか言うんだもん……」
「それは、だいぶキテるな。もはや、ジェネレーションギャップを越えている……」
「いい加減、『こいつヤバいな、別れたいけど、この性格の人に別れを切り出すのも怖いな、下手したら刺されちゃうかも』って悩んでたら、急にあっちから別れを切り出してきたんだ。『和子って、サークルのおかんなんて呼ばれてて、もっと包容力ある人だって思ってたけど、違ったね』、『もっと俺のこと理解してくれると思ってた』って。もうこっちとしてはラッキーって感じで、『私が先輩に相応しくなくて申し訳ございません!』って別れたんだ」
「へー、よかったじゃん」
「そしたら、数日後、キャンパスで同学年の先輩とイチャイチャしてやがんの……あいつ、二股かけてたんじゃないかと思う」
「腹立つなぁ」
「でもいいの。今度はあの人が朝まで生討論の相手してくれてるんだと思ったら、感謝の気持ちすら湧いてくるし。何はともあれ、当分は恋愛はいいかなって気持ち」
「それは同情する」
「それにしても、我々は崇高なプロジェクトの話をするはずが何の話をしてるんだろうか……」
「それな……帰るか」
「そういえばさ、今回プロジェクト名、まだなくない? いつもみたいに命名してよ」
アンコを連れて、家へと引き返しながら、和子が言った。由恵はうーんと顎の下に手を当ててしばらく考えた。
「『プロジェクト・BA』! ばあばとアンコだから!」
「毎回ネーミングセンスの安直さよ……」
そう言いながら和子は右手でグーを作ると、由恵に差し出した。
「じゃあ、今回も頼むぜ相棒!」
「おう!」
由恵もグーを作り、和子のグーにこつんとぶつけた。作戦は最高に地味だが、最高に重要なプロジェクトが始まろうとしていた。




