第二十七話 出会った誰か
「どした、カズ?」
柿が押し黙ってしまった和子の顔を覗き込んだ。
「カズ、大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫……ちょっと喉が渇いてて……」
予備校で会ってしまった時と同じように、ぬぼーっと座っている明彦をなるべく見ないようにしながら、和子は言った。柿が店員に水を頼んでくれて、和子は一気にグラスの水を飲み干した。
「カズ、落ち着いた? そりゃあ、緊張するよな。えっと、これが、『ハッピーラッキーボーイ』、略して『ラキ』な。ラキ、挨拶して」
明彦はペコリと無言で会釈した。
「あ、どうも、『あんころもち』です。『カズ』って呼んでください」
「カズ……さん……」
ああ、ちょっと待って……
ようやく覚悟を決めて、明彦を直視した和子は絶望した。
明彦、私が大っ嫌いだった、黒地にメタリックのドラゴンが箔押しされたTシャツを着て来てる……あのドラゴンだけでも絶望的なのにダッサい英語が書いてあるんだ……『Dragon Rule Dark World』って奴。一回目では付き合い始めてしばらくしてから、このTシャツを外では着ないようにって頼んだんだよね。不満そうだったけど。しかも髪も変な風に跳ねてる。天然パーマで手に負えないんだったら、短くすればいいのに。しかも『ハッピーラッキーボーイ』ってなんだよ、いくらなんでも似合わな過ぎだろ……!
元々無口な明彦と急に口数の少なくなった和子の間で、柿は会話を取り持とうと、四苦八苦していた。
「俺たち、お互いどこ出身かも話してなかったよな? 俺は埼玉出身で、R大の経済学部。実家から四十分くらいで着いちゃうから、残念ながら自宅通学生」
明彦が柿に続いた。
「えっと……俺は、熊本出身で、T理科大学の理学部。数学専攻。大学の近くに一人暮らししてる」
T理科大!?
和子は驚愕した。それって、理系の私立では最難関と言われる、《《あの》》!? 東京の私大、しかも理系の私大なんてほとんど把握していない和子でも知っている程の有名大学である。一回目の人生では文学部だった明彦が、数学科?! 和子は俄かには信じられなかった。
「私も熊本出身で、T外語大の英語専攻。同じく大学近くで一人暮らし……」
「えー!すげえ、ラキとカズ、二人とも熊本出身な訳!? しかもカズ、T外語大の英語かよ! 頭、良かったんだな!」
「いや……そんな、ハハ……」
柿が盛り上げようと頑張ってくれているのは痛いほど伝わってくるが、和子はそれどころではなかった。
「ねえ、ラキってさ、元々理系志望だったっけ?」
和子がそう尋ねると、明彦は目を輝かせて前のめりになった。
「あの時話したこと、覚えてるの?!」
どういうことだ。あんたが一回目ではP大の文学部に行ってたことは覚えてるけど、何を覚えているかって聞いているんだ……?
「なあ、ラキ、あれ持ってきてるんだろ?カズに見せたら?」
柿が明彦の肩を指でトントンと叩くと、明彦は大きな黒いリュックからA4の紙が何枚か入ったクリアファイルを取り出した。それはチャットルームのやり取りを印刷したものだった。和子は手渡されたそれに目を通した。
ハッピーラッキーボーイ> もう志望校決めた?
あんころもち> 決めたよ。学部は英語専攻。そっちは?
ハッピーラッキーボーイ> 俺はまだ迷ってて……理数系が得意なんだけど、小説家になりたいから文学部に行きたいんだよね。日本文学。でも国語が苦手でさ……
あんころもち> 理数が得意で、国語が苦手なのに日本文学!? なに寝言言ってんの? 得意なことがあるなら活かしたほうがいいって。悪いことは言わないから、才能が活かせる学部に行きな。
ハッピーラッキーボーイ> でも俺の夢は小説家になることだし……
あんころもち> 落ち着いて考えてみな。文学部を卒業した人の中で小説家になる人なんて一握りだよ?しかも商業作家として食っていける人なんて0.001%だろうよ。ましてや、ハッピーラッキーボーイは国語苦手なんでしょ? それならますますやめときな。そもそも小説は理系学部でも書けるよ。
ハッピーラッキーボーイ> でも……
あんころもち> 私達、大学卒業したら社会に出るんだよ? まずは自分を食わせていく手段を確保することが先決だよ。得意なことを手段にした方が、後々楽だよ。わざわざしなくていい苦労を背負いこむ必要はないんだから。手段を確保した後に、小説でもなんでも書けばいい。好きなことをお金を稼ぐための道具にしたら、好きじゃなくなっちゃうかもしれないよ。
ハッピーラッキーボーイ> うーん……学部についてはもう少し考えてみる……
あんころもち> あのさ、正直、ハッピーラッキーボーイがものすごく小説の才能ある人ならこんなことは言わない。でもいくつか読ませてもらった限り、私にはそうは思えないから言ってるんだ。悪いこと言わないから、まずは自分の才能を活かしなよ。
和子は絶句した。ひたすら和子のターンである。これは、相手が明彦だったとは言え、なかなかにひどいことを言っているな。私余程受験でストレス溜まってた時だったのだろうか……
何と言っていいか分からず、和子が紙を無言で明彦に返すと、柿が言った。
「ラキさ、カズにこう言われて、文学部諦めて理学部の数学科を目指すことにしたんだって。こいつ、模試で全国一位取ったことあるくらい数学得意なんだ」
和子は再び絶句した。確かに明彦が「数学が割と得意」だということは聞いたことはあったけど、これは割とのレベルを遥かに超えているではないか。そんな奴が文学部に行っていたなんて、とんだ才能の無駄遣いだ。
一回目の人生で文学部に進学した明彦は、在学中も、卒業して就職してからも、小説を書き続けていた。そして、二人が社会人四年目になった二十五歳の春、何の間違いか、SF短編の小さな文学賞で奨励賞を受賞したのだ。すっかりその気になった明彦は、「持ち込みのしやすい東京に行く」と東京に転職先を見つけてきたのだった。和子も最初に就職した会社が好きになれないままに三年働いていたので、思い切って東京で仕事を見つけて、明彦と同棲を始めた。一回目に和子が東京に住んだのも、元はと言えば明彦の小説が原因だったのだった。そして2026年、明彦は小説家としては鳴かず飛ばずのまま、四十五歳を迎えていた。
「カズ?」
黙ったままの和子を、柿と明彦が心配そうに見つめている。
「ご、ごめん、私こんな失礼なこと言ったかなって、ちょっと自分で自分にショック受けちゃってさ……」
「そんなことないって!」
珍しく明彦が大きな声を出した。
「カズさんが言ってくれなかったら、俺、文学部に行って苦労したと思うんだ。あの後、すごく考えて数学科を目指すことにしたら、親も喜んでさ、理数系に行くなら東京の私大にだって出してやるって言われたんだ」
和子は明彦の勢いに押されて、頷いた、
「そ、そっか……」
「でも、わざわざ東京に行く意味を見出せなくて、志望校を決めかねてた時に、クラスメイトの幼馴染の友達? なのかな? まあ、とにかくほぼ他人の子と予備校で喋った時に言われたんだよね。東京へは『誰かに会いに行く』、『まだ会ってない誰かに』って。なんかそれにグッときちゃって、それがきっかけでT理科大に行くことに決めて、俺は今ここにいるんだ」
明彦は座り直して、和子に向き直ると、ペコリと頭を下げた。
「大学に入ってみたら、まだ専門科目は少ないけど、すっごく楽しくてさ。カズさんは俺の恩人のうちの一人。だから俺、カズさんにずっと直接お礼を言いたかった。でも、カズさんに二人で会おうと誘っても怖がられるかなと思って、柿に付き合ってくれるように頼んだんだ」
柿はニコニコと笑いながら、二人を交互に見ている。
和子は、「ははは、よかった……」と苦笑いしながら、複雑な気持ちだった。自分がT外語大に進学したのは明彦を避けるためでもあったというのに、知らず知らずのうちに、自分自身が明彦を東京に導いていたとは……しかも、二回も背中を押してたなんて……こんな運命のいたずら、あってもいいのだろうか。
この後三人はようやくメニューを見て注文を済ませ、パスタやピザを食べたのだが、和子にはそれがどんな味だったかさえも全く思い出せないのだった。




