第二十三話 一人きりの六畳間
和子の、そして木本家の、残りの三月はとても忙しかった。
合格通知を受け取った翌日の月曜日、和子は畠元先生に報告するために高校に行った。合格通知書を見た先生は弾かれたように立ち上がって、和子をギュッと抱き締めたまま泣き出した。先生の嬉し涙を見て、T外語大合格を知った職員室全体がいろめきたった。自分のことのように喜んでくれる先生達の顔を一人ひとり見つめて、和子は改めて喜びを噛み締めた。
畠元先生はもちろんのこと、どの先生も授業以外にも質問に行けば、遅い時間でも嫌な顔一つせず応えてくれた。一回目の高校生活では、さも当然のことのように受け止めていたが、自分の時間を削って対応してくれたのだと思うと、本当にありがたい。もし、自分の合格で残業の日々が、ほんの少しでも報われたと思ってくれれば嬉しいと思う。一回目の会社員人生で、和子が最も憎んでいたのは残業だったのだから……
万由里を始めとする和子の仲良しグループの面々も、全員無事進路が決まっていた。最後の和子の合格を待って、みんなでカラオケボックスに行った。一人がスーパーでチューハイを買ってきて、こっそりと持ち込んでいた。1999年はまだ未成年へのアルコール販売が現在程には厳しくなかったのだ。和子も一口だけ飲んだが、今のところ美味しいとは思えなかった。少々酔っぱらっている子もいて、湿っぽくない明るい別れになった。
その週末、父が和子を連れて上京し、アパート探しをした。いくつか物件を内見して、キャンパスから自転車で十分程かかるが、商店街に程近いアパートに決定した。六畳一間に小さなキッチンが付いたアパートは、風呂トイレ一緒のユニットバスだが、十八平米程で四万五千円と格安だった。二年生の途中でキャンパスが変わるということで、大家さんが少し値引きしてくれたのだ。そして、電機店やホームセンターを巡って、家具や家電を購入し、配送の手配をした。
三月最終週、今度は母が同行して、和子の引っ越しが行われた。春休みに入った由恵も同行した。
和子が家を出る朝、龍太郎が自分も行くと泣き喚くので、父が抑えるのに往生していた。祖母も涙声だったが、気丈に渡してくれたのは和子名義の通帳だった。家賃と光熱費は両親が負担してくれることになっているが、仕送りはなく、和子はアルバイトで生活費を賄うことになっていた。
「ばあばが積み立てとった学資保険が下りたけん、かずちゃんが持っときなっせ。無駄遣いはせんごつね」
和子は通帳をめくって大金に驚き、顔を上げて両親を見た。両親は微笑みながら無言で頷いた。生まれた時から十八年間もこつこつと積み立ててきてくれた祖母、そしてその大金を信用して自分に任せてくれる両親。和子は溢れ出しそうな涙を堪えた。祖母の、両親の愛情が、ただただありがたかった。それは人生二回目だから、自分でお金を稼ぐことの大変さを感じたことがあるからこそ、余計に感じる感情だったかもしれない。
そんな和子の感情をよそに、小さな龍太郎は今もなお、活きの良い鯉のように暴れて、泣き喚いている。困り果てている父を見ていたら、和子は不覚にも笑えてきてしまうのだった。他の家族も同じと見えて、龍太郎と父以外の皆がくすくすと笑い出し、仕舞には父まで笑い出したので、おかげでこちらも湿っぽい別れにはならなかった。
東京のアパートで、母と和子と由恵は、熊本から届いた段ボールを荷解きしたり、届いた家具を組み立てたり、細々した生活用品を買いに行ったり、忙しく働いた。布団は一組しかなかったので、熊本から寝袋を持参していた。由恵が寝袋で寝て、和子は母と狭いシングルベッドで二人で眠った。
「かずちゃんと寝るなんて、本当に久しぶりね」
壁を向いてそう言った母は少し鼻声だった。その母の声を聞いたら、和子の鼻の奥がツーンとしてきたのだった。
母と由恵が帰熊する前日、母は最後の晩には手料理を作るとスーパーに買い物に行ったので、和子と由恵は二人きりだった。
「姉ちゃん、いよいよ東京で一人暮らしだね」
「うん。今まで長いようで、短かった」
「姉ちゃんがいなくなると、寂しくなるよ……」
由恵がそんなしおらしいことを言うのは珍しくて、和子はまた鼻の奥がツーンとした。東京に来てから随分と感傷的になっているようだった。
「休みの度に帰るし、由恵も遊びに来てよね。それに毎日のようにメールするし、たまに電話もするから」
和子は春休みに携帯電話を契約したので、家に電話は引かなかった。この頃の携帯電話は月額料も通話料も高かったので、貧乏学生にはそう簡単に電話はできなかった。プロバイダのメールアドレスは家族共用なので、秘密で連絡を取り合うために、二人はホットメールのアドレスを手に入れたばかりだった。
「推しを東京で見かけたらすぐに連絡するから!」
和子がおどけて言うと、由恵は深い溜息を吐いた。
「姉ちゃん……、よぉく考えて。推しグループのメンバーの最年長組が今二歳、そして最年少の二人に至ってはまだこの世に生を受けてさえいないんだよ……!」
そうだった、すっかり若い気持ちでいたけど、推し達とは二十歳近く歳が離れていたんだっけ……
和子は由恵の言葉の衝撃に押し黙り、由恵は爆笑して、姉妹の尊いお別れムードはご破算になったのだった。買い物から帰った母も加わり、食べて喋って笑って、いつも通りの木本家の雰囲気で母と由恵の東京滞在最後の夜は終わった。
「じゃあ、かずちゃん、しっかりね」
「姉ちゃん、夏休みに帰ってくるの、待ってるから!」
母と由恵をJRの駅で見送って、和子は一人でアパートに帰ってきた。二人がいるときはあんなに狭く感じた六畳が今は妙に広く感じる。
考えてみると、和子が一人暮らしをするのは、一回目の人生を計算に入れても、かなり久しぶりだった。一回目に県内のP大学に行った際は、一、二年は大学の近くの二万二千円という格安のアパートで一人暮らしし、コマ数の減った三、四年は実家から通ったのだ。その後、新卒で始めた仕事には実家から通い、転職して上京してからは明彦と同棲していたので、それきり一人で暮らしたことはなかった。家の中にいつも誰かの気配を感じていた和子にとって、この部屋は久々の一人きりの空間だった。
ステンレスのシンクに蛇口の雫が落ちる音にビクビクしたり、目覚まし時計の針の音が妙に気になったり、その夜和子がようやく寝付いたのはベッドに入ってから数時間後だった。
和子の東京での一人暮らしは、なんだか心許ないスタートとなった。




