第二十話 少し違う未来
「木本さん!」
職員室に行った和子を畠元先生はぎゅっと抱きしめた。
センター試験翌日、試験を受けた生徒はいくつかの教室に分けて集められ、試験会場から持ち帰った問題冊子を解答と照らし合わせて採点を行った。自己採点票に点数と志望校を記載し、それを集めて大手予備校に送り、数日後には志望校への合格判定が返ってくる。Aならかなりの安全圏、Eだったら志望校の再考を、という分かりやすくも残酷なシステムだった。
自己採点を行う教室では、小さく悲鳴を上げる者あり、嬉しさが抑えられずニマニマしてしまう者ありで、まさに悲喜こもごもだった。和子は下を向いていた。
「えぐっ……」
自己採点票を見ながら、和子は口を手で押さえた。
「これは……引きが良すぎた……」
英語は175点、国語は190点だったのだ。
国語はもともと得意だったが、これほどにハマるとは思わなかった。世界史Bと現代社会はまあまあ、数学Ⅰは微妙ではあるが、他の教科でこれだけ取れていれば大きな問題にはならないであろう範囲だ。他の教科には良くないものもあったが、T外語大の受験には不要なので問題ない。
その後、和子は結果を直接報告しようとに畠元先生の元に行き、すでに和子の自己採点票を確認していた先生に、抱き潰されそうになったのである。
「木本さん、これならA判定が出ると思うよ。よく頑張った!」
やっと和子を離した先生が言って、和子は力強く頷いた。
「前期も後期も、T外語大の英語専攻で出願します」
***
T外語大の前期日程は多少センター試験の比重が高いが、二次試験もほぼ変わらないくらいのウエイトを占める。特に英語がかなり大きな点数源である。高校は自由登校になっていたが、和子はセンターの自己採点後も毎日通い、畠元先生に英作文や解いた問題の採点と解説をしてもらった。
和子はT外語大A判定という結果を受け取った。模試ではB判定が続いており、Aを取るのは初めてのことだった。これで迷いはない。両親の承諾を取り、前期、後期ともT外語大に出願することに決めた。
前期日程の試験は二月末、東京都北区にあるT外語大のキャンパスで行われる。和子の記憶では、二十三区外にあったような気がしたのだが、来年移転するらしい。
「シングルルーム一室でお願いします。高校生の女の子一人です。ええ、T外語大の受験でして……」
心なしか父の声が誇らしげである。出張で東京に行くこともある父がガイドブックと地図を比較しながら、ホテルを決め、電話で予約してくれた。まだインターネットでのホテル予約は一般的ではなかったのだ。父は路線図を駆使して、空港からホテル、ホテルから大学への道順を教えてくれるが、覚えるのはなかなか容易ではない。和子は父からもらった情報をまとめて、文字編集ソフト『一太郎』で旅程表をまとめた。
十八年前――一回目の人生で事故に遭う前――は東京に住んでいたとはいえ、和子はかなりの方向音痴で、常にグーグルマップとお友達であった。しかも大学がある北区にはほぼ行ったことがないのだ。1999年の事情もまったく分からないのもあり、不安ばかりが募るのであった。
この頃の受験生は受験勉強以外にも色々な関門があるのだなと、和子は溜息を吐いた。
***
二月下旬、和子は熊本空港で家族みんなに見送られ、機上の人となった。車に長く乗るのを嫌うので、遠出は滅多にしない祖母まで同行してくれた。
「かじゅちゃん、がんばってね!」
三歳半となり、随分言葉がしっかりしてきた龍太郎は和子の首に抱き付くと、和子の頬に頬を擦りつけながら、言った。
「かずちゃん、しっかりね」
祖母は和子を軽く抱き締めると、封筒と家の近くの神社で授かってきたお守りを渡してくれた。機内で開けた封筒の中には激励の手紙と一万円札が入っていた。
珍しく両親とも軽くハグをして、保安検査の列に並んだ和子の元に小走りでやってきた由恵はそっと耳打ちした。
「姉ちゃん、私、なんも心配してないからね。帰ってきたら『プロジェクト・G』ね!」
そして親指を立ててニッコリ笑うと、家族の元へと駆けて行った。
***
多少迷いはしたが、和子は路線図と地図のおかげで、空港からホテルに無事辿り着き、チェックイン後に大学の下見をした。T外語大のキャンパスは思っていたより小さく、古めかしかった。「来年になれば新しいキャンパスに移るみたいだから、しばらくの我慢だな」と思って、すっかり受かる気になっている自分に驚き、両手で両頬を叩いて気合を入れ直す。舞い上がらず、冷静にならなくてはならない。
個人経営らしい食堂には入りにくくて、マクドナルドで夕食を済ませた和子は、翌朝に向け、シャープペンシル、鉛筆、消しゴム、受験票を準備し、早々に就寝した。
試験当日。和子は自分でも驚く程に落ち着いていた。ここまでやって駄目なら、自分の能力が足りないのだろう、努力は足りているのだから。そう思えるのは、きっと自分が本当にやれることを全てやってきたからなのだと思う。一回目の人生を含めて、今までこれ程までに何かの目標に向かって努力したことはないと、そう言い切れる。センター利用の私大の合格通知は既に受け取っているし、後はやってきたことを出し切るだけだ。
試験は無事終了し、和子は熊本に帰ってきた。
試験の翌日からはまた受験生の日常が戻ってきた。前期の合格発表を待ちながらも、後期試験に向けた勉強の日々である。三月一日に行われた卒業式も、半分くらい心ここにあらずという状態だった。
三月第一週の土曜日も和子は勉強していたが、頬杖をついてシャーペンを回している自分に気付いた。今日はT外語大の合格発表なのである。と言っても、キャンパスに貼りだされる合格者の受験番号を見に行くことはできない。大学によってはレタックスによる合格発表をしている大学もあるらしいが、T外語大は対応していなかった。2026年どころか、もう少しすればインターネットでの発表もあるのだろうと、和子は恨めしい思いをした。
翌日、和子は勉強が全く手に付かなかった。合格通知は速達簡易書留で届くはずなので、郵便配達員の人が持ってくるはずである。リビングルームと玄関を行ったり来たりしながら、纏わりついて来る龍太郎と遊んでやってるうちに、和子の午前中は終わってしまった。
昼ご飯を食べた後、龍太郎と昼寝しようとしたが、どうしても寝付けない。諦めた和子は、龍太郎を起こさないようにそっと布団から抜け出した。久々にアンコを一人で散歩に連れて行くことにしたのだ。三月に入ったとは言え、まだかなり肌寒い。和子はジーンズとセーターの上にダウンジャケットを羽織って出掛けた。
アンコは和子の顔を何度も確認しながら、笑っているような顔で歩いているかと思えば、弾んだ茶色のボールのように駆けたり、思いがけず早い時間の散歩にご機嫌だった。和子は一時間半程たっぷりとアンコを歩かせた。家にいたら発狂しそうだったので、できるだけ外にいたかった。
和子が観念して家に帰ると、アンコの足を拭くための濡れタオルを持った由恵が迎えてくれた。和子が三和土でアンコを持ち上げ、由恵が足を一本ずつ拭いていたその時である。
『ピンポーン』と玄関のチャイムが鳴った。
和子の耳の奥で、鼓動がうるさいほどに鳴り出した。
インターホンはリビングにある。和子と由恵が立ち尽くしていると、母のスリッパの音が近づいてきて、インターホンに答える声がした。
「はーい」
「簡易書留です」
母がリビングから続くドアを開けて、玄関に入ってきた。開け放たれたドアの向こうから、リビングの父と祖母もこちらに向かってきているのが見えた。口をきゅっと結んだ母は、まだ靴を履いたままの和子の肩にそっと触れると、サンダルを履き、玄関のドアを開けた。
「サインお願いします」
配達員が母に手渡したのは、A4サイズの紙が入っているであろう、分厚い封筒だった。
配達員が去った後も、昼寝中の龍太郎を除く木本家一同は、玄関に立ち尽くしていた。アンコは床に降ろされたものの、なんだか不安そうにみんなの間をうろうろしている。尻尾を振っているが、尻尾の先は下がり気味だ。
和子は母から渡された封筒を持ったまま、尚も立ち尽くしていたが、意を決して封筒を開け始めた。ハサミはないので、糊付けされた蓋の部分を、手で丁寧に剥がしていく。
ゆっくりと取り出した冊子や書類の束の一番上にあったのは、紛れもない『合格通知書』だった。
和子は自分の目がじんわりと温かくなるのを感じた。気づけば涙は頬を伝い、頬全体が温かくなった。最初に由恵が和子に抱きつき、祖母と両親もそれに続いた。まるで玄関で静かに円陣を組んでいるかのような状態になっているところに、アンコが「ワン!」と元気に吠えると、尻尾を上げてちぎれんばかりに振りながら、皆の周りを回り始めた。
「アンコ、分かるとね!かずちゃんが、立派な大学に合格したとよ!」
祖母が泣きながらそう言うと、まだ少し緊張していた空気が解けて、みんな口々に弾んだ声で言った。
「姉ちゃん、おめでとう!」
「かずちゃん、おめでとう!」
「かずこ、本当におめでとう!」
「ねえ、なにしてるの?みんなでおそとにいくの?」
玄関に目を擦りながら、龍太郎がやってきた。
「あれ、かじゅちゃん、ないてるの?」
涙に濡れた和子の顔を見て、龍太郎が首を傾げる。
「泣いているけど、嬉しくって泣いてるんだよ」
和子はそう言うが、龍太郎にはまだそんな複雑な感情は通じないらしい。裸足のまま三和土に降りると、和子に抱き着いて言った。
「かじゅちゃん、だいじょうぶ。りゅうちゃんが、いたい、いたい、ない、するからね」
みんな、どっと笑った。由恵がアンコを持ち上げ、母が龍太郎を抱き上げた。
「とりあえず座ろうか!で、お父さん、ケーキ買ってきてよ」
由恵が明るく言うと、父が「よし来た!」とばかりに、財布を取りに行こうとしたが、祖母が父を止めた。そして「一番大きいやつば!」と自分の財布から気前よく一万札を渡している。
リビングの奥の祖母の和室に続く襖が開いていたので、和室に差し込んだ西日でリビングまで明るかった。白い光に満たされたリビングでもう一度合格通知書を見ながら、和子は夢みたいだとは思わなかった。
努力して、自分で手に入れた、一回目とは少し違う未来の第一歩。
この部屋のように、未来は明るいんじゃないかと、和子はそんな気がしていた。
いつも読んでいただき、ありがとうございます!
第二十話では、和子が大学に合格しました。
二十話到達と大学合格、ダブルでおめでたい区切りとなりました。
赤ちゃんとして昭和に生まれ直した和子も、少しずつ大人に近づいてきました。
和子や由恵、そして木本家の面々がこれからどうなっていくのか、引き続き見守っていただけると嬉しいです。
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