第十九話 未来を変えに
高校三年生の二学期が過ぎるのは早い。受験対策で1998年は暮れ、いよいよ1999(平成11)年がやってきた。大晦日と元旦こそ、家族との団らんを楽しんだ和子だったが、赤本を手放すことはできなかった。1月2日は渡辺家に挨拶に行くのが正月の習慣だが、今年は和子は行かなかった。
鬼気迫った和子を見て、木本家一同は極力静かに過ごしていた。三歳半になった龍太郎は和子に纏わりつくが、大声を出してはいけないと思っているのか、「かじゅちゃんは、『じゅけん』 だからねっ!」とヒソヒソと耳打ちしてくる。そして、しばらくすると由恵に回収されて行くのだった。尋常ならぬ空気を感じているのか、アンコまでいつもよりそーっと歩いているように見えてきて、なんだか笑えてきたり、涙が出そうだったり、和子の情緒は大分取っ散らかっていた。
センター試験は1月の中旬の土日に、P大で行われた。一回目の人生の和子の母校である。一回目のセンター試験の時にはもしかしたら春からここに通えるかもと、胸を膨らませていたのを思い出す。でも、今回はここに出願することは決してないのだ。たとえセンターで想定していた程の点数が取れなかったとしても。
「結構、『くる』な……」
土曜日、P大に到着した和子は黒っぽい制服の受験生でいっぱいのキャンパスを見渡して、小さく溜息を吐いた。キャンパスを横切るタイル張りの小川、所々に植えられた銀杏の木、ガラス張りの講義棟や食堂、文学部の古い校舎。その一つ一つに思い出があって、友人達の、そして明彦の姿が目に浮かんでくるのだから堪らない。でも感傷に浸っている暇はない。この試験が今後の人生を左右すると言っても過言ではないのだ。
和子は制服のスカートの左のポケットに手を入れて、中に入っている物をぎゅっと握った。
和子はセンター試験に一緒に行こうという友人の誘いを断った。そして、両親と祖母にも、会場までの送迎や見送りは不要だと告げていた。できるだけ静かに、一人で集中したかったのだ。
センター試験一日目の当日、バスの遅延も考慮に入れて、和子はかなり早く起きた。仏壇に手を合わせて、ダイニングルームで家族に「いってきます」と伝え、玄関で靴を履く。すると、玄関のドアを自分で開けた龍太郎と、その後を追ってきたアンコが飛びついてきて、和子に熱烈なキスをした。焦った母が駆け込んできて、「かずちゃん、がんばってね!」という言葉を残すと、両脇に一人と一匹を抱えて部屋に戻っていった。
和子は再び静かになった玄関で息を整えて、外に出た。一拍置いて玄関の開く音がして和子が振り返ると、由恵が出てきたところだった。
「バス停まで送らせてよ」
父のベンチコートを羽織った由恵は、屈んでスニーカーの踵を引き上げながら言った。
「私は特別でしょ。二回も姉妹やってて、しかも一回目は一緒に死んだんだから」
「違いない」
和子が少し笑って頷くと、由恵は和子に並んで歩き出した。二人とも無言だった。
バス停に着いて和子がベンチに座ると、由恵は、掌に乗る程のサイズの紫色のフェルトの巾着を「ん!」と和子に渡し、「じゃ、いってらっしゃい」と言って、引き返していった。
和子がバスの中で巾着を開けると、小さく折った紙が二枚入っていた。一枚目をそっと開くと、そこにはナプキンに書いていた推しグループのメンバーの名前と入所日が、由恵の几帳面な字で書いてあった。以前と違うのはそこに龍太郎の名前と誕生日が追加されていたことだった。和子は思わず、「ふっ」と小さく笑った。
もう一枚を開くと、そこにはこう書いてあった。
姉ちゃん
いってらっしゃい。
こんなに頑張ってる姉ちゃん、初めて見たと思う。
絶対にうまくいく。人生を二回も一緒に過ごしてる私が保証するよ。
自分の手で、未来を変えてこい!
由恵
文字がぼんやりと滲んで見えて、和子はぎゅっと目を閉じた。
***
「絶対に、うまくいく」
和子はそう言いながら巾着をポケットから取り出して、胸の前で掌を開いた。P大のキャンパスの地味な色彩に、色鮮やかな紫色の、そして少し不格好なそれが、なんだか場違いだった。
「未来を変えに行く」
心の中でそう呟いた和子は巾着を握ると、試験の行われる講義棟へと向かっていった。
一日目はメインイベントである英語から始まり、世界史B、数I、数Ⅱと続く。数Ⅱで点数が取れるとは思っていないが、とりあえず受験できる科目は全て受験することにしたのだ。お昼や休憩を除き、朝から夕方まで試験というタフなものだった。
T外語大の出願で最も点数配分の高い英語は一時間目で、新鮮な頭で受けられるのは幸運だった。マークシートを塗りつぶす手が少し震えた和子だったが、しばらく経つと落ち着いてきた。
休憩時間は同じ高校の生徒に会って手を振ったりしたけれど、少し仮眠を取ったり、参考書をパラパラ捲ったりしながら一人で過ごした。
一日目の試験を終えた和子はバスに乗り、すぐに帰宅した。乗り継ぎを経て二時間たっぷりかけて自宅に到着した和子は夕食を食べて風呂に入ると、すぐにベッドに入った。もっとも、頭は冴えていてすぐには寝付けなかったが。
二日目は国語、現代社会、生物、地学である。国語は一回目の人生と同様、和子の得意科目だった。
試験が開始し、漢文と古文に目を走らせた和子は、思わずガッツポーズしそうになった。どちらも読んだことがある。しかも古文に関してはその作品を元にした漫画は、一回目の人生からの愛読書である。「国語はもらった!」そう思ったら緊張も解けたのだろう。今回は手も震えず、制限時間より早く解答し終えて、見直しの時間もたっぷり取れたのだった。
現代社会は熱心に試験勉強をしていた訳でもないが、割と常識で解けてしまった。一回目の時よりも経済や政治に興味を持ってニュースを見ていたことが要因だと思う。ここでも『四十代のアドバンテージ』が発揮された訳である。
生物はまだどうにかなったような気がするが、地学はもうお話にもならなかった。
全ての試験を終え、昨日より一時間程早く帰った和子は着替えようと、自室へ行った。なんだかとても疲れていて、ベッドに座ったのまでは覚えている。
次に和子が気付いたのは朝六時だった。余程疲れていたのだろう。こんなに長くぐっすり眠ったのは久しぶりだった。
朝刊にセンター試験の解答が載っているが、和子は見なかった。どうせ今日学校に行って自己採点するのだ。シャワーを浴び、アンコのフワフワのお腹を満足するまで撫でてやり、甘える龍太郎を膝に載せて、久々にゆっくりと朝食を取った。身支度を整えて、学校に向かう。由恵にもらった巾着は今日もポケットの中に入れている。それを左手でぎゅっと握って、玄関のドアを開けた。
「覚悟しとけよ、未来……!」
と呟きながら。




