第十七話 あの金の行方
学校生活で最大のイベントである修学旅行が終わり、三学期はあっという間に終わってしまった。短い春休みを経て、和子はとうとう三年生になった。帰宅すると食事を挟んで、十一時くらいまで勉強する日々が始まった。
「姉ちゃん、アンコの散歩は任せて。中学二年生はまだ余裕あるからさ」
由恵がそう言ってくれて、和子がアンコの散歩に行くのは週数回、気分転換をしたい時だけになった。由恵と話せる時間が減ってしまうのは寂しいが、受験生はそんなことも言っていられないのだった。
和子は三者面談では、第一希望が福岡の公立大学S大であると話したが、内心ではT外語大に狙いを定めていた。国立であるT外語大の前期日程はセンター試験で五教科の受験が必須だった。英語→国語→その他科目の順にかなりの傾斜配点となっており、二次試験を含めると英語が半分以上のウエイトを占めることになる。後期日程だとセンターが三科目となるのは理数系の苦手な和子としてはありがたいが、定員の多い前期での合格を狙いたかった。
第二希望はS大、滑り止めは福岡の私立大学F大のそれぞれ英語学科である。
志望校が熊本でない以上、合格すればこんな風に家族といられる時間はもう一年弱しかない。和子は夕食までダイニングルームで勉強し、自室に行くのは夕食後にしていた。母が憧れのカウンターキッチンの向こう側で料理する音を聞きながら、龍太郎に背中に纏わりつかれ、アンコにおやつを強請られながら、勉強する。針仕事を終えた祖母もダイニングにやってきて、由恵とおしゃべりしながら、夕食前なのにお菓子をつまんだりする。そのうち父が仕事から帰ってきて、家族六人で賑やかに食卓を囲むのだ。アンコも近くでドライフードをカランカランと言わせながら食べている。効率を考えるなら自室で勉強した方がいいのは決まっている。だけど、この時間が貴重で、二度と戻ってこないことを知っているから、和子はダイニングでの勉強を続けるのだった。
そして、勉強に行き詰まった時には、少しだけネットに接続することもあった。一か月目の電話代に驚愕した父により、長時間の使用は止められていたが、今や和子はネットに現を抜かす時間は既になかった。でも、チャット部屋の仲間達とほんの少しだけ他愛のない話をした後は、また机に向かう気力が湧いてくるのだった。
***
「え!うん、うん……」
ある日の夕方、母の夕食の準備中に伯母から電話がかかってきた。電話の内容は聞こえないが、母が相槌を打つのを和子は何の気なしに聞いていた。その日の夜、自室で勉強中の和子がキッチンに飲み物を取りに行こうと、リビングとダイニングの間の引き戸を開けようとすると、両親の声が聞こえてきた。
「今度できるバイパスができる予定の場所が、渡辺家の土地にかかっとるって?」
「そう、だけん、県による用地買収の対象になっとるって……」
和子は内心興奮したが、努めて冷静に引き戸を開け、何食わぬ顔でキッチンに行くと冷蔵庫からボトルを取り出し、麦茶をグラスに注いだ。
その翌日、和子は由恵とアンコの散歩に参加することにした。
「ねえ、由恵、私が『東京の大学に行くとしても、お金はどうにかなるかもしれない』って言ったの、覚えてる?」
「覚えてるけど……、何!?何かあったの?」
由恵が興味津々に和子に顔を近づける。
「由恵も覚えてるよね、一回目の時、渡辺のじいちゃんが一時期すごく羽振りがよかったこと。いい車を買ったり、シャッター付きの駐車場を作ったり」
「うっすらとは覚えてる気がするけど、いつだか、なんでだったかはあんまり覚えてないかも」
「実はもうすぐその時が来る。渡辺家の農地が、道路を作るための用地買収の対象になったんだ。今日お母さんにおばちゃんから電話があって聞いたみたい。正確な金額は分からないけど、一億円以上は確実……」
「えーっ!!」
由恵が大きな声を出したので、和子は由恵の口に手を当てた。
「しっ……」
「つまり姉ちゃん、じいちゃんのそのお金をお目当てにしてるってこと」
「端的に言えば、そういうことだね。一回目の時も入学祝いに確か五十万円くれたんだ」
「五十万円は確かに大金だけど、東京に進学すると思うと焼け石に水じゃない?」
「それは、そう。だから今回はもっとたくさん頂くつもりでいる」
由恵が眉を顰めた。
「身内とは言え、それは結構、かなり、図々しくないか?」
「その考え方は至極真っ当だよ。でも、もしそのお金が、使わなければ数年以内に消えてしまうのだとしたら?」
「消える!?」
由恵がほぼ悲鳴のような声を出した。
「静かに……!じいちゃんが熊本地震の数年後に亡くなった時、私、ちょっと長めに帰省したじゃない?葬式から数日後、由恵がどうしても職場に行かなきゃいけないって出勤した日、覚えてる?あの日、お母さんと私で渡辺の家に行って、じいちゃんの部屋の整理を手伝ったんだ」
当時、由恵は両親と同居していて、地元の会社で働いていたのだ。
「なんとなく……」
「それで、私、おばちゃんとお母さんがじいちゃんの用地買収の時のお金が入ってるはずの通帳を見つけたのに立ち会ったんだよね。大金が振り込まれているんだけど、2000年9月にはその残高がゼロになっていた」
「億が!?他の口座に移したとか、不動産を購入したとかではなく?」
由恵が目を剥く。
「もちろんそれを考えて、じいちゃんの部屋をひっくり返して探したの。多少の残高がある通帳はあったけど、土地の権利書の類なんかもなくて、方々《ほうぼう》に問い合わせても結局分からない仕舞だったと、しばらくしてお母さんから聞いた」
「ということは……?」
「投資に失敗したのか、詐欺なのか、今となっては分からない。ただ一つだけ分かっているのは、じいちゃんが用地買収で得るお金は短期間に綺麗さっぱりなくなってしまう、ということ」
「噓でしょ……」
由恵が立っていられないという風に、和子の肩に掴まった。
「もちろん阻止できるのなら、阻止したい。でも、じいちゃんにずっと張り付いておくのは不可能だ。それに、じいちゃんの性格上、一度その気になったら誰も止められないと思うんだ。説得しようとしても余計意固地させるだけだろう。だから、私はじいちゃんに私の学費をなんとしても出させるつもりでいる。できればあんたと龍太郎の学費の足しになるようなお金も……なくなってしまうくらいだったら、私達の将来に投資してもらう方がよっぽど良いと思わない?」
「もっともだわ……でも、億……」
由恵は力なく項垂れた。
「これが私がT外語大に行きたい理由の一つでもあるの。できるだけネームバリューのある大学の方が、じいちゃんからお金を引き出しやすいと思うんだ」
由恵は頷くと、きゅっと顎を引いて、言った。
「分かった。私も協力するから、入念に計画を練ろう。姉ちゃんと私はもちろん、今回は龍太郎がいる。龍太郎が中学在学中にお父さんは定年退職を迎える。継続雇用でしばらく働けるとしても、経済的にかなり厳しくなるはずだ。お金はあるに越したことはない」
由恵は手を上げると、和子の手をがっちりと握った。和子もその手を握り返した。
「今度は『プロジェクト・G』とでも呼ぶ?じいさんだけに……」
「ジーって……!」
由恵の言葉に、和子は思わず吹き出した。
『プロジェクト・A』以来となる姉妹のプロジェクトが、こうして始動したのである。




