第十六話 十七歳の誕生日
七月の三者面談で、和子は英語自体を学べる学科に進学したい、具体的には福岡の公立大学S大、センター試験の結果によってはT外語大を考えていると、母と担任の畠元先生に告げた。母は「いいんじゃない」という反応、畠元先生は椅子から立ち上がらんばかりに喜んでくれた。先生は英語教師なのだ。先生の旦那さんは父と同級生とのことだったので、両親位の年齢のお母さんのような温かい先生だった。
先生は和子の手を両手で包み込み、言った。
「木本さん!先生、全力でバックアップするから!」
先生はその言葉通り、業者からサンプルでもらった英語の問題集の中から選び抜いた五冊程を和子に提供してくれて、和子が問題を解いて提出すると、採点して返してくれるようになった。休み時間や放課後に個別で説明もしてくれるという、心強いサポーターだった。
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二年になり、新しいクラスにようやく慣れたと思ったら、あっという間に年末、そして新年がやってきた。1998(平成10)年である。
前年に消費税が三パーセントから五パーセントに上がり、庶民の生活は苦しくなった。1995年4月19日に1ドル=79円75銭の史上最高値を付けたドル円は1998年には132円台からのスタートだった。円高は輸入物価を上昇させ、消費税増税と相まって内需は落ち込んだ。
そういえば自分は就職氷河期世代だったのだと、和子は思い出す。2003年度卒業生は氷河期世代後期ではあるが、最後の年ではなかったはずだ。ということは、まだ景気は下がるのか、すでに底であるとしても悪い状態は当分続くのだろう。高校の終盤も近づき、社会に出る日がずっと先のことではなくなってきた今、ニュースや新聞を見ると、和子は溜息が止まらないのだった。
そんな和子を尻目に、由恵は呑気である。龍太郎とアンコと床に転がっている。仰向けの龍太郎のお腹に由恵が唇を押し付けて息を吹き込むと「ブー」と音がして、龍太郎のお腹に振動が伝わる。「キャー!」と龍太郎が高い声を上げて笑い転げている。「ゆえちゃ、して、して!」と飽きることなく強請り続ける龍太郎と由恵の間に、腹を撫でて欲しいアンコが身体をねじ込んでくる。由恵は自分も笑いながら、忙しそうに頭と手を動かしていた。龍太郎は二歳半、言葉も随分出てくるようになり、かわいい盛りである。
M高の修学旅行は二年生の一月末から二月の頭にかけて行われる。一月末が誕生日の和子は丁度修学旅行中に十七歳を迎えることになるのだ。修学旅行は京都、奈良の二泊三日である。小倉駅まで貸切バスに乗り、小倉~京都間は『新幹線ひかり』に乗るというコースだった。和子は中学の修学旅行の前夜に買ってもらったリュックを背負って、旅立った。
バスでは、和子は万由里の隣の席に座った。席の間をお菓子のお裾分けが飛び交っているバスの中は賑やかで、クラスメイトは男子も女子もみんな浮かれている。
和子は正直、一回目の人生での修学旅行の記憶がほとんどない。だが、一つだけ忘れられないのは、同じ部屋だった仲良しグループのみんなが、和子の誕生日にサプライズでお祝いしてくれたことだった。その記憶が強過ぎて、他の記憶が霞んでしまったのかもしれない。
誕生日の夜、ホテルの大広間での夕食後のことである。和子がみんなより少し遅れてホテルの部屋に入り、前室でスリッパを脱いで襖を開けた瞬間、クラッカーが鳴り、色とりどりの紙テープが和子に降り注いだ。そして、「ハッピーバースデー」の大合唱の後、みんなが手作りのプレゼント――いろんな写真をコラージュしたカレンダーだった――を渡してくれたのだった。サプライズを想像もしていなかった和子は、本当に驚いて、そして心の底から嬉しかったのだった。
だからこそ二回目の修学旅行に、和子は緊張していた。誕生日は明日だから、サプライズがあるとしたら修学旅行の二日目である明日の夜である。和子には心配なことが、二つあった。まず、サプライズの時に一回目の時と同じくらいに驚けるか。演技力が試される。そして、もっと大きな不安は、今回お祝い自体をしてもらえるのだろうかということである。
和子は思う。今回の私は一回目の時に比べると、付き合いが悪かったんじゃないだろうか。家には龍太郎がいるし、勉強もしたいし、早く帰ることも多かった。みんなと仲はいいと思うけど、本当に一回目と同じ深さで付き合えているのかというと、自信がなくなってしまうのだ。
二日目の夕食後、和子はわざとゆっくりとトイレに行ってから部屋に帰った。そして、わざと大きめに音を立ててドアを開け閉めし、スリッパを脱いだ後、ゆっくりと襖を開けた。
「あー、かずっち、おかえりー」
「うちらのグループのお風呂の時間だから、急がないと。私達ももう行くよー」
そこには万由里と真奈美の二人だけがいて、洗面用具や着替えの準備をしていた。
「うん、先に行ってて。準備できたらすぐ追いかける……」
二人が先に部屋を出た後、和子はのろのろと風呂に行く準備をした。期待していた自分が滑稽で、惨めな気持ちだった。
風呂に着くと、二人とも既に脱衣所にはいなかった。広い脱衣所には和子一人である。和子は服を脱ぎ、フェイスタオルを胸の前に垂らして持つと、風呂場へ続く摺りガラスの引き戸を開けた。
「パーン!」という乾いた音が、天井の高い風呂場に響き渡る。
「誕生日おめでとうー!!」
白いバスタオルを身体に巻き付けた六人がカラフルな紙テープの飛び出したクラッカーを持って立っている。和子はタオルを胸の前に持ったまま、呆然と固まっていた。
「かずっち、びっくりした?」
「え、もしかして、泣いてる……?」
知らず知らずのうちに、和子の頬を涙が伝っている。
「え、かずっち、泣いてる!?ごめん、やり過ぎたかな……驚いちゃった?」
心配そうに和子の顔を覗き込む万由里に、和子はしゃくり上げながら言った。
「驚いた……でも一番は嬉しい……!みんな、ありがとうー!!」
最後にみんなに向けて言った「ありがとう」はほぼ悲鳴だった。ホッとした空気が広がり、その後みんなクスクスと笑い出した。
「かずっち、号泣じゃん!」
「まさか泣くとは思わんかった」
「かずっちって落ち着いてるから、部屋でサプライズしても驚かないかと思って考えてたら、真奈美がお風呂にしようって言い出してさ」
そして、タイルの床に散らばった紙テープを搔き集めていたら、クスクスは大笑いになり、みんなで腹を抱えて笑ったのだ。
「うちら、裸だよ……裸でクラッカー鳴らして、裸で床を掃除してる……ウケる!!」
今や泣いているのは和子だけではなかった。みんなの大笑いは止まらなくて、床に這いつくばって涙を流している子もいたのだ。巡回に来た先生の「お風呂時間あと十分よ!」という声でやっと我に返ったみんなは、笑いながらも高速で身体と髪を洗って、濡れた髪のまま部屋に戻ったのだった。
その日の夜――正確には布団に入ってから、いつまでも話していたからもう明け方だったが――みんなの寝息を聞きながら、和子は思った。
一回目と同様、修学旅行でどこに行ったか、何を食べたかなんて、四十五歳になったらきっと覚えていないだろう。でも、お風呂場でクラッカーを鳴らされた十七歳の誕生日だけは、きっと一生忘れないだろうと。




