第十四話 世界への窓
1997(平成9)年4月、一歳九か月を迎えた龍太郎はすっかり大きく、そして活発になった。家の中をトコトコと走り回り、木本家の急な階段を這って上り降りする。体重は約十キロ。お腹に倒れ込むように乗られた和子は、思わず「ぐえっ」と声が出るくらいだった。ミーコを思い出して物思いに耽るには、龍太郎は重過ぎ、そして元気過ぎた。思い浮かぶのは、凶悪なボウリングボールが腹にぶつかる和子自身のイメージである。ただ、その凶悪なボーリングボールはそのまま胸までよじ登ってきて、「かぁじゅちゃ!」とにっこり笑って和子の頬に吸い付き、散々涎まみれにした後、そのまま胸の上でスヤスヤ寝息を立て始めるのだ。起き上がることを諦めてそのまま仰向けに横たわる和子の顔を、今度はアンコがベロベロと嘗め回すのだった。
由恵は中学に入学した。「確かに数学とか理科とか結構忘れちゃてるわ……」とぼやきながらも、真面目に勉強しているらしい。「先生達に『お前が木本の妹か!』て言われる~」と苦笑いしながら、存外楽しそうに通学している。
和子は高校二年生になった。二年への進級時に文系、理系のクラス替えがある。クラス替えはこの一回のみなので、卒業するまでこのメンバーで過ごすのだ。
一回目の人生で、和子は後に親友となる万由里と文系クラスで出会った。女子は三つのグループに緩やかに分かれていたが、グループの枠を超えて仲の良い、和やかなクラスだった。和子と万由里は同じグループだったことがきっかけで仲良くなり、大人になっても連絡を取り合う長い付き合いとなった。
和子は今回も文系クラスを選択した。顔触れは一回目の時と比べると少しばかり入れ替わっているが、女子の顔ぶれはそんなに変わっていないようだ。一年の時同じクラスだった子達もいて和子は安堵した。
四月も終わりに近づいた金曜日のことである。
「かずっち、ゴールデンウィークの初日、カラオケにいかない?」
そう誘ってくれたのは一年の時同じクラスだった真奈美だった。一緒にいた五人の女子の中に万由里もいた。
「木本さんも行こうよー」
と皆、口々に声を掛けてくれた。
4月30日、朝十一時、和子と友人は国道沿いのカラオケボックスに自転車で集合した。コンテナのような四角いプレハブがずらりと並んでいる。フリータイム五時間を選んで受付を済ませ、伝票の番号を頼りにプレハブの中の一つに向かう。
「誰から歌う?」
「私、安室ちゃん入れようかな!」
「GLAY、誰か歌わん?聴きたい!」
「スーパーでお菓子と飲み物買ってきたよ」
「バレないようにしないと!」
持ち込みは禁止だったが、皆、貧乏な高校生である。鞄の中に潜ませたお菓子と飲み物をこっそりと飲み食いし、バレないようにゴミをそっと持ち帰るのだった。曲目一覧が載った分厚い『歌本』は部屋に二冊しかないので、順番に回し見して、歌いたい曲の番号を探す。そして、テレビのリモコンとそう変わらないサイズのカラオケ用のリモコンのテンキーで番号を入力して、曲をカラオケの機械に送信するのだ。
CDのミリオンセラーが連発する時代、テレビでは毎日のように音楽番組が放送されていた。小室ファミリーやバンドブームの全盛期。テレビ以外に娯楽が少なかった時代だから、年間トップ五十、いや百位の曲であれば、当時の高校生は皆歌えた。自分の入れた歌以外でもみんな歌い出すので、大合唱である。和子が歌詞の『あなた』を担任の先生の名前である『たなか』に替えて歌ったら、みんな腹を抱えて笑った。万由里は笑い過ぎて涙を流している。歌いっぱなし、そして笑いっぱなしの五時間だった。
「かずっちって、頭いいから近づき辛いと思ってたけど、面白いんだね!」
受付で支払いの割り勘をワイワイ計算しているときに万由里にそう言われた和子は、なんだかとても嬉しくなった。受付の外に出てから、ポケベルの番号を交換し合い、七人は一緒に行動する仲良しグループになったのだった。
友人とのカラオケで青春を満喫した和子だったが、ゴールデンウィークの残りは引っ越し作業に追われることになった。ついに木本家の新居が完成したのだ。
和子と由恵の一回目の人生では、勾配のついた曲線を描く屋根の個性的な家があったその場所に、一回り小さくて四角い無個性な家が完成した。和子と由恵が求めたメンテナンス性と断熱性が高く、大き過ぎない家である。その分駐車場を広く取ったので、車が二台置ける上に、頭から突っ込んで駐車できるようになった。将来の和子もこれなら駐車可能だろう。
図面が完成した時は少しばかり残念そうな顔をしていた両親も、新築の家にうきうきしている。父が生まれ育った古くて小さなあの家からすれば、雲泥の差なのだ。段差を少なくすることにもこだわったので、龍太郎が怪我をする心配も少なく、歳を取ってきた祖母も安心だった。
庭に面した一階の日当たりのいい縁側付きの六畳間が祖母の部屋、二階には和子と由恵それぞれの個室もある。二人が個室を持つのは二回目の人生初である。個室がないことが不満だった訳ではないが、自分だけの部屋というのはやはりいいものだ。龍太郎の個室は設けず、和子か由恵が家を出た後の部屋を使うことにしたので、龍太郎は当分は両親の寝室で寝ることになった。アンコはリビングの一角にベッドとトイレを置いてもらったが、祖母の布団に入れてもらったり、時には二階の誰かの部屋を訪れたり、家中がアンコの寝室だった。
***
和子が進級する際に楽しみにしていたのがパソコンの授業である。二年生になると週に一回ではあるが、情報処理の授業が開始する。とうとうパソコンに触ることのできる日が来たのだ。
先生の指示に従い、机の下に置かれたパソコン本体、そしてブラウン管のモニターのスイッチを入れる。
……立ち上がらない……
和子は壊れているのではないかとさえ思ったが、先生は平然としている。たっぷり一分半程もかけて、『ジャーン』という効果音と共に、雲の浮かんだ青空をバックにカラフルな窓のロゴが現れた。
あー、久しぶり……
和子は不覚にも涙が出そうになった。懐かしい友人に会ったような気分でさえある。
ようやく青緑色のデスクトップが現れて、そこにファミコンのドット絵のようなギザギザと解像度の低いアイコン達が並んでいる。ただ、解像度やアイコンのデザインが多少変わったことを除けば、2026年のWindowsの画面とそんなに変わらないことに、和子は新鮮な驚きを覚えた。
「次はインターネットか!?」と和子は意気込むが、一時間目の授業は「パソコンとは」、「Windowsとは」から始まり、マウスの使い方を学ぶことで終わった。驚いたことに、ダブルクリックに苦戦している子達も結構いるのだ。
この後二か月程ブラインドタッチを学び、タイピングのクラス内検定に合格する必要があるという。一回目の人生での二十年以上に及ぶ会社員生活に加えて、今回も小学五年生からワープロを使っている和子にとってはもちろん造作もないことである。だが、皆の進捗に合わせることを思うと、インターネットにたどり着くまでの道は険しそうだった。
でも和子は知っている。インターネットが世界がぐっと近くするということを。和子はようやくその入り口に立つことができたのだった。




