第十三話 四十代のアドバンテージ
今年の桜の開花は例年より早かった。和子は葉桜の並木を見上げながら、M高の校門をくぐった。一回目の人生での入学から数えると、三十年 + 今回の人生十五年分、実に四十五年である。懐かしさより新鮮さの方が先にくるのだった。
田舎のご多分に漏れず、熊本では大学よりも高校の方が時に意味を持つ。大人になっても尚「どこ大学?」よりも「どこ高校だった?」と聞かれる方が多かったりするのだ。トップ高に行くのもよかったなぁと、和子も内心思わないではない。
でも弟の成長を近くで見ることができるのはちょっとした優越感なんかには代えられない。それに一回目の人生で高校で出会った先生や友人達との再会も楽しみだった。
「姉ちゃん、高校生活どうよ?引き続き優等生してんの?」
アンコにリードを引っ張られながら、由恵が尋ねる。和子が高校に入学しても、和子と由恵のアンコの夕方の散歩というルーティンは変わらなかった。
「K高を蹴ってM高に入ったと噂の有名人だからね、私は」
「ははは、でも四十五歳だからなあ、ちょっとチートが過ぎるよね」
からかう由恵に和子は反論する。
「あんたも来年中学に入れば分かると思うけど、四十代の知識っていうアドバンテージなんて風前の灯よ?私、一回目の人生でも文系は得意だったけど、中学の後半に数学で躓いたんだから」
「確かに……来年怖いな」
由恵は顎の下に手を置き、考え込んでいる。
「でも実のところ、私達には知識よりも大きなアドバンテージがある……」
「なになに?もったいぶらないで教えてよ!」
由恵が和子の腕を揺さぶった。
「私達のアドバンテージはね、四十代の記憶力を経験していること。死ぬ数年前に久々に資格勉強したとき、驚愕したもんね。五時間勉強しても、翌朝起きたら本気で何にも覚えていないっていう……あの頃を知っているからこそ、記憶力抜群のフレッシュな頭脳で勉強するの、結構楽しいんだ」
「なるほど……」
「同級生に『勉強するなら今だよ!』と言って回りたい衝動に駆られてるけど、その言葉が一切響かないのもよぉく分かるから黙ってる」
「それな」
「でもあんたには分かるでしょ?前半で詰め込んだ知識が、人生の後半戦をどれだけ助けるかを。もしやりたいことがあったら勉強はしときな」
「ふぅん……」
由恵は気のない返事をすると、アンコを見た。目線の先のアンコは、尻尾を上げ、がに股で踏ん張っていた。
散歩を終えて玄関を開けると、廊下の先に龍太郎がいた。和子と由恵、そしてアンコを見つけ「アー!」と顔全体で笑うと、笑顔のままで高速ハイハイで近づいてきた。木本家の玄関は三和土からかなり高くなっている。和子がすんでのところで、龍太郎を抱き止め、後ろから走ってきた母は「ほーっ」と大きなため息をついた。
「ああ、よかった……あんた達はおとなしくて手がかからんかったけど、龍ちゃんは目が離されん……」
「お母さん、これが本物の赤ちゃんだよ……」と和子と由恵は無言で目を見交わしたのだった。
***
七月、木本家の居間では、龍太郎の一歳の誕生会が行われていた。床の間には季節外れの兜が飾られている。
渡辺の祖父の初男孫フィーバーは止まるところを知らず、五月の初節句に合わせて、巨大な兜と長大な鯉のぼりを贈ってきたのだ。兜は大きすぎて仕舞うところがなく、七月になった今も床の間を占領していた。
木本家のささやかなベランダにはあまりにも場違いな長い鯉のぼりは、風がない時は一階までだらんとだらしなくぶら下がっていた。通学中の小学生が「屋根よぉり低い鯉のぼり〜!」と歌っているのが聞こえた時、和子と由恵は思わず噴き出したのだった。
家族みんながお気に入りのケーキ屋の丸いデコレーションケーキに蝋燭を立て、家族みんなで『ハッピーバースデー』を歌うと、母の膝の上に座った龍太郎はご機嫌だ。母が代わりに蝋燭の火を吹き消した。
「龍ちゃん、おめでとう!」
みんなが口々にそういうと、龍太郎は「キャハハハハ!」と声をあげながら、ケーキに手を伸ばしたが、その手が届く前に父がケーキを持ち上げた。由恵の一歳の誕生日で父も学習したようだった。
面食らったような顔をした龍太郎の目は見る見るうちに涙でいっぱいになった。「あーー!」と顔をくしゃくしゃにして泣き出した龍太郎の頬をアンコがペロペロと舐めた、その瞬間である。龍太郎が涙を目に溜めたまま、にっこり笑って言ったのだ。
「あんっお!」
「龍太郎、アンコって言った?!」
「言った言った!」
「まさかアンコが一番とは……」
龍太郎に名前を一番に呼ばれるのは自分だと、密かに自負していた木本家の面々は、思わぬ伏兵の登場に敗れ、落胆するのであった。
「皆さんに、発表があります!」
賑やかにケーキを食べ終わった頃、父は母の顔をちらりと見ると、立ち上がった。母は父を見ながらニコニコしている。父は高らかに宣言した。
「家を建てることにしました!土地は決めたけん、週末にみんなで見に行こう!」
バブル時に八パーセント台まで上がった住宅ローンの長期固定金利は、1996年には三パーセント台まで下がっていた。八パーセントの場合、三十五年ローンで二千五百万円を借りると、総返済額は約七千五百万円となる。三パーセントだと約四千万円なので、その差は実に家一軒分以上である。ようやく木本家が住宅購入できる水準になったのだ。
翌日のアンコの散歩での和子と由恵の話題は、専ら家のことである。由恵が拳を握って、高らかに言った。
「私は、あの二人のドリームハウスを阻止する!これについては、全身全霊を以って、未来を改変させていただく!」
一回目の人生では、両親の夢の詰まった家が建ったのだったが、子供達からすると色々と不満が多かった。
まずこの時代の家は断熱材があまり入っておらず、冬はとにかく寒かった。良質な木材がふんだんに使われた広いリビングルームは天井の高いオシャレな吹き抜けだが、そのせいで冷暖房が効かなかった。そのため、家族は年中ダイニングルームで過ごすこととなり、リビングは他の部屋に行くために経由する、とんでもなく広い廊下としてのみ機能していた。
土地に対して建坪面積がかなり広かったので、車が一台しか停められず、由恵が成人して車を買った後は、近所の駐車場を借りなければならなかった。しかも家の駐車スペースは、急な坂道をバックで上り、最後は直角に切り返して駐車しなければならない。一度ぶつけた和子は、その後二度とそのスペースに駐車することはなかった。
由恵は両親と長く同居していたので、家に対する不満も大きかったのだ。
木本家の建築会社との度重なる打ち合わせは、高校生と小学生の娘が必ず同席するという変わったものになった。しかもその娘達は異常にコスト意識が高く、そして異常に現実的なのである。毎回ワープロで打ちだした話し合いリストを持参し、冒頭には自分達が作成した前回の議事録の読み合わせを行い、担当者に逐次確認させるという念の入れようだった。
その結果、和子と由恵は多くの現実的かつ実用的な希望を押し通し、しかも予算を削減するという偉業を成し遂げたのであった。
木本家の新居は十一月に着工に漕ぎつけた。




