第十二話 『うちの弟がかわいすぎる件について』
「姉ちゃん、思うに年の離れた弟というのは、孫に似ていると思う」
龍太郎を抱き、哺乳瓶を含ませながら由恵が言った。
弟――木本家の第三子にして長男――は龍太郎と名付けられた。生まれた時には頭ばかり大きかったが、今は全体的にむちむちとした健康的な赤ん坊に成長している。腕も脚もはち切れんばかりで、ゴムで締め付けたかのような「くびれ」だらけである。まるでちぎりパンだ。四か月になった今では、お世話をしていると声を上げて「キャッキャ」と甲高い声で笑うようになってきた。
「かわいい、これでもかと言うほどに、ただただ、かわいい。愛おしい」
龍太郎が「んっくんっく」とミルクを飲む口元を見ながら、由恵が饒舌に続ける。
「この純度の高い愛おしさって、私に責任がないからより感じるのかもしれないと思うんだよね。両親だったらこれから育てていくという重圧がある。それに『いい学校に行って欲しい』『医者になってほしい』みたいな期待も生まれてくると思う。でも私は間接的な利害関係しかないじゃん、だから『なんでもいいから幸せになっておくれ~』みたいな気持ち」
龍太郎が哺乳瓶から口を離したので、由恵は龍太郎を膝に載せると、頭と胸を支えて背中をトントンとさすった。
「多分これって、孫を思う祖父母の気持ちに近いのかも。姉ちゃんに子供がいたら、こんな気持ちだったのかもしれないね」
由恵が背中をさすり続けると、龍太郎は「ケッ」と小さなゲップをした。とても小学五年生とは思えない鮮やかな手つきである。
「私達は今回も子供を作るかは分からないから、お母さんが子育てに関わるのは最後になるかもだよね。赤ちゃん時代くらいはなるべくストレスなく、責任の重すぎない子育てを楽しんでほしいな」
そう和子が言うと、由恵も龍太郎を抱っこしながら、力強く頷いた。なんとも頼りになる小学生である。
その言葉通り由恵と和子は龍太郎の子育てに最初から協力的だった。
母と龍太郎が退院してきて最初の土曜日、和子と由恵は父と祖母を居間に招集した。一晩中続く龍太郎の夜泣きに疲れ切った母は、二階の寝室で仮眠を取っている。和子が口火を切った。
「お母さんと龍ちゃんが退院してきて一週間、お母さん、ほとんど寝れていないんじゃないかな」
由恵がうんうんと頷く。
「このままではお母さんが参ってしまう。ここは木本家総力戦と行こう」
「それはもちろんだけど……」
父が口を挟む。
「お母さんが龍の世話は自分がするけん、手を出さんでと言うし……」
「お父さん!」
由恵が父を遮った。
「今は出産後でホルモンが不安定になってるし、睡眠不足のせいで、イライラしたり、落ち込んだりしやすい時期なんだよ。まずできるだけお母さんの睡眠不足を解消すること、そして孤独だと思わせないようにしないと……」
父と祖母が目を丸くして由恵を見る。おおよそ、小学生の発言ではない。
「って、前に妹が生まれた友達がお父さんから聞いたんだよね?由恵?」
和子が急いで付け加えると、由恵は一息に言った。
「そ、そう、お母さんもそうなるのかなって思ったから、よく覚えていたの。さて、どうやってお母さんの睡眠時間を確保しようか?」
うまく誤魔化せた、のだろうか。父と祖母の興味は母をどうサポートしていくかの議論に移り、和子と由恵は胸を撫で下ろしたのだった。
四人の話し合いの結果はこうだ。父、和子、由恵の三人は通勤、通学があるし、ましてや和子は受験生である。睡眠時間を削ったり、無茶なことをするのは避けたい。全員が少しだけ普段より負担を増やして、一人だけに負担が集中するのを避けるように計画を立てた。早起きの父が龍太郎の朝の世話を担当し、和子と由恵は家事を担当する。祖母は主に昼間の世話を担当し、学校からの帰宅後は和子と由恵が交代で世話をすることになった。細切れにはなるが、母にはできるだけ睡眠をとってもらう。そして母の体調が悪くない限りは、朝夕の食事は家族揃ってゆっくり取ることにした。
数時間毎の授乳もあるので、決して計画通りに行く時ばかりではなかった。でも睡眠時間が確保されると、母の顔色もよくなり、明るく話をするようになってきた。しかも母以外の家族もそれぞれが龍太郎と二人きりで過ごす時間を持つことで、ただでさえかわいい龍太郎が余計かわいく見えてくるという、副次的な効果まであったのだ。
こうして木本家には、重度の姉バカが二名爆誕したのである。
由恵が龍太郎を抱っこして、「うちの弟がかわいすぎる件について~!」とラノベのタイトルみたいなことを言いながら、丸い頬っぺたに交互にキスをしている。由恵が「んまぁ!んまぁ」と大げさにキスをすると、龍太郎は「キャーーー!」と甲高い声を上げて、のけぞって笑った。由恵がキスをやめると、龍太郎は「もっともっと」と両手を振り、また由恵がキスをすると甲高い声で笑う。エンドレスである。由恵の腕が痛くなるまで、この遊びは続くのだった。
意外なことに、アンコも貴重な戦力だった。アンコは居間に龍太郎が寝ていると、尻尾を振りながら龍太郎を覗き込んだり、近くで丸まって寝るのであった。龍太郎はアンコを見ると「キャッキャ」と笑いながら、耳や尻尾を引っ張ったりする。でもアンコは辛抱強くて、龍太郎に噛みつくことは決してなかった。
龍太郎の誕生は母方の祖父母にとっても大きな喜びだった。母は二人姉妹で、母の姉である伯母には緑ちゃんと由佳理ちゃんの二人姉妹が、母には和子と由恵の二人姉妹がいる。つまり完全な女系家族なのである。特に農家の祖父は、諦めていた初めての男孫の誕生に狂喜した。
和子は龍太郎を抱きながら思う。
温かい。龍太郎の体温を感じると、寝る前にまどろんでいる時ような、そんなうっとりとした気分になるんだ。そして、その重さ、温かさを感じる度に、愛しさは少しずつ、少しずつ蓄積していく。
由恵の言う通りに『プロジェクト・A』を実行して本当に良かった。
そして龍太郎の身体の重みに思い出す。
ミーコ……一回目の人生で、夫の明彦と飼っていた私の猫。フワフワで、でも私の上に乗ってくるときはずっしり重くて、温かくて。膝から下ろすと「シャーーーー!」と唸ってくる。理不尽で、不可解で、愛おしい、私の大好きな猫。明彦と幸せに暮らしているだろうか……
龍太郎は和子の思いを知ってか知らずか、和子の顔を見ると、歯のまだ生えていない口を大きく開けて笑った。
***
十一月も後半に入り、今日は和子の進路相談のための三者面談である。
「じゃあ、お母さん後で行くからね」
母が龍太郎を抱いて玄関先で見送ってくれた。龍太郎は右手を伸ばすと和子の指を握って、にぱっと笑った。
「木本さんは非常に優秀な生徒で、私も担任として誇らしいです。常に学年で三位以内の成績ですからね」
和子の担任である男性教師の言葉に、母は恐縮しながらも誇らし気である。和子としては、四十五歳の記憶を持った人生二回目の女よりも時に良い成績を取る中学生の方がすごいんじゃないかと思っている。ただ中学も三年となると、勉強しないで良い成績を取るのは難しくなってきており、和子もそれなりの努力をしていた。
「県内トップの進学校である公立のK高、S高、D高辺りが志望校になってきますね。校風も違いますから、本人の希望次第ですね。あとはすべり止めをどうするかですかね」
先生の言葉に、母は「はい、はい」と頷いている。
「あのぉ」
和子は恐る恐る手を挙げた。
「木本、どうした?志望校についてか?」
先生に話すよう促された和子はおずおずと言う。
「私、志望校決めてるんです」
「どこ高だ?K高か?S高か?」
先生と母の希望に満ちた視線が気まずい。
「地元のM高です」
「M高!?」
先生と母の叫びがシンクロする。M高は和子の住む市にある三つの公立高校の中の一つである。普通高校はこの一校だけなので、将来的に大学進学を考えていても飛びぬけて成績がいいわけではない生徒は、必然的にこの高校への進学を目指す。決して悪い高校ではないが、教師の挙げたトップ高と比べると、レベルはかなり落ちた。
「木本、本気なのか!?」
「かずちゃん、本気なの!?」
二人とも椅子から立ち上がらんばかりである。再びシンクロする二人の迫力に、和子は一瞬臆したが、「はい」と力強く頷いた。
「長い間バスに乗って通学したくありません」
先生が半ば叫ぶように言う。
「そんな理由でトップ高への進学をあきらめるのか!」
「そうよ、じゃあ、お母さんの実家から通えばいいじゃない!」
母も口を挟む。
「それはもっといや」
「なんで!?」
二人のシンクロは継続中で、目を見開いた表情まで同じである。
「龍太郎――弟と離れたくないからです」
「は!?」「え!?」
また二人が同時に叫ぶ。
「弟が育つのを一瞬だって見逃したくない。だからバスには乗らないし、お母さんの実家にも住みません。M高に行きます……だって、私の弟は世界一かわいいんです!」
先生も母も頭を抱えたが、和子は頑として譲らず、三者面談はお開きとなった。「おうちでお父さんも交えて話してみてください……」という先生の力ない声に見送られて……
今でも頭を抱えんばかりの母と和子が家に帰ると、由恵は既に帰宅して龍太郎の面倒を見ていた。
「おかえりー、姉ちゃん三者面談だったんでしょ?どうだった?」
「しっ!」
和子は無邪気に尋ねる由恵を居間の隅へと引っ張った。
「お母さんを刺激しないで!」
「刺激?」
「私がM高に行くって言ったら、先生と一緒に私を説得にかかったんだよ……」
「姉ちゃん、またM高に行くの!?」
由恵も目を丸くする。
「お前もか……」
「いや、だって常に学年トップの成績なんだから、先生もお母さんも難関校への進学を期待するっしょ」
「気持ちは分かるけど、私は龍ちゃんと離れる気はないんだ……熊本市の高校になんか行ったら、渡辺家に下宿させられちゃう……」
「それな!」
姉バカ仲間の理解は早い。
「由恵はさ、前に『年の離れた弟は孫みたい』って言ったじゃん、それには完全に同意なんだけど、もっとしっくりくる言葉を見つけたんだ。『年の離れた弟は推し』だ!尊い。とてつもなく尊い。課金したい気持ちを必死に抑えてる……!」
「それな!」
由恵の二回目の「それな」は一回目よりもずっと力強かった。
「推しの成長を見守れる機会を、熊本市の高校への進学なんかで逃すことはできない。高校の三年間は龍ちゃんと一緒にいれるようM高に行くつもり。特に一回目の人生でも不満なかったし」
和子のその言葉に由恵は深く頷き、感慨深そうに言った。
「今回の人生で初めての姉ちゃんとの『同担』かあ……私、『同担拒否』はないから安心して」
かくして、和子は、両親の説得にも、両親から依頼を受けたのであろう祖母の泣き落としにも負けず、M高志望を貫いた。
そして、1996(平成八)年4月、和子は晴れて、再びM高に入学したのである。




