第十一話 未来にはいなかった子
元旦のビッグニュース以来、木本家は浮かれたムードに包まれていた。
両親は少し照れくさそうではあるが、娘達に妊娠を告げるというビッグイベントを終えて、ホッとしているようにも見えた。母は三十九歳だが、父は四十六歳、和子の一回目の年齢とほぼ同い年である。その歳でこれから赤ん坊を育てると決意することは簡単なことではないと、和子は一回目の人生で、同世代の友人や知人達を見て知っていた。しかも父の場合、すでに二人娘がいるのだ。経済的な心配は尽きることがないだろう。だが、両親はそれでも生むと決めたのだ。「できるだけ私達でサポートしようね」と和子と由恵は誓い合った。
1995(平成7)年1月17日、そんな木本家のお祝いムードは脆くも崩れ去った。
「お袋、和子、起きて」
父の声で和子は目を覚ました。枕元の時計を見るとまだ六時過ぎである。起きるにはまだ早い。和子が「お父さん、勘弁してよ」と布団を被ろうとすると、固い声で父が言った。
「関西で大きな地震があったらしい……」
和子が父と祖母と居間に行くと、母がすでにテレビを見ていた。スタジオのアナウンサーが緊迫した表情で被害を伝えている。「神戸震度6」、「震源は淡路島,震源の深さ二十キロ、地震の規模はマグニチュード 7.2」スタジオが激しく揺れるVTRが流れていたが、現地の外の映像はまだ映し出されてはいなかった。でもこれが未曽有の災害であることを、和子は知っていた。父の従姉の百合子おばさんは大阪に住んでいた。
和子は居間を抜け出すと、階段を軋ませないよう、ゆっくりと上った。寝室では由恵がくーくーと平和な寝息を立てて寝ている。和子は由恵の頬を手の平で数回優しく触った。
「んん……姉ちゃん?」
不機嫌そうに眉を顰めて薄く目を開いた由恵の耳元に和子は口を寄せた。
「由恵、阪神・淡路大震災が起きた」
由恵は文字通り飛び起きた。
今日は火曜日である。いくら地震が気になっても、父は仕事、和子と由恵は学校に行かなくてはならない。父が何度か百合子おばさんに電話したが、繋がらなかった。和子と由恵は家を出るギリギリまでテレビに齧りついていた。JRの列車が脱線したことや、阪神高速道路の高架橋が落下した等の被害の情報が次々に伝えられている。
「由恵、行こう。集合場所まで送ってく」
和子は身支度を整えると立ち上がり、由恵もそれに続いた。
「由恵、大丈夫?」
由恵の顔は血の気を失っている。
「心配しないで。この地震で百合子おばさんとこが大丈夫なのもわかっている。ただ……」
由恵はフーと長い息を吐いて続けた。
「ただ、熊本地震のことを思い出しちゃった……」
一回目の人生、和子は東京にいて2016年の熊本地震を経験していないが、由恵がその時もここにいたのだ。木本家のある市は震源から比較的遠い。本震の際も震度は五弱だったので、本棚の本が落ちたり、壁紙がひび割れるくらいで、致命的な被害は受けなかった。
しかし、母の実家である渡辺家は震源から数キロであり、被害は壊滅的だった。瓦が落ち、基礎が歪んだ家は半壊となり、家の中のありとあらゆる物が落下したという。祖父は倒れてきた茶箪笥に脚を挟まれて、ひどい怪我をした。その怪我がもとで寝たきりとなった祖父は、地震から数年後に亡くなったのだ。祖母や伯母夫婦も幸い軽症だったが、祖父の怪我と家の惨状にひどくショックを受けていた。
地震から数日後、由恵は両親と共に母の実家に行き、家の片づけを手伝い、祖母を木本家に連れてきてしばらく滞在させたりと、忙しく立ち働いたという。その時に見た母の実家の惨状が忘れられないと呟いた由恵を、和子はよく覚えていた。
「無理しない方がいいんじゃない?」
和子は由恵の肩をさすりながら言ったが、由恵は軽く手を上げると、集団登校の生徒達に合流していった。
夕方帰宅した父が百合子おばさんに電話したが、やはり繋がらなかった。夜遅くに電話はようやく繋がり、家族も家も無事であることが確認できた。一回目の経験で百合子おばさんが無事なことが分かってはいたが、電話口から漏れ聞こえるおばさんの元気な声で、和子と由恵もようやく安心したのだった。
***
3月には地下鉄サリン事件が起こり、1995年は決して明るい年とは言えなかった。しかし、梅雨開けが近づくにつれて、木本家には局地的に浮かれたムードが漂い始めた。母の出産予定日が近づいてきていたのである。
今思い返すと、母のつわりは昨年11月の半ばには始まっていたのだろう。12月に入ったばかりのある日、母が突然父に言った。「スイカが食べたい」と。熊本県はスイカの産地である。木本家の住む市に隣接する町が特に名産地として有名だった。だが、12月である。田舎でスイカを見つけるのはほぼ絶望的だった。
「売っとらんかった……」
妙にカリカリしている母は、すごすごと近所のスーパーから帰ってきた父に言い放った。
「じゃあ、他の店を探してきてよ」
そう言われた父は、すぐに車でどこかに出掛けていった。
「こっわっ、かぐや姫かよ……」
由恵の呟きに和子は思わず噴き出した。
三時間後に帰ってきた父は大きな袋を抱えていた。それは白地に赤と紺の紙袋だった。『郷土のデパート・鶴屋』の袋である。
「お父さん、熊本市まで行ったの!」
父は化粧箱に入った小ぶりなスイカを三個も買ってきていた。驚く姉妹を尻目に、父は立派な化粧箱からスイカを一つ取り出すと、皮を外して一口大に切り分けた。そのスイカを母は黙って食べた。和子と由恵も少しだけご相伴に預かった。甘かったはずだが、値段を想像するとあまり味がしなかった。
買ってきた父はスイカを一口も口にしなかった。ただ、母がスイカを食べるのを嬉しそうに見つめていた。七歳年下の母に対して父は元来優しい夫ではあったけれども、大した甘やかしぶりだなと姉妹はあきれたのだった。
母にとって約十年ぶりの妊婦生活である。経産婦であるとはいえ、この時代に三十九歳での出産は決して標準的ではない。由恵の妊娠中に比べると随分と辛そうに見えた。
父は優しい夫だったし、二月で七十二歳になる祖母も元気だ。由恵の妊娠の時とは違い、和子も由恵も立派な戦力となった。4月に和子は中学三年生、由恵は小学五年生になったのだ。木本家は家族一丸となり、母の妊娠期間をサポートした。
1995年7月某日。数日前に熊本では梅雨明けが発表されたが、その日は曇り空で梅雨のようにジメジメしていた。和子と由恵はそわそわしていた。昨日の午後三時頃に始まった母の陣痛が夕方には十五分間隔となり、産婦人科に入院したのだ。
母が入院したのは由恵が生まれたのと同じ、木本家からほど近い産婦人科医院だった。ばあばがアンコと共に留守番し、和子と由恵は父と共に医院に同行した。
何度か助産師が内診したが、まだ子宮口が開ききっていないということだった。和子と由恵は面会時間の終わる午後八時まで付き添ったが、後ろ髪を引かれる思いで帰宅した。待合室で夜を明かすという父は、「生まれる時は電話するから」と言ってくれてたが、翌朝になっても電話はかかってこなかった。
和子は中学校、由恵は小学校へ登校したが、授業に身が入るはずもない。一日中上の空である。終業のチャイムが鳴りだした途端、和子は飛び出すように教室を出た。小雨が降るのも気にせず、家までの道を急いだ。息を切らしながら家に着くと、既に帰ってきていた由恵が祖母と出迎えてくれた。いつもより早い帰宅にアンコがはち切れんばかりに尻尾を振る。
「弟だって!さっき産まれたって。間に合わなかった!」
由恵は悔しそうだが、それにもまして嬉しそうだ。
「お父さんが、姉ちゃんが帰ってきたら、みんなで病院においでって!」
祖母も出掛ける準備をしている。アンコを残し、和子は制服のまま病院に向かった。
四人部屋のベッドで母はぐったりとしていたが、三人を見るとにっこり笑った。父がベッド脇の丸椅子に座って付き添っている。母が起き上がろうとすると、父が母を手伝って、座りやすいように背中にクッションを挟んだ。
「お疲れ様でした。男の子だってねぇ、ありがとう。身体は大丈夫ね?」
祖母が涙ぐみながら頭を下げたので、「お母さん、お疲れ様!」と和子と由恵もぴょこんと頭を下げた。
「お義母さん、こちらこそ色々ありがとうございます。やっぱかずちゃんと由恵ちゃんの時とは違うごたるです……私ももう四十近かけん……」
力なく笑う母に、四十五歳と四十一歳の姉妹は内心苦笑いするのだった。化粧っ気のない母の顔は、いつもよりなぜか美しく見えた。
「さあ、赤ちゃんば見てきなっせ。あなた、連れて行ってやって」
父がガラス張りの新生児室に案内してくれた。白いベビーベッドがいくつも並べられていて、今は五人の赤ちゃんがそこに収まっていた。
「真ん中の赤ちゃんたい」
父が指差して教えてくれた。文字通り赤い肌をした小さな赤ん坊は案外しっかり髪の毛が生えていて、産毛も濃い。口をパクパクさせたり、手足を動かしたりしている。
「結構活発に動くんだね」
ガラスにおでこがくっつきそうなほど近づいた由恵が呟いた。祖母もガラスに張り付かんばかりにして弟を見ている。
「由恵もそうだったよ」
そう和子が言うと、みんながわっと笑った。
「誰に似てるかな?」
赤ん坊を見つめながら、賑やかに話をする。弟は手をぱたぱたと動かしていたが、口に当たった指をしゃぶり出すと、そのまま目を瞑りうとうとし始めた。
父も、祖母も、由恵もみんな幸せそうで、和子は何か喋ったら、涙が零れてしまいそうな気がした。
お父さんとお母さんの息子。
ばあばの三人目の孫。
私達の弟。
私達の一回目の人生には存在しなかった、未来にはいなかった子。
昨日までいなかったのに、今日はここにいて、家族を幸せにしてくれる子。
もちろん由恵が生まれた時最高に嬉しかったけど、あの時とはまた少し違う。お腹の中が温かくなるようなじんわりした幸せを、和子は噛み締めていた。
いつも読んでいただいてありがとうございます!
一回目の人生にはいなかった弟が爆誕しました。
和子と由恵にとっても、これからどんな弟になっていくのか未知数です。
弟の登場によって木本家がどう変わっていくのか、一緒に見届けてもらえると嬉しいです。
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