第十話 ミッション・コンプリート
『プロジェクト・A』が開始した。密やかに、静かに、慎重に。
ある金曜の夜、お風呂入って寝る準備を整えた由恵が言った。
「由恵、今日は、ばあばとお姉ちゃんと寝たい!」
祖母と由恵が寝る祖母の部屋は狭い。四畳半の和室にささやかな板張り部分が付属しているので、実質五畳くらいの広さだろうか。板張り部分には祖母のミシンや裁縫道具が置いてあり、畳に二組の布団を敷くと、部屋が一杯になってしまう。
「でもばあばのお部屋に由恵ちゃんのお布団は入らんよ……」
母が困惑しているが、祖母は存外嬉しそうである。
「いいよ、いいよ、由恵ちゃん、ばあばのお布団に一緒に寝ようかね」
かくして、二階の寝室から枕を持参した由恵は、祖母と和子の間に収まった。
「寝にくい……」
翌朝由恵の目の下には薄っすらとクマができていた。三人のうち二人は子供とは言え、和子はすでに中学生、体格はほぼ大人と変わらない。この三人が四畳半で寝るのはかなり無理があった。由恵は布団と布団の狭間で寝返りを繰り返していた。
「大丈夫?」
和子が心配するが、由恵は強かった。
「ほんの週一だ!若いし、多少の睡眠不足は問題ない!」
かくして、由恵は毎週金曜日、祖母と和子と寝るようになった。寝方を工夫し、布団の狭間でも快適に寝る術も身に付けていった。
そろそろ第二段階に進む頃だ。
朝晩の冷えが辛くなってきた十一月の半ばの夕飯時、由恵は満を持して切り出した。
「一緒のクラスの智恵子ちゃんの家にね、赤ちゃんが生まれたんだって。妹だって!」
「へえ、それはおめでたかね」
「よかったなあ」
母がお櫃からご飯をよそいながら、応じる。父も新聞を畳んで由恵に笑いかけた。和子は黙って食卓に並ぶおかずを見ていた。
「智恵子ちゃん、羨ましいなあ。由恵も弟か妹が欲しい!!」
この上もなく無邪気に由恵がそう言った瞬間、食卓の空気は一瞬フリーズした。
「……でもねえ、弟や妹がいたら、うるさくて大変かもしれんよ?」
ご飯をよそうのを再開した母が言うと、父はガサガサとまた新聞を開き、食卓に沈黙が訪れた。
「あら、よかじゃなかね」
気まずい沈黙を破ったのは祖母だった。
***
「ばあば、あの時ナイスアシストだったな」
和子が布団に転がりながら言った。
今日はあの夕食後の最初の金曜日。由恵が祖母と和子と寝る日である。祖母が近所の銭湯に行っているので、祖母が戻るまでの間、二人がゆっくりと話せるのである。
「それな」
由恵が続ける。
「あの二人、頑張ってくれてるだろうか……」
「やめてくれよ……想像したく、ない」
和子は枕に顔を埋めた。
***
プロジェクト開始から一年弱が経ち、1994(平成6)年秋になっていた。和子は中学二年生、由恵は小学四年生である。6月にはついに1ドル=100円を切る円高となっていた。
「ドル買いてえ……」
和子が布団で呟く。お年玉とお小遣いをコツコツと入金している定期預金も十万円程。たとえ、未来の記憶があろうと、資金力も手段も全く足りないのであった。
毎週金曜日に祖母、和子、由恵の三人で寝ることは恒例のイベントになっていた。祖母が銭湯に行っている間に二人でゆっくり喋るのもまた恒例だった。
うまくいっていないのは投資だけではない。『プロジェクト・A』も同様であった。開始してからもうじき一年になろうとしているが、今のところ進捗はゼロである。
「もう駄目なのかな……」
由恵が弱気に呟く。
「まあ、作ろうと思ってすぐできるものでもないというし……」
和子はそう言って由恵を慰めたが、心中は複雑だ。できて欲しい気もするし、できていなくてホッとしている自分もいる……
「ムードが足りないのだろうか。ああ、寝室にアロマキャンドルでも灯しに行きたい……」
布団に腹ばいになっていた由恵はゴロンと仰向けになり、天を仰いだ。
***
1994(平成6)年が終わり、1995(平成7)年が始まった。
元旦は家でのんびり過ごすが木本家の習慣だった。いつもより少し遅く起きて仏壇に手を合わせた後、和子と由恵も父が準備したお屠蘇に一口だけ口を付けた。熊本特有の赤酒に様々な漢方を調合した屠蘇散を入れたお屠蘇は薬っぽい独特な味がして、和子も由恵も好きではなかった。顔を背けて「ウエー!」と顔を見合わせるのを父が愉快そうに眺めている。
元旦は来客がないし、お店も開いていないからつまらない。でも、一番の楽しみがある。
お年玉だ。これでまた貯金が増えると和子と由恵はほくそ笑むが、定期預金の金利は随分下がってしまい、今では一パーセント程になっていた。これでは2026年とほぼ変わらないではないか……定期預金の利息だけで金融資産を築くのはほぼ絶望的な状況だった。
床の間には小さな鏡餅が飾られている。年末に母の実家で、親戚総出で餅つきをして作ったものだった。お重に詰められたおせちと、いつもより上等なお椀に注がれたお雑煮を食べながら、和子と由恵はお年玉を今か今かと待ち侘びていた。
正月の食事が終わると、今日は和子が食器を洗い、由恵が座卓を布巾で拭いた。お年玉がもらえると思えば、ちょっとした家事くらい、朝飯前である。
居間に戻ると、両親が固い表情で座っていた。祖母はニコニコと微笑んでいる。
「和子、由恵、ここに座りなさい」
和子と由恵が両親の前に座っても、父も母も何も言わなかった。二人ともなんだかもじもじしている。様子がおかしい、正月から怒られるのか?和子が膝の上の手をぎゅっと握った時、父が遂に口を開いた。
「実はお母さんのお腹に赤ちゃんがおる……二人の、弟か妹たい……」
「かずちゃん、由恵ちゃん、お姉ちゃんになってくれるね?」
母が尋ねる。きゅっと眉根を寄せた母は少しばかり不安そうに見えた。
「もちろん!!」
和子が口を開く前に由恵が叫んだ。そして和子が膝の上で握った拳を右手で包み込むと、和子の顔を覗き込んで、
「姉ちゃん!」
と白い歯を見せて笑ったのだった。
両親の間に漂っていた緊張感が「ふっ」と解けた音がするような気がした。両親も、祖母も、由恵も笑っている。それを見て、和子の肩もすとんと落ちた。力が抜けた瞬間に、こんなに力が入っていたことにようやく気づく。
知らない未来がやってくる。
『プロジェクト・A』、一先ずここにミッション・コンプリートである。




