第8話「剣の英雄」
英雄というものは、物語の中にいるものだと思っていた。
幼いころのミカゲにとって、それは古い本の中で剣を振るう誰かだった。
戦場の最前線で、人々の盾となって立った英雄。
泣いている子供に、もう大丈夫だと笑った英雄。
剣の英雄。
それは、ミカゲにとってずっと、遠い昔の誰かだった。
きらきらしていて、強くて、正しくて。
自分とは違う世界にいる、大きな人だった。
だから、目の前にいる青年がその名を継いでいると言われても、最初はあまり実感がなかった。
「……お前が、ミカゲか」
青年は、広場の端に立っていた。
背は高い。
赤みのある茶髪を後ろで雑に束ねていて、腰には剣がある。
鎧というよりは動きやすさを重視した服装で、物語の挿絵にあったような荘厳さはなかった。
ただ、そこにいるだけで、空気が少し変わる。
まっすぐで、熱い。
けれど、その熱の奥に、張り詰めたものがあった。
この人が。
今の、剣の英雄。
グラン。
「はい」
ミカゲは頷いた。
祖母に整えてもらった服の裾を、知らず知らずのうちに握っていた。
緊張していたわけではない。
少なくとも、そう思いたかった。
グランはミカゲを上から下まで見た。
子供を見る目だった。
それが、少しだけ腹立たしかった。
「剣を習いたいって聞いた」
「はい」
「誰から?」
「おばあちゃんから、話を通してもらいました」
「違う。誰に、習いたいんだ」
問いの意味が、一瞬わからなかった。
ミカゲが眉をひそめると、グランは少し困ったように頭をかいた。
「俺は、剣の英雄だ。だから剣を教えることはできる。でも、お前が昔読んでた本の英雄とは違う」
「……知っています」
「ならいい」
グランは、少しだけ目を細めた。
「物語の英雄に憧れて剣を持つのと、人を殺すために剣を持つのは違う」
その言葉で、ミカゲの指がぴくりと動いた。
胸の奥が、冷たくなる。
祖母には言っていない。
街の人にも言っていない。
けれど、誰もが知っていた。
あの日、ミカゲが何を失ったのか。
何を見たのか。
誰を憎んでいるのか。
「私は」
ミカゲは口を開いた。
声は、思ったよりも低かった。
「守るために、剣を覚えたいんです」
嘘ではなかった。
もう失わないために。
もう逃げないために。
もう隠れて泣くだけにならないために。
守るために、強くなりたい。
それは本当だった。
けれど、その先にあるものもまた、本当だった。
あの水色の髪の少女を見つけたら。
同じだけの絶望を与えて。
殺す。
グランは、しばらく何も言わなかった。
広場には、木剣を打ち合う音が遠くから聞こえていた。
風が吹く。
ミカゲの髪が頬にかかった。
「……やってみろ」
グランは、一本の木剣を投げた。
ミカゲはそれを両手で受け止める。
思ったよりも重かった。
「構えろ」
言われた通り、ミカゲは構えた。
子供のころ、本を読みながら何度も真似した構え。
けれど、実際に剣を持つと、それはひどく頼りないものだった。
腕が震える。
足の位置がわからない。
刃もない木剣なのに、持っているだけで手のひらが痛い。
グランは正面に立つと、片手で木剣を構えた。
「打ってこい」
「……はい」
ミカゲは踏み込んだ。
力いっぱい振った。
けれど、グランは動かなかった。
木剣が軽く弾かれる。
たったそれだけで、ミカゲの体は崩れた。
「っ」
足がもつれる。
転びそうになる。
けれど、なんとか踏みとどまった。
「もう一回」
グランが言った。
ミカゲは唇を噛んで、また構えた。
振る。
弾かれる。
振る。
流される。
振る。
止められる。
何度も、何度も。
日が傾くころには、ミカゲの腕は上がらなくなっていた。
手のひらは赤くなり、足は震え、息は乱れていた。
それでも、倒れなかった。
「まだ、やれます」
ミカゲが言うと、グランは木剣を下ろした。
「今日は終わりだ」
「まだできます」
「終わりだ」
強い声だった。
ミカゲは反射的に黙った。
グランは近づいてきて、ミカゲの手から木剣を取った。
「剣は根性だけで振るもんじゃない。腕を壊したら明日から振れなくなる」
「……明日も、教えてくれるんですか」
「……お前が来るならな」
ミカゲは顔を上げた。
グランは、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「ただし、条件がある」
「なんですか」
「俺が教えるのは、基礎だけだ」
「基礎?」
「立ち方。握り方。受け方。逃げ方。死なないための動き」
ミカゲは眉を寄せた。
「斬り方は?」
「まだ教えない」
「どうしてですか」
「今のお前に必要なのは、殺す力じゃないからだ」
胸の奥に、火がついた。
反論しそうになった。
けれど、グランの目を見て、言葉が詰まった。
彼はミカゲを子供扱いしている。
でも、見下してはいない。
ただ、止めようとしている。
それがわかった。
だから余計に、苦しかった。
「私は、弱いままじゃ嫌なんです」
「知ってる」
「もう、逃げるのは嫌なんです」
「それも知ってる」
「だったら」
「だから基礎だ」
グランは、ミカゲの言葉を遮った。
「逃げるなって意味じゃない。逃げてもいい。隠れてもいい。誰かを呼んでもいい。剣を抜かないで済むなら、それが一番いい」
ミカゲは何も言えなかった。
グランは木剣を肩に担ぎ、空を見上げる。
「でも、どうしても逃げられない時がある。誰かを守るために、立たなきゃいけない時がある。そういう時に、死なないための剣を教える」
「……死なないための剣」
「ああ」
グランは少しだけ笑った。
けれど、その笑みは明るいだけではなかった。
「英雄の剣ってのは、本当はそういうもんだと思ってる」
ミカゲは、幼いころ読んでいた本を思い出した。
剣の英雄はいつも敵を倒していた。
強く、かっこよく、誰にも負けずに。
でも、その絵の後ろにはいつも人がいた。
守られた人たちがいた。
泣きながら笑う誰かがいた。
ミカゲは、木剣を握っていた手を見つめた。
赤くなった手のひら。
痛み。
重さ。
物語の中にはなかったもの。
「明日も来ます」
ミカゲは言った。
「明後日も、その次も」
「そうか」
「私は、強くなります」
グランは、ミカゲの顔を見た。
ミカゲも見返した。
その目の奥にあるものを、隠すつもりはなかった。
守りたい。
失いたくない。
逃げたくない。
そして、許せない。
全部、自分の中にある。
そのどれかだけを綺麗に選ぶことなんて、ミカゲにはできなかった。
グランは、何かを言いかけて、やめた。
代わりに、短く息を吐く。
「なら、まずは飯をちゃんと食え。寝ろ。体を作れ」
「……はい」
「返事だけはいいな」
「本気ですから」
「そこが危なっかしいんだよ」
グランは苦笑した。
その時、広場の向こうから声がした。
「グラーン! そろそろ会議だよ。ライトさん待たせたらまた小言だよー」
間延びした声。
白い外套を羽織った女性が手を振っていた。
どこか眠たそうな顔をしているのに、周囲の空気だけは不思議とやわらかい。
彼女のそばでは、小さな子供が転んだ膝を見せていた。
女性が指先をかざすと、淡い光が傷を包む。
子供は泣き止み、驚いたように膝を見た。
「癒しの英雄、エイルだ」
グランが言った。
ミカゲは、その光景をじっと見た。
傷が、消えている。
泣いていた子が、笑っている。
エイルはその子の頭を撫でて、だらりとした調子で言った。
「はいはい、次からは足元見て走ろうねぇ。エイルさんとの約束だよーん」
英雄。
剣だけではない。
人を癒す英雄。
雨を降らせる英雄。
風を読む英雄。
盾となる英雄。
そして、長く行方の知れない死の英雄。
この世界には、六人の英雄がいる。
昔からそう教えられてきた。
けれど、目の前にいる彼らは、物語の中の遠い存在ではなかった。
笑う。
話す。
怒る。
歩く。
この街で、同じ空の下にいる。
それが、不思議だった。
「ほら、行くぞ」
グランが歩き出す。
「明日、同じ時間に来い」
「はい」
「あと、手は冷やせよ。痛むならエイルに見せろ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないやつほどそう言う」
グランは軽く手を振って、エイルの方へ向かった。
ミカゲはその背中を見送った。
昔、憧れた剣の英雄とは違う。
本の中の英雄ではない。
目の前のグランは、きっと欠点もある。
怒るし、悩むし、迷うのだろう。
それでも。
あの背中には、剣を握ってきた時間があった。
守るために立ってきた人の重さがあった。
ミカゲは、自分の手を見つめる。
まだ弱い手。
まだ何も守れなかった手。
でも、剣を握った手。
「……私は」
小さく呟く。
風に消えるほどの声だった。
「強くなる」
誰に聞かせるでもなく、ミカゲは言った。
守るために。
失わないために。
そして、いつか必ず。
あの水色の髪の少女に届くために。
夕焼けの中、ミカゲはもう一度だけ、見えない剣を握るように指を閉じた。




