第9話「再会」
初めて剣を握った日から、季節は何度か変わった。
ミカゲの手のひらは、もう木剣の重さに負けなくなっていた。
最初のころは、振るたびに手首が痛んだ。翌朝には腕が上がらず、祖母に呆れられながら湿布を貼られたこともある。
それでも、やめなかった。
雨の日も。
風の強い日も。
店の手伝いで疲れた日も。
ミカゲは広場へ行った。
グランは相変わらず、基礎ばかりを教えた。
足運び。
呼吸。
視線。
受け身。
転び方。
逃げ方。
剣を抜く前に、どこへ逃げるかを考えろ、と何度も言われた。
ミカゲはそれを聞くたびに、胸の中で小さく反発した。
逃げるために剣を持ったんじゃない。
そう思う。
けれど、グランの教えは確かだった。
剣を振るだけなら、子供でもできる。
でも、剣を握って立ち続けるには、体がいる。
立ち続けるには、息がいる。
息を続けるには、頭がいる。
ミカゲは少しずつ強くなった。
その実感はあった。
それでも、足りなかった。
夢に見る。
燃えるような悲鳴。
砕ける街。
呼んでも返ってこない父と母。
水色の髪。
あの日からずっと、ミカゲの中にあるものは消えなかった。
むしろ、剣を握るたびに形を得ていった。
復讐という言葉を、祖母の前では口にしなくなった。
グランの前でも、エイルの前でも。
だが、消えたわけではない。
ただ、胸の奥に押し込めただけだった。
その日は、よく晴れていた。
祖母の店は昼の客が引いたあとで、少しだけ落ち着いていた。
ミカゲは店の裏で薪を運んでいた。
腕力をつけるため、とグランに言われてから、祖母の手伝いをする量も増やした。
「ミカゲ、無理しなくていいよ」
厨房から祖母の声がする。
「大丈夫。これくらい平気」
「大丈夫って言う子ほど、大丈夫じゃないんだよ」
「それ、グランにも言われた」
「なら二人分聞きなさい」
祖母の声は、少し笑っていた。
ミカゲも、ほんの少しだけ笑った。
そのときだった。
店先の方から、ざわめきが聞こえた。
怒号ではない。
悲鳴でもない。
ただ、誰かが急に息を呑んだような、小さな乱れ。
ミカゲは薪を抱えたまま、顔を上げた。
「……?」
表へ回る。
通りに、何人かの人が立ち止まっていた。
買い物帰りの女性。
荷車を引く男。
店の常連の老人。
誰もが、道の向こうを見ていた。
ミカゲも、その視線を追った。
少女がいた。
水色の髪。
肩より少し長い髪が、風に揺れている。
年は、ミカゲと同じくらいに見えた。
細い体。
淡い色の服。
その手には、小さな包みが握られている。
少女は、通りの真ん中で立ち止まっていた。
周りの視線に気づいているのか、いないのか。
きょとんとした顔で、店や人々を眺めている。
その顔を見た瞬間。
ミカゲの腕から薪が落ちた。
乾いた音を立てて、地面に転がる。
呼吸が止まった。
世界の音が遠のいた。
水色の髪。
あの日、壊れた街の中で見た色。
泣き叫ぶ人々の間を、ひとり歩いていた少女。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
父と母を奪ったもの。
ミカゲの世界を壊したもの。
あいつだ。
「……お前」
声が出た。
かすれていた。
少女がこちらを見る。
不思議そうに首を傾げた。
「え?」
その声は、普通だった。
怯えてもいない。
怒ってもいない。
何も知らない人間の声だった。
それが、ミカゲの中の何かを切った。
「お前……!」
ミカゲは駆け出した。
祖母が後ろで何かを叫んだ気がした。
でも、聞こえなかった。
通りの人々が驚いて道を空ける。
ミカゲは少女の胸元を掴んだ。
「お前だ……!」
少女の目が見開かれる。
「な、何するの!」
「お前が……お前が、私の街を壊した!」
「は?」
少女は本気で意味がわからないという顔をした。
その顔が、さらにミカゲを逆上させた。
「とぼけるな!」
「とぼけてない! 急に何なの!」
「忘れたのか!? あの日、ここで何をしたか!」
「知らない!」
「知らないわけないだろ!」
「知らないって言ってるでしょ!」
少女はミカゲの手を振り払おうとした。
力は強くなかった。
だが、その反抗がミカゲには許せなかった。
「私の父さんと母さんを返せ!」
周囲が静まり返った。
その言葉で、誰もが息を呑んだ。
少女の顔にも、わずかな困惑が濃くなる。
「……父さんと、母さん?」
「お前が殺した!」
「殺してない!」
「殺したんだよ!」
「知らない! そんなの知らない! 私、人なんて殺してない!」
「嘘をつくな!」
「嘘じゃない!」
少女の声にも、怒りが混じり始めた。
当然だった。
何も知らないのなら。
突然知らない相手に掴みかかられ、人殺しだと叫ばれているのだから。
けれど、ミカゲにはその当然さが耐えられなかった。
そんな顔をするな。
そんな普通の子みたいに怒るな。
お前は普通じゃない。
お前は、私から全部奪った。
「忘れたからって……」
ミカゲの声が震える。
怒りと、涙と、吐き気のようなものが混ざっていた。
「忘れたからって、お前の罪が消えると思うな!」
少女の目が揺れた。
その言葉だけが、どこかに引っかかったように。
ほんの一瞬。
少女の表情が固まった。
「……罪?」
小さく、呟く。
「私の、罪……?」
少女の指先が震えた。
ミカゲはそれを見逃さなかった。
「思い出したのか」
「違う」
「なら何だ」
「違う、私は……」
少女は自分の胸元を押さえた。
息が乱れている。
怯えではない。
痛みに近い。
何かが、内側から割れていくような顔。
「私は、ただ……」
少女の瞳が揺れる。
焦点が合わなくなる。
周囲の誰かが言った。
「まさか、あの子……」
「あの時の……?」
「水色の髪……」
声が増えていく。
ざわめきが、少しずつ敵意に変わっていく。
少女は周囲を見た。
向けられる目。
疑い。
恐れ。
憎悪。
「何……?」
少女が一歩下がる。
「何なの、みんな……」
ミカゲは胸元を掴んだまま、言った。
「逃げるな」
「逃げてない!」
「なら答えろ!」
「だから知らないって言ってる!」
「お前が私の街を壊したんだ!」
「知らない!」
「お前が私の両親を殺したんだ!」
「知らない!」
「お前が!」
「知らないって言ってるでしょ!」
少女が叫んだ。
その瞬間、空気が歪んだ。
ぞわり、と肌が粟立つ。
通りにいた人々が一斉に後ずさった。
ミカゲも、無意識に手を離していた。
少女の周囲に、冷たい気配が広がる。
魔力。
けれど、普通の魔法とは違う。
見えない何かが、そこにある。
命そのものを撫でるような、ひどく不快な気配。
少女自身も、それに気づいていないようだった。
ただ胸を押さえ、荒い息をしている。
「なに……これ……」
少女が呟いた。
「私、何を……」
その目が、ミカゲを見る。
怒りでも、憎しみでもない。
困惑。
混乱。
そして、奥底にひび割れたような恐怖。
「あなた、誰……?」
ミカゲは歯を食いしばった。
「ミカゲだ」
「ミカゲ……?」
少女がその名を繰り返した。
その瞬間、彼女の表情がまた揺れた。
何かを思い出しかけるように。
けれど、届かない。
そのことが、ミカゲにはわかった。
だからこそ、許せなかった。
「私は、お前を忘れなかった」
ミカゲは腰の木剣に手を伸ばした。
訓練用の木剣。
本物の剣ではない。
それでも、手は自然にそこへ伸びた。
「ずっと探してた」
「……なんで」
「お前を討つために」
少女の顔が、強張った。
「討つ……?」
「そうだ」
「私が何をしたって言うの」
ミカゲの中で、何かが真っ赤に燃えた。
まただ。
また、その言葉。
何も知らない顔で。
何もなかったみたいに。
「お前がそれを言うな!」
ミカゲは踏み込んだ。
木剣を抜き、少女に向かって振り下ろす。
通りの誰かが悲鳴を上げた。
少女は反射的に腕を上げた。
木剣が、当たる。
はずだった。
その直前、黒い影のようなものが少女の腕から滲んだ。
木剣が弾かれる。
「っ!」
ミカゲの体が後ろへ吹き飛ばされた。
背中から地面に落ちる。
息が詰まった。
通りが悲鳴に包まれる。
「ミカゲ!」
祖母の声。
けれど、ミカゲはすぐに起き上がった。
痛い。
だが、動ける。
少女は自分の腕を見つめていた。
黒いものはもう消えている。
けれど、彼女自身が一番驚いていた。
「今の……何……?」
ミカゲは立ち上がる。
「やっぱり……」
喉の奥から、声が漏れた。
「やっぱり、お前だ」
「違う」
少女は首を振った。
「違う、私は知らない。こんなの知らない」
「その力で、みんなを殺したんだろ」
「知らない!」
「またそうやって!」
「知らないって言ってる!」
少女の声が割れた。
その瞬間、足元の石畳に亀裂が走った。
周囲の人々が逃げ出す。
店の扉が乱暴に閉まる音がする。
誰かが警備を呼べと叫んだ。
ミカゲは木剣を握り直した。
心臓がうるさい。
怖い。
あの日の恐怖が、体の奥から蘇ってくる。
逃げろ。
隠れろ。
生きるために、逃げろ。
幼い自分の声がする。
でも、ミカゲは前へ出た。
もう逃げない。
もう隠れない。
何年も、そのために剣を握ってきた。
「来るな……」
少女が言った。
その声は、今度こそ怯えていた。
「来ないで」
「逃がさない」
「来ないでって言ってる!」
黒い力が弾けた。
衝撃が通りを走る。
屋台が砕け、窓ガラスが割れた。
ミカゲは木剣で受けようとして、受けきれずに地面を転がった。
腕が痺れる。
木剣にひびが入っていた。
少女は呆然と立っていた。
自分がやったことを理解できていない顔だった。
それでも、力は彼女の周囲で膨らんでいく。
あの日と同じ。
街を壊した、あの力。
「ミカゲ!」
祖母が駆け寄ろうとする。
「来ないで!」
ミカゲは叫んだ。
祖母が足を止める。
その顔が、泣きそうに歪んでいた。
ミカゲは立ち上がった。
膝が震える。
怖い。
怖いに決まっている。
でも、それ以上に、許せなかった。
「お前は……」
木剣を構える。
グランに教わった通り。
足を置く。
息を吸う。
相手を見る。
死なないために。
立ち続けるために。
「お前だけは、絶対に逃がさない」
少女はミカゲを見た。
その瞳は、揺れていた。
知らないと言いながら。
何もしていないと言いながら。
それでも何かが、彼女の中で目を覚ましかけている。
「私は……」
少女が呟く。
「私は、誰……?」
その問いに、ミカゲは答えなかった。
答えなど、必要なかった。
少女が何者であろうと。
何を忘れていようと。
何を覚えていなかろうと。
ミカゲにとって、彼女はただ一人だった。
あの日からずっと、探し続けてきた相手。
「お前は」
ミカゲは低く言った。
「私の全部を壊したやつだ」
そして、二人の間で、黒い力が再び膨れ上がった。




