第10話「未来の剣技」
黒い力が、通りを飲み込んだ。
それは炎のように燃えているわけではなかった。
水のように流れているわけでもない。
ただ、そこに触れたものから、命を奪う。
石畳が砕ける。
逃げ遅れた誰かの悲鳴が、途中で途切れる。
ミカゲは木剣を握りしめたまま、息を止めた。
あの日と同じだ。
あの日、父と母を奪ったもの。
あの日、自分を逃げることしかできない子供にしたもの。
それが、今、目の前にいる。
水色の髪の少女は、震えていた。
自分の周りで暴れる力を、自分でも止められないように。
目は見開かれている。
唇は青ざめている。
その顔だけを見れば、ただの怯えた少女だった。
だから、腹が立った。
どうしてそんな顔をする。
怖いのはこっちだ。
奪われたのはこっちだ。
泣きたいのは、私だ。
「止めろ!」
警備の男が叫びながら槍を構えた。
だが、少女の力が軽く揺れただけで、槍の先が黒く腐るように崩れた。
「う、うわあっ!」
男は尻もちをつき、慌てて後ずさる。
周囲の人々が逃げていく。
悲鳴と足音が遠ざかる。
祖母が店の前で、ミカゲの名前を呼んでいる。
それでもミカゲは、振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる気がした。
足が止まれば、また逃げてしまう気がした。
もう嫌だった。
隠れて震えて、何もできないまま、大事なものを失うのは。
「お前……!」
ミカゲは木剣を構えた。
ひびの入った木剣。
子供の訓練用。
相手は街を壊した化け物。
勝てるわけがない。
そんなことは、体が一番わかっていた。
手が震えている。
喉が乾く。
膝が笑う。
それでも前へ出た。
「お前だけは……!」
「来ないで!」
少女が叫んだ。
黒い力が弾ける。
ミカゲは横へ飛んだ。
グランに何度も叩き込まれた足運び。
相手の真正面に立つな。
逃げ道を残せ。
受けるな。
躱せ。
頭ではなく、体が動いた。
黒い力が石畳を抉り、細かな破片が頬を切る。
「っ……!」
熱い痛みが走る。
だが、止まらない。
ミカゲは踏み込んだ。
木剣を横に振る。
少女は避けようともしなかった。
ただ、怯えた顔でミカゲを見ている。
木剣が少女の肩に届く。
その直前。
黒い力が少女の周囲に壁のように集まった。
木剣が弾かれる。
腕に嫌な衝撃が走った。
「ぐっ!」
ミカゲの体勢が崩れる。
そこへ、黒い力が槍のように伸びた。
速い。
避けられない。
ミカゲは咄嗟に木剣を立てた。
衝撃。
木剣が半ばから砕けた。
体が後ろへ飛ばされ、背中から地面に叩きつけられる。
肺から息が抜けた。
「ミカゲ!」
祖母の声がする。
動け。
動け。
頭の中で叫ぶ。
でも、体がすぐには言うことを聞かなかった。
視界が揺れる。
空が見える。
青い空。
その端に、少女の影が映った。
水色の髪。
黒い力。
あの日と同じ。
ミカゲは歯を食いしばった。
地面に手をつき、無理やり起き上がる。
手のひらが擦りむけた。
痛い。
でも、まだ立てる。
立てるなら、終わっていない。
「なんで……」
少女が小さく呟いた。
「なんで、そんな目で見るの……」
ミカゲは答えなかった。
答えたら、叫んでしまう。
叫んだら、泣いてしまう。
泣いたら、剣を握れなくなる。
折れた木剣を握り直す。
もう剣と呼べるものではなかった。
ただの短い棒だ。
それでも、ミカゲは構えた。
少女が一歩下がる。
「来ないで……」
「逃がさない」
「来ないでよ!」
少女の声が裏返った。
その瞬間、黒い力が大きく膨れた。
通りの空気が重く沈む。
逃げていた人々の足音さえ、遠くなる。
ミカゲの肌が粟立った。
これは、まずい。
本能がそう告げた。
今までの比ではない。
少女の周囲に集まる力が、形を持ち始める。
刃。
黒い刃だった。
大きく、歪で、あまりにも冷たい。
それが少女の背後から伸び、ミカゲへ向けられる。
少女自身は、泣きそうな顔をしていた。
自分が何をしようとしているのか、理解していないようだった。
「いや……」
少女が震える声で言う。
「いやだ……」
それでも刃は止まらない。
黒い刃が、ミカゲの胸を狙って放たれた。
速かった。
見えた時には、もう目の前だった。
躱せない。
受けられない。
木剣では止まらない。
死ぬ。
そう思った。
その瞬間。
ミカゲの視界が、淡い緑に染まった。
体が、勝手に動いた。
足を半歩引く。
肩を落とす。
折れた木剣を、刃にぶつけるのではなく、添える。
ぶつけない。
受けない。
力の向きを見る。
流れを見る。
黒い刃の勢いを殺さず、そのまま滑らせる。
剣先を円を描くように回し、体の外へ逃がす。
通り過ぎた黒い刃が、ミカゲの脇を掠めた。
背後の石壁が音を立てて砕ける。
遅れて、風が吹いた。
ミカゲは立っていた。
胸は貫かれていない。
腕も残っている。
息もできる。
何が起きたのか、自分でもわからなかった。
ただ、体の奥に知らない感覚が残っている。
まるで、誰かが一瞬だけ自分の体を使ったような。
そして、その誰かは、自分よりずっと深く剣を知っていた。
「……流転?」
低い声がした。
ミカゲが振り向く。
通りの端に、グランが立っていた。
いつ来たのかはわからない。
息は少し乱れている。
街の警備か、近くにいたのか。
だが、その目はミカゲではなく、ミカゲの手元を見ていた。
いつもの軽い笑みはない。
ただ、信じられないものを見た顔だった。
「おい、ミカゲ」
グランがゆっくりと言う。
「今の、誰に教わった」
「……」
ミカゲは、自分の手を見る。
折れた木剣。
震える指。
何かをした覚えはない。
死ぬと思った。
その次には、立っていた。
ただひどくどこか冷めている。
それだけだった。
「流転だ」
グランの声が硬くなる。
「俺の型だ。しかも、まだお前には見せてもいない」
ミカゲは答えない。
少女も、周囲も、ほんの一瞬止まっている。
その中で、ミカゲの口だけが、勝手に動いた。
「知らないな……」
声が、少し冷たく、低かった。
グランの目が細くなる。
「……ミカゲ?」
その声で、ミカゲははっとした。
視界の緑が消える。
体の芯にあった妙な感覚も、糸が切れるように遠ざかった。
「え……?」
ミカゲは瞬きをする。
今、自分は何と言った。
知らないな?
そんな言い方をした?
自分が?
「私……今、何を……」
言い終わる前に、少女が動いた。
正確には、少女の力が暴れた。
黒い刃がいくつも生まれ、周囲へ無差別に飛ぶ。
「伏せろ!」
グランが叫ぶ。
ミカゲは咄嗟に地面へ伏せた。
黒い刃が頭上を通り過ぎる。
店の看板が真っ二つに割れた。
グランはすでに走っていた。
腰の剣を抜き、黒い力を斬る。
剣と力がぶつかるたび、火花のような暗い光が散った。
「離れろ、ミカゲ!」
「でも!」
「今のお前じゃ無理だ!」
その言葉に、ミカゲは唇を噛んだ。
わかっている。
わかってしまうのが悔しい。
さっき生き残ったのは、自分の力ではない。
自分ではない何かが、勝手にやっただけだ。
もう一度できる気がしない。
少女は両手で頭を押さえていた。
「やめて……やめて、やめて……!」
黒い力が広がる。
逃げようとする人々に向かって、無秩序に走る。
グランが舌打ちした。
「まずいな……!」
その時、遠くから別の声が響いた。
「こっちだ! 避難を急げ!」
それは盾の英雄である女性、ライトの声だった。
盾を持った長身の女性が、人々を誘導しながら通りへ入ってくる。
その後ろには、警備たちもいる。
「グラン!」
「遅ぇぞ!」
「文句はあとだ。状況は?」
「あの水色の髪の子が暴走してる。たぶん例の件とつながってる」
ライトの表情が変わった。
冷静な目が、少女を捉える。
「……そうか」
その一言だけで、空気が変わった。
遊びではない。
事故でもない。
討つべきものとして、認識された。
少女も、それを感じたのかもしれない。
びくりと肩を震わせた。
そして、逃げ出した。
「あっ!」
ミカゲが叫ぶ。
少女は黒い力で地面を弾くようにして、通りの奥へ飛ぶ。
民家の屋根を砕き、塀を乗り越え、めちゃくちゃな軌道で走っていく。
追いかけようとしたミカゲの腕を、祖母が掴んだ。
「駄目!」
「離して!」
「駄目だよ!」
「離してよ!」
ミカゲは暴れた。
だが、祖母は離さなかった。
細い腕なのに、驚くほど強かった。
「今行ったら死ぬ!」
「逃げられる!」
「生きてるから追えるんだよ!」
その言葉に、ミカゲの体が止まった。
祖母はミカゲを抱きしめる。
震えていた。
祖母も怖かったのだ。
ミカゲはそれを、腕の震えで知った。
グランが少女の逃げた方向を睨む。
ライトも盾を構えたまま、周囲の安全を確認している。
人々の悲鳴。
壊れた店。
砕けた石畳。
血の匂い。
また、街が傷ついた。
また、あいつが壊した。
ミカゲは祖母の腕の中で、歯を食いしばった。
悔しい。
怖い。
苦しい。
けれど、それ以上に、ひとつの感覚が残っていた。
淡い緑の視界。
知らないはずの型。
流転。
グランが、まだ教えていないと言った剣技。
なのに、自分はそれを使った。
使ったはずなのに、覚えていない。
何が起きたのか、わからない。
わからないことばかりだった。
でも、ひとつだけはっきりしている。
あの少女は、生きている。
逃げた。
なら、追える。
ミカゲは少女が消えた方を見つめた。
胸の奥で、復讐がまた熱を持つ。
あの日より、もっと強く。
もっと深く。
もう二度と、逃がさない。
たとえ自分の中に、知らない何かがあったとしても。
たとえその力が、どこから来たものだとしても。
ミカゲは、剣を握り直した。
折れた木剣の柄だけが、掌に残っていた。




