第11話「あの日と一緒」
逃げていく。
水色の髪の少女は、人々の悲鳴を背にして、石畳の道を走っていた。
その足取りは、追手を撒こうとする者のそれではなかった。
どこへ向かえばいいのかも分からない。ただ、ここにいてはいけない。それだけを本能で理解しているような走り方だった。
「いたぞ!」
誰かが叫んだ。
その声に、少女の肩が跳ねる。
彼女は振り返らなかった。けれど、その声だけで十分だった。
敵意。
恐怖。
憎悪。
そのすべてが、背中に突き刺さってくる。
「あの子だ!」
「さっきの子だろ!」
「近づくな! また何かするぞ!」
「衛兵を呼べ!」
声が増えていく。
少女は逃げた。
角を曲がり、積まれていた木箱にぶつかり、よろける。手をついた拍子に、木箱の角で掌が切れた。
血が滲んだ。
それを見て、少女は一瞬だけ動きを止めた。
「……なに、これ」
自分の手を見つめる。
そこにある赤が、ひどく遠いもののように見えた。
痛い。
痛いはずなのに、どこか実感がない。
何が起きているのか分からない。
どうして自分は追われているのか。
どうして、あの黒髪の少女はあんな目で自分を見たのか。
どうして、あの少女は言ったのか。
私の両親を返せ、と。
「知らない……」
少女は小さく呟いた。
「知らない……知らないよ……」
言葉にすればするほど、頭の奥が軋む。
何かが、割れかけている。
けれど、それが何かは分からない。
「待て!」
背後から男の声がした。
少女はまた走り出した。
走って、走って、通りの先へ出る。
そこには、逃げ惑う人々がいた。
先ほどの騒ぎを聞きつけたのだろう。家の扉を閉める者。子供を抱えて走る者。怯えた顔でこちらを見る者。
そのすべてが、少女を見ていた。
まるで、彼女一人だけが、この街に落ちた異物であるかのように。
「違う……」
少女は首を振った。
「私は、何も……」
何もしていない。
そう言いたかった。
けれど、喉の奥で言葉が詰まる。
本当に、何もしていないのか。
分からない。
思い出せない。
思い出せないということは、していないということなのか。
それとも。
「やめて……」
少女は耳を塞いだ。
「見ないで……」
だが、人々の声は止まらない。
「化け物……」
誰かが言った。
その一言で、少女の足が止まった。
化け物。
その言葉だけが、妙に深く沈んでいく。
胸の奥へ。
記憶の底へ。
何かが、そこにある。
ずっと見ないようにしていた何かが。
押し込めて、忘れて、なかったことにしようとしていた何かが。
「……違う」
少女の声が震えた。
「違う……私は……」
その時、石が飛んできた。
小さな石だった。
当たったのは肩だった。
大した痛みではない。
けれど、少女は息を呑んだ。
石を投げた少年は、すぐに母親らしき女に抱えられて逃げていった。少年の顔は怯えていた。憎しみよりも、恐怖が勝っていた。
それが、少女には耐えられなかった。
自分が怖がられている。
何も分からないのに。
何も思い出せないのに。
ただ、存在しているだけで。
「……やめて」
少女の足元に、黒い影のようなものが滲んだ。
それは血ではなかった。
土でも、泥でもない。
もっと冷たく、もっと重く、もっと生き物から遠いものだった。
通りの空気が変わる。
誰かが、それに気づいて息を呑んだ。
「離れろ!」
遠くからグランの声が響いた。
その声と同時に、ミカゲは走り出していた。
「ミカゲ!」
グランが呼び止める。
だが、足は止まらなかった。
止められるわけがなかった。
あの少女が、また何かをしようとしている。
それだけで、全身が熱くなった。
あの日と同じだった。
悲鳴。
逃げる人々。
壊れていく街。
水色の髪。
全部、同じだった。
「また……」
ミカゲは歯を食いしばる。
「また、壊すのか……!」
少女が顔を上げた。
泣きそうな顔だった。
けれどミカゲには、それが許せなかった。
泣きたいのはこっちだ。
怖かったのはこっちだ。
奪われたのはこっちだ。
あの日からずっと。
ずっと。
「お前が泣くな!」
ミカゲは叫んだ。
少女の瞳が揺れる。
「私は……」
「黙れ!」
その言葉だけは、英雄たちに向ける声とは違った。
礼儀も、抑制も、何もない。
あの日から胸に残り続けた憎しみだけが、喉を焼いていた。
「お前が何を忘れてても関係ない! 私の父さんも、母さんも、もう帰ってこない!」
「知らない……私は、そんなこと……!」
「知らないで済むなら!」
ミカゲは剣を抜いた。
「私はこんなもの、握ってない!」
次の瞬間、少女の足元から黒い力が噴き上がった。
石畳が砕ける。
近くの壁がひび割れる。
悲鳴が上がった。
ミカゲは咄嗟に剣を構える。だが、正面から受けるには重すぎた。身体が後ろへ弾かれ、足が地面を削る。
「ミカゲ!」
グランが駆けつけ、ミカゲの前に立った。
剣を構え、少女を見据える。
その表情から、いつもの明るさは消えていた。
「下がれ。まだ近づくな」
「……でも」
「頼む。今は俺の言うことを聞いてくれ」
ミカゲは唇を噛んだ。
グランの声は強かった。けれど、乱暴ではなかった。
だからこそ、ミカゲは逆らえなかった。
「……分かりました」
そう答えた声は、震えていた。
グランは一瞬だけミカゲを見る。
その目に、わずかな痛みが浮かんだ。
けれど、すぐに前を向く。
「フェリクス! 人を逃がせ!」
「もうやってる!」
屋根の上から、フェリクスの声が返ってきた。
風が吹く。
通りに残っていた人々の背を押すように、柔らかく、しかし確かに流れていく。
「右の路地は使うな! 崩れる! 左だ、左へ行け!」
フェリクスの声が風に乗って街へ散った。
混乱していた人々が、その声に従って動き始める。
その間にも、少女の力は膨れ上がっていく。
黒い影が、地面を舐めるように広がった。
触れた石畳が砕け、街灯がねじ曲がる。
家の窓が割れた。
誰かの生活の音が、一つずつ壊れていく。
ミカゲはそれを見て、息が浅くなった。
あの日も、こうだった。
何かが壊れる音がして。
誰かが叫んで。
自分は何もできなくて。
「……あの日と、一緒だ」
呟いた声は、自分でも聞こえないほど小さかった。
けれど、グランには聞こえたらしい。
「違う」
グランは言った。
「一緒にはさせない」
その言葉と同時に、グランが踏み込んだ。
剣が閃く。
少女へ向けて、真っ直ぐに。
だが少女は、まともに剣を見ていなかった。
ただ怯えたように、両手を抱えているだけだった。
それなのに、黒い力が勝手に動く。
まるで少女を守るように。
あるいは、少女の恐怖を餌にするように。
グランの剣が弾かれた。
「ちっ……!」
グランが体勢を立て直す。
そこへ、横から巨大な盾が割り込んだ。
ライトだった。
淡い光を纏った盾が、黒い力を受け止める。
衝突音が響いた。
空気が震え、周囲の瓦礫が吹き飛ぶ。
「グラン、無理に斬り込むな。力の出所が本人の意思と一致していない」
「見りゃ分かる!」
「分かっているなら、もう少し賢く動け」
「この状況で説教かよ!」
「今言わないと君はまた突っ込む」
いつもなら軽口に聞こえただろうやり取りも、今は張り詰めていた。
ミカゲはその背中を見ていた。
剣の英雄。
盾の英雄。
あれほど強い人たちが、簡単には近づけない。
それが、あの少女の力。
自分からすべてを奪った力。
ミカゲは剣の柄を握りしめた。
悔しかった。
怖かった。
それ以上に、憎かった。
でも、英雄たちの背中を前にして、無理に飛び出すことはできなかった。
それをしたら、足手まといになる。
そんなことくらい、分かるようになってしまった。
昔の自分なら、きっと走っていた。
何も考えず、ただ憎しみだけで。
成長するというのは、面倒だ。
できないことが見えるようになる。無謀と勇気の違いまで理解してしまう。人間、都合よく鈍いままでいられないらしい。
「ミカゲちゃん!」
エイルの声がした。
振り返ると、エイルが走ってきていた。
いつもの気の抜けた表情はない。少し眠たげな目も、今は鋭い。
「怪我は?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「……少し、腕が痛いです。でも動けます」
「ん。嘘つきすぎないの、偉いね」
エイルはミカゲの腕に触れた。
柔らかな光が滲む。
痛みが引いていく。
その温かさに、ミカゲは一瞬だけ泣きそうになった。
けれど、泣かなかった。
「エイルさん」
「なに?」
「あの子は……止められますか」
エイルはすぐには答えなかった。
黒い力に包まれ、混乱したまま暴れる少女を見つめる。
その目は、優しかった。
けれど、甘くはなかった。
「止めるよ」
エイルは言った。
「止めなきゃいけない。これ以上、誰かが死ぬ前にね」
「……はい」
その言葉に、ミカゲは頷いた。
胸の奥が冷えていく。
止める。
その言葉は、優しく聞こえる。
でも、ミカゲには分かっていた。
あの少女を止めるということが、何を意味するのか。
「私は……」
ミカゲは剣を握った。
「私も、行きます」
エイルがミカゲを見た。
「怖くない?」
「怖いです」
ミカゲは即答した。
「でも、見てるだけは嫌です」
「そっか」
エイルは小さく笑った。
いつものように、少しだらしなく。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「じゃあ、無茶はしないこと。グランくんとライトちゃんの邪魔もしないこと。私の声が聞こえたら下がること」
「分かりました」
「いい返事。じゃ、死なないように頑張ろっか」
エイルが前を向く。
その背中を見て、ミカゲも一歩踏み出した。
少女はまだ、壊し続けている。
自分でも何をしているのか分からない顔で。
泣きそうな顔で。
それが、どうしようもなく腹立たしかった。
「泣くくらいなら……」
ミカゲは低く呟いた。
「あの日、私の前で泣いてくれればよかったのに」
その声は、英雄たちには聞こえなかった。
少女にも届かなかった。
黒い力が膨れ上がる。
街が軋む。
悲鳴が遠ざかる。
そしてミカゲは、理解した。
これは、まだ終わっていない。
あの日は過去になんてなっていない。
ずっとここにある。
自分の中にも。
あの少女の中にも。
街の傷にも。
壊れた石畳にも。
握った剣にも。
全部、あの日と一緒だった。
違うのは一つだけ。
今のミカゲは、もう隠れて泣くだけの子供ではない。
剣を握っている。
あの少女を討つために。
父と母を奪った相手を。
祖母のいるこの街を、また壊そうとしている相手を。
絶対に、逃がさないために。
ミカゲは剣を構えた。
その視線の先で、水色の髪の少女が、苦しそうに顔を歪める。
「なんで私が?」と言いたげな顔だった。
そんな顔をする資格が
お前にあるわけがない。




