第12話「決意と決意」
街は、まだ揺れていた。
崩れた壁の隙間から、細い煙が上がっている。割れた窓。砕けた石畳。道の端に転がった荷車。誰かが落とした籠の中身が、泥の上に散らばっていた。
泣き声が聞こえる。
名前を呼ぶ声が聞こえる。
誰かを探す声。誰かに縋る声。何かが崩れる音。
そのすべての中を、グランは走っていた。
「こっちだ! まだ建物の中に人がいる!」
声を張り上げると、近くにいた兵たちが一斉に動いた。
グランは崩れかけた家の扉を蹴破り、中に飛び込む。埃が喉に入り、目が痛んだ。奥でうずくまっていた子供を抱え上げ、外へ出る。
子供は泣いていなかった。
泣くこともできないほど、顔を強張らせていた。
「もう大丈夫だ。外に出た。息できるな?」
グランはなるべく明るく言った。
けれど、その声が自分でもひどく空々しく聞こえた。
大丈夫なはずがなかった。
街の形が変わってしまっている。
数年前と同じように。
いや。
同じだと思いたくなかった。
少し離れた場所では、ライトが避難の指示を出していた。声を荒げることはない。ただ冷静に、逃げる道を示し、兵に役割を振り分け、怪我人の数を確認していく。
「南側の通りは使えない。西の小道から広場へ。怪我人はエイルのところへ運んで」
「は、はい!」
「走らなくていい。転べば助ける人が増えるだけだ。歩ける人は、歩いて」
その言葉に、怯えていた人々が少しずつ動き出す。
ライトは崩れた建物の向こうへ目を向けた。
破壊の跡は、一定の方向へ伸びている。
逃げた者を追うように。
あるいは、追われた者が逃げるように。
けれど、そこから外れた場所にも、妙な崩れ方をしている一角があった。
広がり方が違う。
力が流れた向きと、壊れた場所が噛み合っていない。
「……変だな」
ライトは小さく呟いた。
「ライト!」
グランが戻ってくる。
「大通り側はだいたい見た。ひどいが、まだ動ける。エイルが怪我人を診てる」
「こっちも避難は進んでる。けど、ひとつ気になる場所がある」
「気になる場所?」
ライトは視線だけで示した。
そこは、破壊の中心から少し離れていた。
本来なら、被害が薄くなっているはずの場所。
グランもそれに気づいたのか、眉を寄せた。
「……あっちに何かあったのか?」
「わからない。だから見る」
二人は並んで歩き出した。
途中、何人もの人とすれ違った。肩を貸される老人。泣きながら家族を探す女。額から血を流しながら、それでも誰かを助けようとする男。
グランは何度も足を止めそうになった。
けれど、そのたびにライトが先へ進む。
冷たいわけではない。
今、誰が何をすべきかを見失わないだけだ。
それが盾の英雄だった。
やがて、二人は細い路地に入った。
そこだけ、妙に静かだった。
大通りの喧騒が遠い。
瓦礫の量も少ない。建物の崩れ方も浅い。逃げ惑った人々の足跡はあるが、破壊の流れそのものは、ここへ向かっていない。
なのに。
そこに、人が倒れていた。
グランの足が止まる。
「……おい」
ライトも黙った。
倒れていたのは、老婆だった。
街の者なら誰でも知っている人だった。
小さな料理屋を営んでいた、ミカゲの祖母。
そのそばに、ミカゲが座っていた。
膝をつき、動かない祖母の手を握っている。
泣いていた。
声も出さずに。
ただ、涙だけが落ちていた。
「ミカゲ」
グランが声をかける。
ミカゲは反応しなかった。
まるで、そこに誰もいないみたいに、祖母だけを見ていた。
グランは一歩近づこうとして、止まる。
何を言えばいいのか、わからなかった。
大丈夫か、とは言えない。
そんな言葉が届くはずもない。
ライトは周囲を見た。
壁。地面。倒れた祖母の位置。
やはり、おかしい。
ここは、破壊の通り道ではない。
偶然巻き込まれたにしては、あまりにもそこだけ切り取られている。
けれど、誰も見ていなかった。
この場所で何が起きたのか。
誰も。
「……ミカゲ」
ライトが静かに呼んだ。
ミカゲの肩が、わずかに震えた。
「何があったの?」
ミカゲは答えない。
代わりに、祖母の手を強く握った。
その小さな手は、もう握り返してはくれなかった。
「おばあちゃん」
ようやく、ミカゲが言った。
声は掠れていた。
「おばあちゃんまで、取られた」
グランの表情が歪む。
「ミカゲ……」
「お父さんも、お母さんも」
ミカゲはゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた瞳の奥に、何かが沈んでいた。
悲しみだけではない。
もっと熱くて、暗いもの。
「おばあちゃんも」
声が震えている。
けれど、もう折れてはいなかった。
「全部、取られた」
グランは息を呑んだ。
その目を、知っていた。
何かを失った人間の目。
取り返せないものを前にして、それでも何かを掴もうとしてしまう人間の目。
ライトが一歩、ミカゲの前に出る。
「今は休んで。君はもう十分傷ついている」
「嫌です」
ミカゲは即座に言った。
ライトは何も返さなかった。
ミカゲは祖母の手をそっと置き、立ち上がる。
足元はふらついていた。
それでも、立った。
「私は、もう休みたくないです」
グランが拳を握る。
「ミカゲ、気持ちはわかる。でも今のお前が行ってどうにかなる相手じゃない」
「わかっています」
ミカゲは涙を拭った。
「だから、強くなります」
その言葉は、静かだった。
静かすぎるほどに。
「強くなって、追います」
グランは何かを言おうとして、言葉を失った。
止めるべきだ。
それはわかっている。
こんな子供が抱えていいものではない。
けれど、彼女からそれを奪ったところで、何が残る。
両親を失い、祖母を失い、壊れた街の中に立つこの少女に、ただ泣いていろと言えるのか。
ライトが言った。
「復讐は、君を支えるかもしれない。でも、同じだけ君を壊す」
「それでもいいです」
「よくない」
ライトの声は、少しだけ強くなった。
ミカゲは黙る。
ライトは続けた。
「君が怒ることは間違っていない。憎むことも、今は否定しない。でも、それだけを理由に剣を握れば、いつか君自身が戻れなくなる」
ミカゲは唇を噛んだ。
血が滲みそうなほど強く。
「じゃあ」
ミカゲは言った。
「じゃあ私は、何を理由にすればいいんですか」
ライトは答えられなかった。
グランも答えられなかった。
ミカゲは笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、壊れた街を見た。
祖母を見た。
それから、遠くを見た。
もうそこにはいない、誰かが消えていった方角を。
「私は、忘れません」
小さな声だった。
けれど、はっきりと聞こえた。
「絶対に」
グランは、その言葉を聞いてしまった。
聞かなかったことにはできなかった。
ライトも同じだった。
風が吹いた。
路地に残っていた埃が舞い上がる。
その向こうで、ミカゲは祖母のそばにもう一度膝をついた。
そして、震える手で祖母の髪に触れた。
「ごめんね」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
守れなかった祖母へなのか。
泣くことしかできなかった自分へなのか。
それとも、これから何かを捨ててしまう自分へなのか。
グランは目を伏せた。
ライトは何も言わず、ただ立っていた。
その場所で何が起きたのか。
誰が、何をしたのか。
まだ誰も知らない。
けれど、その日。
ミカゲの中で、何かが決まった。
そして、誰にも見えない場所で。
もうひとつの何かも、静かに決まっていた。




