第13話「討つために」
祖母の遺体を前にして、ミカゲは動けなかった。
泣き叫ぶことも、名前を呼ぶこともできなかった。
ただ、座り込んでいた。
祖母の身体は、もう温かくなかった。
先ほどまで確かに生きていた人が、目の前で動かなくなっている。
それが何を意味しているのか、ミカゲにはわかっていた。
わかっていたのに、心が追いつかなかった。
両親が死んだ日も、そうだった。
気づいたときには、すべてが終わっていた。
けれど今回は違う。
自分は見た。
あの少女を見た。
あの少女がまた街を壊し、また大切な人を奪っていった。
偶然ではない。
不幸ではない。
災害でもない。
あれは、いる。
生きていて、歩いていて、逃げている。
なら。
追える。
討てる。
ミカゲは祖母の手を握った。
冷たい。
あまりにも冷たい。
「……おばあちゃん」
声が掠れた。
返事はなかった。
もう二度と、返事はなかった。
その事実が、胸の奥に沈んだ。
沈んで、形を変えた。
悲しみではない。
もっと硬く、もっと黒く、もっと熱いもの。
ミカゲは、ゆっくりと顔を上げた。
そこへ、足音が近づいてくる。
グランだった。
その後ろに、ライト、エイル、フェリクスもいる。
誰もが険しい顔をしていた。
普段なら真っ先に声をかけてくるはずのグランでさえ、すぐには何も言わなかった。
彼らも見たのだ。
街の壊れ方を。
逃げ惑う人々を。
そして、死んだ祖母を。
ただし、彼らはミカゲが祖母のそばにいるところしか見ていない。
その直前、何があったのかは知らない。
あの少女が逃げた方向とは違う場所で、祖母が死んでいた。
それは、ただの事故として片づけるには不自然だった。
けれど今、それを問い詰める者はいなかった。
問うべきことは、そこではなかった。
「ミカゲ」
グランが低い声で呼んだ。
ミカゲは返事をしない。
グランは一度だけ歯を食いしばった。
「……すぐに追う」
その言葉に、ミカゲの指がぴくりと動いた。
「今、街の被害確認と避難誘導は警備隊に回してる。俺たちはあいつを追う」
ライトが続ける。
「これ以上放置できない。再び市街地に入られれば、被害はさらに広がる」
エイルは祖母の遺体に視線を落とした。
いつもの気の抜けた笑みはなかった。
「救護は最低限済ませた。重傷者はまだいるけど、あの子を止めなきゃ、また増える」
フェリクスは風に揺れる紙片を押さえながら言う。
「逃走方向は北西。完全ではないが、風に残った魔力の流れから追える。時間を置けば置くほど痕跡は薄れる」
すぐに。
今すぐに。
英雄たちは、もう動き始めていた。
葬儀を待つ時間もない。
墓を作る時間もない。
悲しむ時間すら、与えられない。
そのことが、かえってミカゲの中の何かを冷たく整えた。
立たなければならない。
泣くのは後だ。
いや、泣くことすら、後で許されるかわからない。
ミカゲは祖母の手をそっと地面に戻した。
そして、立ち上がる。
「私も行きます」
グランの眉が動いた。
「ミカゲ」
「行きます」
声は震えていた。
けれど、言葉は折れなかった。
「止めても行きます」
ライトが静かにミカゲを見る。
「今の君は冷静ではない」
「冷静じゃなくても、行きます」
「復讐のためか」
その問いに、ミカゲは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
グランが小さく息を吐く。
「連れていきたくはない」
「それでも、私は行きます」
「足手まといになれば、俺たちはお前を守るために動かされる」
「足手まといにはなりません」
「そう言い切れるほど、相手は甘くない」
グランの声は厳しかった。
ミカゲは唇を噛む。
わかっている。
あの少女は強い。
街を壊し、人を殺し、英雄たちが駆けつける前に逃げていくような存在だ。
自分が行ったところで、何ができるのか。
そんなことはわかっている。
それでも。
「グランさん」
ミカゲは、まっすぐグランを見た。
「私は、あの子を見ました」
グランは黙る。
「あの時も、今日も。私は、あの子の顔を見ました」
ミカゲの声が低くなる。
「あの子は、私から全部奪って逃げました」
祖母の遺体が視界の端にある。
それだけで、言葉の奥が焼ける。
「だから、私が見届けます」
「……見届けるだけで済む顔じゃないぞ」
「済ませるつもりもありません」
その場の空気が張りつめた。
エイルが、かすかに目を細める。
ライトは何も言わない。
フェリクスだけが、じっとミカゲの瞳を観察していた。
やがて、グランは頭を掻いた。
「ほんと、嫌になるな」
ミカゲは返事をしない。
「ここで置いていっても、お前は一人で追う。そういう顔をしてる」
「はい」
「返事だけ素直なの、腹立つな」
グランは苦く笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
「なら条件がある。俺の指示を聞け。勝手に突っ込むな。俺が下がれと言ったら下がれ」
「はい」
「怒りで剣を振るな。怒りは足を動かすには使える。けど、剣を振るときにそれだけ見てると死ぬ」
「……はい」
「お前の剣は、俺が見る」
ミカゲは一瞬だけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。こんな状況で連れていく時点で、褒められた話じゃない」
グランはそう言って、ライトを見る。
「行けるか」
「行ける」
ライトは短く答えた。
「隊列は私とグランが前。ミカゲは中央。エイルは後方で回復支援。フェリクスは追跡と索敵」
「妥当だ」
フェリクスが頷く。
「ただ、出る前に確認しておきたいことがある」
グランが眉を寄せる。
「今か?」
「今だ。戦場で不確定要素に気づくよりはいい」
フェリクスの視線がミカゲに向いた。
「前の交戦時、君の目が淡く緑に光ったという報告がある」
ミカゲは息を呑んだ。
あの瞬間。
殺されると思ったとき、視界が一瞬だけ緑に染まった。
そして身体が勝手に動いた。
グランから教わっていないはずの型を、使った。
「……私も、見えました」
ミカゲは小さく言った。
「一瞬だけ、視界が緑に」
グランが腕を組む。
「それで流転を使った。俺がまだ教えてない型だ」
「流転?」
ライトが問う。
「相手の力を真正面から受け止めず、剣で流して後ろへ逃がす型だ。見ただけで使えるようなもんじゃない」
「本人に記憶は?」
フェリクスが聞く。
ミカゲは首を横に振った。
「ありません。気づいたら、身体が動いていました」
「やはりな」
フェリクスは持っていた古い資料を開く。
紙は黄ばんでいて、文字もかすれている。
「淡い緑の瞳。本人の意識を越えた行動。ありえない技術の再現。古い伝承に似た記述がある」
「伝承?」
グランが聞き返す。
「願いの英雄」
フェリクスは言った。
その名に、ミカゲはわずかに眉を寄せる。
聞き覚えはある。
けれど、剣の英雄や癒しの英雄のように、はっきりした存在ではない。
物語の端にだけ出てくる、輪郭のぼやけた英雄。
「六英雄とは別に語られることがある存在だ。世界を救った者、六英雄の始まりに関わった者、あるべき道へ導く者。文献によって表現が違う」
ライトが言う。
「信頼できる記録なのか」
「低い」
フェリクスは即答した。
「神話や民間伝承に近い。ただし、淡い緑の瞳については複数の資料に共通している」
エイルがミカゲを見る。
「つまり、ミカゲちゃんがその願いの英雄かもってこと?」
「断定はしない」
フェリクスは資料を閉じた。
「だが、何らかの権能が発現している可能性はある。制御できない力を戦場に持ち込むことになる以上、全員が把握しておくべきだ」
ミカゲは手を握った。
「私は、何もわかりません」
「わからないなら、わからないまま扱うな。異変があればすぐ言え」
「はい」
「それと、もう一つ」
フェリクスは別の紙を取り出した。
そこには、街に残った破壊痕の簡単な図が描かれている。
「相手の力についてだ。魔力の性質が通常の魔法とは違う。どちらかといえば、英雄の権能に近い」
グランの顔つきが変わる。
「どの英雄だ」
「近いのは、死の英雄」
その場が沈黙した。
死の英雄。
ミカゲはその名を知っている。
剣の英雄に憧れて、何度も英雄譚を読んだ。
六人の英雄。
剣、盾、癒し、風、豊穣、そして死。
けれど、死の英雄だけは他と違っていた。
詳しい話が少ない。
今の継承者も知られていない。
行方不明。
そう書かれていることが多かった。
「死の英雄は、今も所在不明のはずです」
ミカゲが言う。
フェリクスは頷いた。
「王都の登録でもそうなっている。だが、力そのものが途絶えたわけではない。継承者が確認されていないだけだ」
「じゃあ、あの子が死の英雄だっていうのか?」
グランが低く問う。
「可能性の一つだ」
フェリクスは慎重に答えた。
「ただし、死の英雄の力は本来、ただ人を殺すためのものではない。死を司り、魂を鎮め、終わりを整える力とされている」
エイルが乾いた笑いを漏らした。
「整えるどころじゃないけどね」
「使い方か、力の状態か、本人の精神か。何かが大きく歪んでいる」
フェリクスは紙を折りたたむ。
「いずれにせよ、相手は通常の犯罪者でも、ただの暴走した魔法使いでもない。英雄級の権能を持つ危険存在として扱うべきだ」
危険存在。
その言葉が、妙に冷たく響いた。
ミカゲの脳裏に、水色髪の少女の顔が浮かぶ。
何も知らないような顔。
怒鳴られて困惑する顔。
自分が何をしたのか、本当にわかっていないような顔。
けれど、だから何だ。
祖母は死んだ。
両親も死んだ。
街も壊れた。
許される理由にはならない。
「追跡を始める」
ライトが言った。
「これ以上の確認は移動しながらでいい。フェリクス、痕跡は?」
「まだ拾える。だが急いだ方がいい」
「なら行くぞ」
グランが剣を背負い直す。
エイルは鞄を肩にかけた。
「ミカゲちゃん」
呼ばれて、ミカゲは顔を上げる。
エイルはいつものような軽い調子で笑おうとして、失敗したような顔をした。
「無理するな、って言っても無理するよね」
「……はい」
「じゃあ、死なないで」
その言葉は、軽くなかった。
「死んだら怒るから」
「はい」
ミカゲは頷いた。
グランが先に歩き出す。
ライトが続く。
フェリクスが風に手をかざし、残った魔力の流れを探る。
エイルが後ろを見る。
そしてミカゲも、祖母のそばから離れた。
一歩。
また一歩。
足が重い。
それでも歩く。
祖母をこの場に残していく。
弔うこともできないまま。
最後にもう一度だけ、ミカゲは振り返った。
祖母は動かない。
もう、何も言ってくれない。
ミカゲは唇を噛んだ。
「行ってきます」
小さく呟いた。
返事はない。
それでよかった。
返事があったら、きっと動けなくなっていた。
ミカゲは前を向く。
街の外へ向かう道には、壊れた家々と、泣き声と、焦げた匂いが残っていた。
そのすべてを背にして、英雄たちは歩き出す。
討つために。
これ以上、奪わせないために。
そしてミカゲは、そのさらに奥で思っていた。
返して。
返してくれないなら。
同じだけでは足りない。
私と同じか、それ以上の絶望を。
あの子に。
必ず。




