第14話「三度目の正直」
風が、道を示していた。
目に見えるわけではない。
けれどフェリクスは、何度も足を止めては空気の流れを確かめ、そのたびに進む方角を少しずつ修正した。
「北西で間違いない。かなり乱れているが、残滓は続いている」
フェリクスの声は冷静だった。
冷静すぎるほどだった。
街から離れるほど、周囲は静かになっていく。
壊れた家も、泣き声も、逃げ惑う人々の姿も遠ざかる。
けれど、ミカゲの耳にはまだ残っていた。
誰かの悲鳴。
倒れる音。
祖母の名を呼べなかった自分の息。
そして、あの少女の顔。
水色の髪。
何も知らないような目。
何もかも奪ったくせに、何を言われているのかわからないという顔。
ミカゲは剣の柄を握りしめた。
指が痛む。
それでも離せなかった。
「ミカゲ」
前を歩くグランが、振り返らずに言った。
「はい」
「力むな。手が固い」
ミカゲは息を呑む。
「……わかりますか」
「わかる。足音も固い」
グランは前を見たまま続ける。
「怒るなとは言わねえ。けど、怒りで身体を縛るな。剣を振る前に、剣に振られる」
「はい」
ミカゲは返事をした。
手の力を抜こうとする。
けれど抜けない。
ならせめて、指を少しだけ開いて、また握った。
それだけでも、息が少しだけ入った。
ライトが横目でミカゲを見る。
「怖いか」
「……怖くないです」
「嘘だな」
即答だった。容赦という文化をどこかに置いてきたらしい。いや、今はそれでよかった。
ミカゲは少し黙ったあと、小さく言った。
「怖いです」
「ならいい」
「いいんですか」
「怖くないまま前に出る方が危ない。怖いなら、自分が死ぬ可能性を忘れていない」
ライトの声は静かだった。
「その感覚は捨てるな」
「……はい」
エイルが後ろから、少しだけ気の抜けた声で言う。
「お嬢ちゃんたち、真面目だねえ」
けれど、その声にもいつもの軽さは薄かった。
「まあ、真面目じゃないと死ぬからね。真面目にやろっか」
フェリクスが手を上げた。
全員の足が止まる。
「近い」
その一言で、空気が変わった。
グランが剣に手をかける。
ライトが盾を構えた。
エイルは少し後ろに下がり、治療具の入った鞄を開ける。
ミカゲは息を殺した。
フェリクスが目を細める。
「この先、森を抜けた場所に古い採石場がある。今は使われていない。地形はすり鉢状。逃げ場は少ない」
「誘導できるか」
ライトが問う。
「すでに向こうがそこへ向かっている。追い詰められている自覚があるかは不明だが、結果としては好都合だ」
グランが低く笑う。
「三度目だな」
ミカゲは顔を上げた。
「三度目……」
「最初は、お前の両親を奪った時。二度目は今日、街で暴れた時」
グランの目が細くなる。
「三度目で止める」
ミカゲの胸が熱くなった。
違う。
熱いだけではない。
冷たいものも混じっている。
あの少女を止める。
それはつまり、討つということだ。
ミカゲは祖母の冷たい手を思い出した。
「はい」
声が出た。
「止めます」
グランは一度だけ頷いた。
「作戦を確認する」
ライトが短く言う。
「私が正面で受ける。グランが斬り込む。ミカゲは前に出すぎるな。隙があれば牽制だけでいい。エイルは回復、フェリクスは退路封鎖と位置把握」
「了解」
エイルが答える。
「僕の風で粉塵を散らせば視界は保てる。ただし相手の力が死の英雄に近いなら、風で触れた魔力がこちらに悪影響を及ぼす可能性もある。距離は取る」
フェリクスが言った。
グランがミカゲを見る。
「お前は、俺の合図があるまで斬り込むな」
「はい」
「絶対だ」
「……はい」
ミカゲは剣を握ったまま頷いた。
わかっている。
わかっているのに、あの顔を見たらどうなるかわからない。
だからこそ、グランは何度も言うのだろう。
ミカゲ自身よりも、ミカゲの危うさを見ている。
少し前まで、自分は剣の英雄に憧れていただけの子供だった。
今は、剣を持って人を追っている。
おかしな話だ。
おかしな話なのに、足は止まらない。
森を抜ける。
開けた場所に出た。
古い採石場だった。
崩れかけた石壁。
捨てられた荷車。
雨ざらしになった木材。
地面には白い石の粉が薄く積もっている。
その中央に、少女がいた。
水色の髪が風に揺れていた。
背は小さい。
自分と同じくらいの年頃に見える。
なのに、周囲だけが妙に暗く沈んでいた。
少女は、こちらに背を向けて立っていた。
何かを見ているわけでもない。
ただ、立っている。
まるで、どこへ行けばいいのかわからない子供のように。
ミカゲの喉が鳴った。
その姿を見た瞬間、怒りが込み上げる。
祖母の顔が浮かぶ。
両親の顔が浮かぶ。
あの祭りの日の音が、頭の中で割れる。
「……いた」
ミカゲが呟いた。
少女が、ゆっくりと振り返る。
その目は、ぼんやりとしていた。
怯えているわけではない。
敵意があるわけでもない。
ただ、疲れていた。
何もわからないまま、歩き続けた人間の目だった。
そのことが、ミカゲをさらに苛立たせた。
そんな顔をするな。
お前が奪ったんだ。
お前が壊したんだ。
被害者みたいな顔をするな。
「……また」
少女が小さく言った。
「また、君……?」
その言葉で、ミカゲの中の何かが切れかける。
けれど、グランの腕が前に出た。
それだけで、ミカゲは踏みとどまった。
「俺たちは王都登録の英雄だ」
グランが前に出る。
剣を抜いた。
「お前には、街の破壊と多数の殺傷の疑いがある。抵抗しなければ拘束する」
少女はグランを見る。
次にライトを見る。
エイルを見る。
フェリクスを見る。
最後に、ミカゲを見る。
その顔がわずかに歪んだ。
「私は……」
少女は何かを言いかける。
けれど続かなかった。
自分でも、何を言えばいいのかわからないようだった。
「私は、何も……」
ミカゲの奥歯が鳴った。
「何も?」
声が出た。
グランが止めるより早かった。
「何もしてないって言うの?」
少女が肩を震わせる。
「わからないんだよ……!」
「わからない?」
ミカゲは一歩前に出た。
「私の両親を殺して、おばあちゃんまで殺して、それでわからない?」
「知らない……私は、本当に……!」
「ふざけるな!」
ミカゲが叫んだ。
採石場に声が反響する。
「忘れたからって、お前の罪が消えると思うな!」
少女の目が大きく開いた。
その瞬間、空気が歪んだ。
フェリクスが叫ぶ。
「来る!」
少女の足元から、黒い霧のようなものが噴き出した。
死の気配。
そう呼ぶしかないものが、地面を這う。
触れた草が一瞬で枯れた。
木材が黒ずみ、石の粉が舞い上がる。
「ライト!」
「任せろ」
ライトが前に出た。
盾が淡く光る。
黒い霧が盾にぶつかり、ぎしりと嫌な音を立てた。
だが、止まる。
グランがその横を抜けた。
「はあっ!」
剣が振り下ろされる。
少女は避けた。
速い。
華奢な身体からは想像できない速度だった。
グランの剣が地面を叩き、石粉が跳ねる。
少女は後ろへ下がりながら手を振るった。
黒い線が空気を裂く。
「伏せろ!」
ライトの声。
ミカゲは咄嗟に身を低くした。
頭上を黒い刃のようなものが通り過ぎ、背後の岩壁を抉る。
音が遅れて響いた。
ミカゲの背筋が冷える。
当たっていたら死んでいた。
それを理解した瞬間、足が震えた。
でも、止まれない。
「ミカゲ、下がれ!」
グランの声。
「はい!」
ミカゲは後退する。
悔しい。
悔しいが、ここで前に出れば邪魔になる。
わかっている。
わかってしまう。
グランは少女に斬りかかり続けた。
剣筋は鋭い。
けれど、少女はそれを紙一重で避ける。
避けるたびに、黒い力が周囲に滲んだ。
攻撃と呼ぶには雑だった。
型もない。
訓練された動きでもない。
ただ、力が強すぎる。
子供が刃物を振り回している。
なのに、その刃物があまりにも大きい。
そんな戦いだった。
「厄介だな!」
グランが叫ぶ。
「本人の技量じゃない。力が身体を動かしてる」
ライトが踏み込んだ。
盾で黒い霧を押し返し、そのまま少女の進路を塞ぐ。
「左へ逃がすな」
「わかってる!」
グランが右から斬る。
ライトが左を塞ぐ。
二人の動きは噛み合っていた。
言葉が少なくても通じている。
これが英雄なのだと、ミカゲは思った。
かっこいい。
そう思う心が、まだ少しだけ残っていることに驚いた。
けれど、それ以上に。
自分もあそこに立ちたいと思った。
立って、あの少女を斬りたいと思った。
「ミカゲちゃん、前出すぎ」
エイルの声が後ろから飛んだ。
気づけば、ミカゲは半歩前に出ていた。
慌てて止まる。
「……すみません」
「謝るのは生きてからでいいよー」
エイルは軽く言った。
その直後、少女の黒い力が地面を走った。
グランが飛び退く。
ライトが盾で受ける。
だが、衝撃は横へ抜け、ミカゲの方へ向かった。
避けるには遅い。
ミカゲは剣を構えた。
また視界が緑に染まるのではないかと思った。
けれど、何も起きなかった。
ただ、自分の身体だけがそこにある。
「くっ……!」
受けるしかない。
そう思った瞬間、風が横から吹いた。
黒い力の向きがわずかに逸れる。
フェリクスだった。
「ぼうっとするな」
「ありがとうございます!」
「礼より足を動かせ」
その通りすぎて嫌になる。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
ミカゲは横へ跳ぶ。
黒い力がすぐそばの地面を抉った。
石粉が舞う。
視界が白く濁る。
フェリクスが風を起こし、粉塵を払った。
その向こうで、少女が膝をついていた。
息が荒い。
力を使うたびに、本人も削れているようだった。
「もうやめろ!」
グランが叫ぶ。
「これ以上やれば、お前の身体ももたない!」
少女は顔を上げる。
その目には涙が浮かんでいた。
「やめたいよ……」
かすれた声だった。
「やめたい……でも、止まらない……」
ミカゲの胸が、一瞬だけ揺れた。
止まらない。
その言葉は、あまりにも弱く聞こえた。
けれど、次の瞬間には祖母の遺体が浮かぶ。
揺れは怒りに変わる。
「止まらないなら、止める」
ミカゲは剣を構えた。
「お前が止まれないなら、私たちが止める」
少女の表情が歪む。
「君は……なんで……」
「なんで?」
ミカゲの声が低くなった。
「まだ聞くの?」
グランが横目でミカゲを見る。
だが、止めなかった。
ミカゲは一歩だけ前に出る。
「お前が奪ったからだよ」
少女が震える。
「お前が私から、全部奪ったから」
「私は……」
「言い訳するな」
ミカゲは吐き捨てた。
「知らないって言うな。わからないって言うな。そんな言葉で、死んだ人は戻らない」
少女の瞳が揺れた。
その奥で、何かがひび割れるように見えた。
フェリクスが眉をひそめる。
「精神状態が不安定になっている。来るぞ」
次の瞬間、少女が叫んだ。
言葉にならない声。
黒い力が一気に膨れ上がる。
採石場の地面が割れた。
枯れた草が粉になり、岩壁に亀裂が走る。
「散開!」
ライトが叫ぶ。
英雄たちが動く。
グランは前へ。
ライトは盾を構え直す。
フェリクスは風で黒い力の流れを分散させる。
エイルは後方で術式を展開する。
ミカゲは、中央から外れないように走った。
黒い霧が足元を掠める。
冷たい。
触れていないのに、体温を奪われるようだった。
少女は泣いていた。
泣きながら、力を振るっていた。
その姿は、あまりにも惨めで、あまりにも危険だった。
誰かが助けてやらなければならない子供に見える。
でも、助けようと近づけば殺される。
世の中、だいたい最悪の二択を平然と出してくる。
「グラン!」
ライトが叫ぶ。
「今だ!」
ライトの盾が黒い霧を押し潰す。
その一瞬、少女の周囲に隙間ができた。
グランが踏み込む。
剣の軌跡がまっすぐ少女へ向かう。
だが、少女の身体が不自然に跳ねた。
本人の意思ではない。
何かに引っ張られるように、横へ逃げた。
グランの剣は肩を掠める。
血が飛んだ。
少女が悲鳴を上げる。
その悲鳴に、ミカゲの心臓が跳ねた。
痛がっている。
当然だ。
生きているのだから。
だが、それでも。
逃がさない。
「ミカゲ!」
グランが叫んだ。
合図だった。
ミカゲは走った。
少女が体勢を崩している。
今なら届く。
剣を振り上げる。
少女がこちらを見る。
その目が、怯えていた。
ミカゲの手が一瞬だけ止まりかける。
その瞬間、少女の口が動いた。
「たす……」
何かを言いかけた。
けれど、黒い力がまた膨れた。
ミカゲの足元へ伸びる。
「ミカゲ、下がれ!」
ライトの声。
ミカゲは咄嗟に剣を振った。
狙ったわけではない。
ただ、死にたくなくて振った。
黒い力に剣が触れ、手が痺れる。
身体が弾き飛ばされた。
「っ……!」
背中から地面に叩きつけられる。
息が詰まった。
視界が揺れる。
「ミカゲちゃん!」
エイルが駆け寄る。
「大丈夫です……!」
「大丈夫な人間の声じゃないねえ、それ」
エイルが手をかざす。
温かい光が身体に染みる。
痛みが少し引いた。
ミカゲは起き上がる。
その間にも、グランとライトは少女を追い詰めていた。
少女は採石場の奥へ下がっている。
背後は崩れた岩壁。
左右は高い斜面。
逃げ道はない。
フェリクスの風が周囲を回り、退路を塞いでいる。
三度目。
今度こそ逃がさない。
少女も、それを理解したのかもしれない。
荒い呼吸のまま、周囲を見回している。
逃げ道を探している。
けれど、ない。
グランが剣を構えた。
ライトが盾を前に出す。
ミカゲも立ち上がり、剣を握る。
少女は、震える声で言った。
「なんで……」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
「なんで、こんな……」
ミカゲは答えない。
答える必要がないと思った。
グランが低く告げる。
「終わりだ」
少女の目が揺れる。
その奥に、ほんの少しだけ何かが戻ったように見えた。
記憶なのか。
恐怖なのか。
それとも、もっと別のものなのか。
ミカゲにはわからない。
ただ一つだけわかる。
ここで終わらせる。
もう逃がさない。
もう奪わせない。
グランが一歩踏み出す。
ライトが合わせる。
フェリクスの風が鳴る。
エイルの癒しの光が背後に灯る。
ミカゲは剣を構えた。
少女は、追い詰められた獣のように息をしていた。
そして、最後の戦いが始まった。




