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第15話「裁き」

 少女は、逃げなかった。


 いや、逃げられなかったのかもしれない。


 背後には崩れた岩壁。


 左右は切り立った斜面。


 正面には、グランとライト。


 風はフェリクスが押さえている。


 後ろにはエイルがいる。


 そしてミカゲは、剣を握って立っていた。


 少女は荒く息をしている。


 肩に負った傷から、血が流れていた。


 その血が白い石粉の上に落ちるたび、じわりと黒く染みていく。


 普通の血ではない。


 そう思った瞬間、ミカゲの手に力が入った。


 あれは人なのか。


 人に見える。


 自分と同じくらいの少女に見える。


 けれど、その足元から滲むものは、どう見ても人のものではなかった。


「抵抗をやめろ」


 ライトが言った。


 盾を構えたまま、少しも油断していない。


「これ以上動けば、こちらも加減はできない」


 少女はライトを見た。


 次にグランを見た。


 最後にミカゲを見た。


 その目が、また揺れる。


「私は……」


 かすれた声だった。


「私は、何をしたの……?」


 ミカゲの胸に、熱が走った。


 何をした。


 またそれか。


 わからない。


 知らない。


 覚えていない。


 その言葉ばかり。


「まだ言うの……?」


 ミカゲは小さく呟いた。


 声に出すつもりはなかった。


 けれど出てしまった。


 少女の顔がこわばる。


「本当に、わからないんだよ……」


「わからないなら」


 ミカゲは一歩前に出た。


 グランが腕で制する。


 それでも、ミカゲは言葉だけは止められなかった。


「わからないなら、思い出してよ」


 少女の瞳が震える。


「私の両親を殺したことも。街を壊したことも。おばあちゃんを殺したことも。全部、思い出してよ」


「知らない……」


「知らないで済むわけない!」


 叫んだ瞬間、少女の足元の黒い霧が膨れた。


 ライトが即座に盾を前へ出す。


 黒い力が盾にぶつかり、耳障りな音を立てて弾けた。


「ミカゲ、下がれ」


 ライトの声は冷静だった。


 けれど、その冷静さの下に警戒がある。


 ミカゲは唇を噛み、半歩下がった。


 グランが少女を睨む。


「今のは、そっちの意思か?」


 少女は首を振った。


 何度も、何度も。


「違う……違う、私は……」


「なら抑えろ」


「できない……!」


 少女は頭を抱えた。


「わからない……何もわからないのに、痛くて、怖くて、でも、止まらなくて……!」


 その声は本物に聞こえた。


 嘘には聞こえなかった。


 それが、ミカゲには嫌だった。


 嘘であってほしかった。


 全部わかった上で、悪意で笑っていてほしかった。


 そうすれば憎むだけでよかった。


 斬る理由だけを握っていられた。


 なのに。


 目の前の少女は泣いている。


 自分が何をしたのかもわからない顔で、ただ怯えている。


 だからといって、許せるはずもなかった。


 許していいはずもなかった。


「……エイル」


 グランが低く呼んだ。


「うん」


 エイルは、いつものような軽い返事をした。


 けれど、表情は笑っていなかった。


 ゆっくりと前に出る。


 ミカゲの横を通り過ぎる時、エイルは一度だけミカゲを見た。


「お嬢ちゃん、少し下がっててね」


「でも」


「これは、たぶん見た方がいい。けど近すぎると危ない」


 その声は、妙に優しかった。


 ミカゲは何も言えず、剣を握ったまま後ろへ下がった。


 エイルは少女の正面に立つ。


 距離はある。


 近づきすぎない。


 それでも、真正面から少女を見ていた。


「ねえ、君」


 少女が顔を上げる。


 エイルは少しだけ首を傾けた。


「名前、言える?」


 少女は口を開きかけた。


 けれど、声は出なかった。


 名前。


 その簡単なものさえ、掴めないように。


 少女は自分の胸元を握りしめる。


「……わからない」


 エイルは目を伏せた。


「そっか」


 それだけだった。


 責めるでもなく、慰めるでもなく。


 ただ受け取った。


「じゃあ、次」


 エイルは片手を上げた。


 淡い光が指先に灯る。


 癒しの光と同じ色だった。


 でも、雰囲気が違う。


 温かいだけではない。


 白く、静かで、どこか冷たい。


「これはね、癒しの英雄に伝わる力のひとつ」


 エイルの声が採石場に響く。


「人を癒すための力。でも、傷を塞ぐだけが癒しじゃない」


 少女は怯えたように後ずさろうとした。


 だが、背後は岩壁だ。


 逃げられない。


「世界は、全部を見ている」


 エイルは言う。


「誰が何をしたのか。何を奪ったのか。どんな命を踏んだのか。本人が忘れていても、隠していても、知らないふりをしても」


 光が強くなる。


「世界は覚えてる」


 ミカゲは息を呑んだ。


 その光に、なぜか目を逸らせなかった。


 グランも、ライトも、フェリクスも黙っている。


 誰も止めない。


 それは、この場で必要なものなのだと、全員がわかっているようだった。


 エイルは少女を見つめた。


「君が本当に何もしていないなら、この力は君を焼かない」


 少女の目が揺れる。


「……焼く?」


「うん。裁きだからね」


 エイルは静かに言った。


「罪がないなら、何も起きない。罪があるなら、その分だけ返ってくる」


 少女は震えた。


「そんなの……私は……」


「嫌なら拒んでいいよ」


 エイルは言った。


「ただ、その場合は私たちは君をこのまま危険な存在として扱う。話を聞く余地はなくなる」


 少女は何も言えない。


 エイルは続ける。


「でも、もし君が本当にわからなくて、もし本当に自分の罪が晴れる可能性に賭けたいなら」


 光が少女の足元まで伸びる。


「受けて」


 沈黙が落ちた。


 少女の呼吸だけが聞こえる。


 ひゅう、と喉が鳴る。


 ミカゲは剣を握りしめる。


 受けろ。


 そう思った。


 受けて、焼かれろ。


 そう思った。


 けれど同時に、もし何も起きなかったら、という考えが頭をよぎった。


 その瞬間、胸の奥が冷たくなる。


 何も起きなかったら。


 この少女に罪がないと出たら。


 自分は何を憎めばいい。


 誰に返せばいい。


 両親は。


 祖母は。


 どうなる。


 少女は長い時間をかけて、ゆっくりと頷いた。


「……わかった」


 声は震えていた。


「それで、わかるなら……私が、何をしたのか……」


 エイルは少しだけ目を細めた。


「そっか」


 その顔には、ほんの少しだけ悲しみがあった。


 エイルは手を前に出す。


「じゃあ、始めるよ」


 光が広がった。


 少女の足元に円が描かれる。


 白い光の輪。


 その中に、細かい文字のようなものが浮かび上がる。


 ミカゲには読めなかった。


 けれど、その文字が回り始めた瞬間、空気が重くなった。


 採石場の風が止まる。


 フェリクスが眉を動かした。


「風が……」


 ライトが盾を握り直す。


 グランが剣先を下げずに少女を見ている。


 少女は光の中に立っていた。


 黒い霧は、光に押さえつけられるように沈んでいる。


 初めて、少女からあの黒い力が遠ざかったように見えた。


 少女の顔に、少しだけ安堵が浮かぶ。


 その顔を見て、ミカゲの心臓が変な音を立てた。


 安堵するな。


 まだ何も終わっていない。


 エイルが小さく息を吐く。


「世界よ」


 その声は、いつものエイルのものではなかった。


 軽さも、眠たげな調子もない。


 癒しの英雄としての声だった。


「この者の歩みを見せて」


 光が、少女の身体を包んだ。


 次の瞬間。


 少女が絶叫した。


 白い光が、一瞬で赤黒く染まる。


 火が上がった。


 炎ではない。


 けれど炎に見えた。


 少女の身体を、内側から焼くような光だった。


「ああああああああっ!」


 少女が膝をつく。


 背を反らし、喉が裂けるほど叫ぶ。


 ミカゲは固まった。


 その光景に、ただ見入っていた。


 黒い霧が暴れようとする。


 だが、白い輪がそれを押さえ込む。


 少女は地面に爪を立てた。


 石粉が血で濡れる。


「いやだ……! 痛い、痛い、痛い……!」


 少女の声が響く。


「なんで……! 私、何を……!」


 その言葉の途中で、光がさらに強くなった。


 少女の叫びが言葉にならなくなる。


 ミカゲは、思わず一歩下がった。


 望んだはずだった。


 焼かれろと思った。


 けれど目の前で、同じ年頃の少女が身をよじって苦しむ姿は、あまりにも生々しかった。


 これが裁き。


 これが世界の答え。


 エイルの顔から、表情が消えていた。


 だが、その目の奥だけが痛そうだった。


 やがて光が弱まる。


 少女は地面に倒れた。


 体中から煙のようなものが上がっている。


 息はある。


 だが、もう立てるようには見えなかった。


 白い光の輪は、ゆっくりと消えていく。


 採石場に風が戻った。


 誰も、すぐには動かなかった。


 フェリクスが小さく呟く。


「……有罪、ということか」


 エイルは返事をしなかった。


 ただ少女を見下ろしている。


 そして、乾いた笑いを漏らした。


「はは」


 短い笑いだった。


 明るさはない。


「……救えないね」


 その言葉が、ミカゲの胸に落ちた。


 救えない。


 誰も否定しなかった。


 グランは剣を握り直す。


 ライトは盾を下ろさない。


 フェリクスは風を再び張る。


 裁きは終わった。


 答えは出た。


 それでも少女は、地面の上で小さく震えている。


「……わたし」


 少女がかすれた声で言った。


「何を……したの……」


 ミカゲは歯を食いしばった。


 裁かれても、まだ思い出していない。


 世界が有罪だと言っても、本人は何もわからないまま。


 それが、どうしようもなく腹立たしかった。


 どうしようもなく、哀れだった。


 そして、その哀れさすら許せなかった。


「終わらせるぞ」


 グランが言った。


 その声は重かった。


 討つと決めた者の声だった。


 ライトが一歩前に出る。


「動けるうちに封じる。抵抗があれば斬る」


 フェリクスが風を集める。


「退路はない」


 エイルは少し下がった。


 その手は、まだわずかに震えていた。


 ミカゲは剣を構える。


 少女は地面に倒れたまま、こちらを見上げた。


 その目に、涙が溜まっている。


 黒い霧が、また少女の周囲に滲み始めた。


 焼かれてなお、力は消えていない。


 むしろ、傷ついたことで暴れ出そうとしている。


「……いやだ」


 少女が呟いた。


「もう、いやだ……」


 黒い霧が膨らむ。


 グランが踏み込んだ。


 ライトが合わせる。


 ミカゲも、遅れないように足を出した。


 少女は泣きながら、また力を放った。


 白い石粉が黒く染まる。


 採石場の空気が死に近づく。


 裁きは終わった。


 けれど、終わりはまだ来ていない。


 ミカゲは剣を握り、前を見た。


 この先にあるものが、復讐なのか、処刑なのか、救いなのか。


 まだ、わからなかった。


 それでも。


 あの少女を、このまま生かしておくことだけはできない。


 ミカゲは息を吸った。


 そして、最後の一歩を踏み出した。

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