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第16話「絶望を捧げる」

 黒い霧が、採石場を這った。


 白かった石粉が、足元から少しずつ汚れていく。


 少女は立ち上がろうとしていた。


 裁きに焼かれ、膝も腕も震えている。


 それでも、まだ立とうとしていた。


 ミカゲはその姿を見て、剣を握る手に力を込めた。


 もう、終わってほしかった。


 立たないでほしかった。


 これ以上、何かを壊す前に。


 これ以上、自分の中の何かが揺れる前に。


「来るぞ」


 ライトが短く言った。


 少女の周囲に滲んでいた黒い霧が、一気に膨れ上がった。


 グランが前に出る。


 剣を横に構え、地面を蹴った。


「フェリクス!」


「わかっている!」


 フェリクスが片手を振る。


 採石場の空気がねじれ、黒い霧の流れを横から押し潰した。


 霧が完全に消えるわけではない。


 けれど、進む向きがわずかに逸れる。


 その隙をグランは逃さなかった。


 少女の懐へ飛び込み、剣を振るう。


 刃が少女の肩を裂いた。


「っ、ああ!」


 少女が叫ぶ。


 黒い力が反射のように噴き出した。


 グランはすぐに身を引こうとする。


 だが、間に合わない。


 黒い霧が腕に絡みつく寸前、ライトが割り込んだ。


 盾が霧を受け止める。


 ぎしり、と嫌な音がした。


「無茶をするな」


「助かった!」


「礼は後でいい」


 ライトは盾を構えたまま、少女を押し返す。


 少女はよろめいた。


 その足元を、フェリクスの風が払う。


 体勢が崩れる。


「ミカゲ!」


 グランの声。


 ミカゲはもう走っていた。


 剣を低く構える。


 狙うのは足。


 殺すためではない。


 動きを止めるため。


 そう自分に言い聞かせながら、ミカゲは少女の膝近くを斬った。


 血が散る。


 少女が地面に倒れ込んだ。


「痛い……!」


 その声に、ミカゲの奥歯が鳴った。


 痛い。


 そんなの、当たり前だ。


 痛くした。


 痛くするために斬った。


 なのに、どうして自分の胸まで痛むのか。


 ミカゲは、その感覚を押し殺した。


「立たないで」


 声が漏れた。


「もう、立たないでよ……」


 少女は顔を上げた。


 涙で濡れた目が、ミカゲを見た。


「なんで……」


 少女は震えながら言う。


「なんで、そんな目で見るの……?」


 ミカゲの手が止まりかける。


 ライトがすぐに横へ入った。


「気を抜くな」


「……はい」


 返事をしながら、ミカゲは一歩下がった。


 気を抜くな。


 わかっている。


 相手は両親を殺した。


 祖母も殺した。


 街を壊した。


 裁きも有罪を示した。


 わかっている。


 わかっているのに。


 目の前にいるのは、どうしようもなく怯えた少女だった。


 黒い霧がまた膨らむ。


 エイルが手をかざした。


 傷ついたグランの腕に光が宿る。


「グラン、まだ動ける?」


「当然」


「ほんと丈夫だねぇ」


 エイルは軽く言った。


 けれど、その声にもいつもの余裕は薄い。


「じゃあ、もう一回。長引かせるとこっちがもたないよ」


「わかってる」


 グランは剣を握り直す。


 少女はその様子を見て、ずるずると後ずさった。


 背中が岩にぶつかる。


 逃げ場はない。


「いや……」


 小さな声だった。


「もう、いや……」


 その言葉と同時に、黒い霧が形を変えた。


 槍のように尖り、四方へ走る。


 ライトが盾を広げるように構えた。


 見えない壁が張られる。


 霧の槍が弾かれ、砕ける。


 だが、一本だけが横へ抜けた。


 ミカゲの頬をかすめる。


 熱い痛み。


 血が垂れた。


「ミカゲ!」


 グランが叫ぶ。


「大丈夫です!」


 ミカゲはすぐに返した。


 それくらい、どうでもよかった。


 頬の痛みよりも、胸の奥の熱の方がずっと強い。


 少女はミカゲの血を見て、顔を歪めた。


「ちがう……私は、そんなつもりじゃ……」


「じゃあ何のつもりだったの」


 ミカゲは低く言った。


 少女がびくりと震える。


「あの日も、そうだったの? そんなつもりじゃなかったって言うの? 私のお父さんも、お母さんも、おばあちゃんも」


 言葉を吐くたび、喉が焼ける。


「そんなつもりじゃなかったなら、返してよ」


 少女は何も言えない。


 言えるはずがない。


 返せるものなら、とっくに返している。


 それくらいミカゲにもわかっていた。


 だから余計に腹が立った。


 どうにもならないことばかりだった。


 どうにもならないものを、誰かのせいにしたかった。


 目の前の少女は、その全部を背負うのにちょうどよかった。


 いや。


 背負わせるしかなかった。


「返してよ!」


 ミカゲが叫んだ瞬間、少女の目が大きく開いた。


 何かが割れるように、その表情が変わる。


「返す……?」


 少女が呟く。


「返す……返さないと……」


 声がかすれる。


「私が、もらったから……?」


 その言葉に、英雄たちの動きが一瞬だけ鈍った。


 意味がわからない。


 誰もわからない。


 少女自身も、わかっていないようだった。


 ただ、口からこぼれている。


「もらったものは……捨てちゃだめで……」


 少女は自分の胸を押さえる。


「でも、なんで……誰から……?」


 黒い霧が乱れる。


 今までのような攻撃ではない。


 少女の内側で暴れているようだった。


 フェリクスが眉をひそめる。


「記憶の混濁か……?」


「どうでもいい」


 グランが言った。


 声は鋭い。


「止めるぞ」


 その言葉に、ミカゲは頷いた。


 どうでもいい。


 そうだ。


 今さら何を思い出そうが、変わらない。


 変えられてたまるか。


 グランが踏み込む。


 少女は反射的に腕を振った。


 黒い霧が刃のように伸びる。


 グランはそれを受け流し、肩口へ斬り込む。


 少女がよろけたところへ、ライトが盾で押し込む。


 岩壁に叩きつける。


 鈍い音がした。


「かはっ……」


 少女の息が詰まる。


 そこへフェリクスの風が絡みついた。


 手足の動きを縛るように。


「長くはもたない!」


「十分だ」


 ライトが短く返す。


 グランが剣を引いた。


 ミカゲも剣を構える。


 少女は岩壁に押しつけられたまま、目だけを動かした。


 グランを見る。


 ライトを見る。


 エイルを見る。


 フェリクスを見る。


 最後に、ミカゲを見る。


 そのたびに、顔が苦しそうに歪んだ。


「なんで……」


 またその言葉。


「なんで、あなたたちを見ると……」


 少女の声が震える。


「苦しいの……?」


 ミカゲは息を止めた。


 少女の目は、怯えているだけではなかった。


 どこか遠くを見ている。


 ここではない場所。


 今ではない何か。


「知らない人なのに……」


 少女は泣きそうな顔で続ける。


「知らないはずなのに……なんで……」


 黒い霧が弱まる。


 フェリクスの風がさらに締まる。


 少女の身体が岩壁に押さえつけられた。


 エイルが一歩前に出る。


「もう、限界だね」


 その声は静かだった。


「力も、心も。どっちも崩れかけてる」


 ミカゲは少女を見つめた。


 崩れかけている。


 なら、あと少しだ。


 あと少しで終わる。


 そう思ったはずなのに、喉の奥が重かった。


 少女は首を振る。


「いや……終わりたくない……」


 その言葉に、グランの眉がわずかに動く。


 少女は自分でも驚いたような顔をした。


「終わりたく、ない……?」


 自分の言葉を、自分で確かめるように。


「でも、もう……」


 少女の頬を涙が落ちる。


「もう疲れた……」


 ミカゲの中に、言葉にならないものが沈んだ。


 疲れた。


 その声は、とても小さかった。


 けれど、採石場の中で妙にはっきり聞こえた。


 少女は笑おうとした。


 笑えなかった。


 口元だけが歪んだ。


「私、なんでここまで生きてるの……?」


 ミカゲの背筋が冷たくなる。


「なんで……死ななかったんだろう……」


 誰も答えない。


 答えられる者がいなかった。


 少女の視線が、ミカゲの剣へ落ちる。


 その刃を見て、また何かを思い出しかけたように、顔を歪めた。


「剣……」


 少女が呟く。


「嫌だ……」


 ミカゲの手に力が入る。


「嫌なら、なんで私たちから奪ったの」


 少女はミカゲを見る。


「……奪った?」


「私の全部を」


 ミカゲは言った。


 声は震えていた。


「お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも。全部」


 少女の唇が動く。


 声にならない。


「返せないなら」


 ミカゲは剣を上げた。


「せめて苦しんでよ」


 グランが横目でミカゲを見る。


 何かを言おうとしたのかもしれない。


 けれど、言わなかった。


 ライトも黙っていた。


 この場でその言葉を止める資格がある者など、誰もいなかった。


 少女の顔が、壊れたように歪んだ。


「苦しんでるよ……」


 か細い声だった。


「ずっと、苦しいよ……」


 ミカゲの呼吸が止まりかける。


 少女は泣きながら続けた。


「何が苦しいのかも、わからないのに……ずっと……」


 その瞬間、黒い霧が爆ぜた。


 フェリクスの風が破られる。


「まずい!」


 少女の身体から、黒い力が四方へ噴き出した。


 グランがミカゲの前へ出る。


 ライトが盾を構える。


 エイルが防御の光を張る。


 霧がぶつかり、採石場全体が震えた。


 岩が砕ける。


 石粉が舞う。


 視界が白と黒で埋まる。


「くそっ、まだこれだけ出るのか!」


 グランの声が飛ぶ。


「力任せだ! 精度はない!」


 フェリクスが叫ぶ。


「なら押し切る!」


 ライトが前に出た。


 盾で霧を受けながら、一歩、一歩と少女へ近づく。


 グランがその横を走る。


 ミカゲも続く。


 恐怖はあった。


 足が竦みそうになる。


 けれど、それ以上に、ここで止まれないという思いがあった。


 少女はもう立っていなかった。


 岩壁にもたれ、座り込んでいる。


 それでも力だけが暴れていた。


 まるで本人を守ろうとしているように。


 いや。


 本人を逃がさないようにも見えた。


 ミカゲは黒い霧をかいくぐり、前へ進む。


 頬の傷が熱い。


 腕にも細かい傷が増えていく。


 エイルの光が遠くから届き、すぐに塞がる。


 そのたびに、また前へ出る。


 少女の目がミカゲを捉えた。


「来ないで……」


 ミカゲは止まらない。


「来ないでよ……」


 少女の声がひどく幼く聞こえた。


「もう、何もしたくない……」


 ミカゲは歯を食いしばる。


 何もしたくない。


 なら、最初からしなければよかった。


 そう思った。


 けれど、その言葉が喉から出る前に、グランが少女の右腕を斬った。


 深くはない。


 武器を落とさせるような一撃。


 だが少女は武器など持っていない。


 それでも黒い霧が一瞬弱まる。


 ライトが盾で少女の身体を押さえた。


 フェリクスの風が再び腕と足を縛る。


 エイルの光が、暴れる黒を外側から抑え込む。


 四人の英雄が、少女ひとりを押さえつけている。


 それでも、ぎりぎりだった。


「ミカゲ!」


 グランが叫んだ。


 ミカゲは剣を構えた。


 少女の目が、ミカゲを見上げる。


 濡れた目。


 傷だらけの顔。


 水色の髪は石粉と血で汚れて、もう綺麗な色には見えなかった。


「……いやだ」


 少女が言った。


 小さく。


「もう、いやだ……」


 ミカゲは剣を振り下ろそうとした。


 けれど、その瞬間、少女が呟いた。


「私が、何をしたの……?」


 また。


 またそれだ。


 ミカゲの中で何かが切れた。


「まだ言うの……!」


 剣が少女の肩を裂いた。


 少女が悲鳴を上げる。


 ミカゲは止まらなかった。


「まだ、わからないって言うの!」


 もう一撃。


 今度は足。


 少女の身体が崩れる。


 グランが一瞬、ミカゲを止めようと動きかけた。


 だがライトが目で制した。


 今止めれば、少女の力がまた暴れる。


 ミカゲは息を荒げながら、少女を見下ろした。


 少女は地面に倒れていた。


 立てない。


 逃げられない。


 もう、ほとんど抵抗もできない。


 黒い霧だけが、弱々しく周囲を漂っている。


「思い出してよ……」


 ミカゲの声は震えていた。


「思い出して、謝ってよ……」


 少女はミカゲを見上げる。


 唇が震える。


「ごめ……」


 その言葉に、ミカゲの心臓が跳ねた。


「ごめん……なさい……」


 少女は泣いていた。


 何に謝っているのかも、わからないまま。


 ただ、謝っていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 ミカゲは剣を握ったまま、動けなくなった。


 それが欲しかったはずだった。


 謝罪が。


 後悔が。


 苦しみが。


 なのに、足りなかった。


 何も満たされなかった。


 謝られても、誰も帰ってこない。


 苦しませても、何も戻らない。


 それでも、止めることもできなかった。


 エイルが静かに言う。


「……もう、終わらせた方がいい」


 グランが頷いた。


 ライトも盾を下ろさずに言った。


「これ以上は、どちらにも残酷だ」


 フェリクスは目を細め、風を保ったまま黙っている。


 ミカゲは少女を見る。


 少女はもう、ほとんど声にならない声で呟いていた。


「なんで……」


「どうして……」


「わからない……」


「痛い……」


「こわい……」


 ひとつひとつが、ミカゲの耳に残った。


 少女は目を閉じかける。


 でも、すぐに開く。


 眠ることすら許されないみたいに。


「誰か……」


 小さく聞こえた。


 ミカゲは息を止める。


 少女は続けなかった。


 ただ、涙だけが落ちた。


 まだだ。


 まだ、その言葉ではない。


 なぜそんなことを思ったのか、ミカゲ自身にもわからなかった。


 けれど、胸の奥で何かが静かに震えた。


 少女は限界だった。


 身体も。


 心も。


 立ち上がる理由も。


 憎む理由も。


 生きる理由も。


 全部が削られていた。


 グランが剣を構える。


 ライトが少女の動きを押さえる。


 フェリクスが風を締める。


 エイルが最後の暴発に備えて光を広げる。


 ミカゲは、剣を握り直した。


 少女の目が、またミカゲを見る。


 その目にはもう、憎しみも怒りもなかった。


 ただ、どうしようもなく疲れ切った色だけがあった。


「……君は」


 少女がかすれた声で言った。


「私の、何……?」


 ミカゲは答えなかった。


 答えられなかった。


 少女は、泣きそうに笑った。


 笑ったように見えただけかもしれない。


「なんで……こんなに、苦しいの……?」


 ミカゲの手が震える。


 剣先がわずかに揺れた。


 少女はもう、ミカゲを責めていなかった。


 誰も責めていなかった。


 ただ、わからない痛みの中で、最後の言葉を探している。


 採石場に、風が吹いた。


 白い石粉が舞う。


 黒い霧は、細く、薄くなっていく。


 終わりが近い。


 誰の目にも、それはわかった。


 ミカゲは一歩踏み出す。


 少女のそばへ。


 剣を上げる。


 今度こそ、終わらせるために。


 少女はミカゲを見上げたまま、唇を震わせた。


 その言葉はまだ出ない。


 でも、もうすぐそこにあった。


 復讐の終わり。


 裁きの終わり。


 そして、ミカゲがまだ知らない何かの始まりが。


 喉元まで、来ていた。

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