第17話「私が助けに行くよ」
ミカゲは、剣を振り上げたまま動けなかった。
目の前の少女は、もう逃げようともしていない。
黒い霧は薄く、頼りなく、地面の上を這っているだけだった。
さっきまで採石場を呑み込もうとしていた力が、嘘みたいに弱っている。
少女の身体は傷だらけだった。
肩も、腕も、足も。
裁きに焼かれた肌は痛々しく、呼吸も浅い。
なのに、少女の目だけがミカゲを見ていた。
ずっと。
縋るように。
責めるように。
あるいは、本当に何もわからない子供のように。
「君は……」
少女の唇が震えた。
「私の、何……?」
ミカゲは答えなかった。
答えられるはずがなかった。
仇。
そう言えばいい。
両親を殺した相手。
祖母を奪った相手。
街を壊した相手。
それだけのはずだった。
それ以外に、何があるというのか。
なのに、喉が動かなかった。
「なんで……こんなに、苦しいの……?」
少女は泣いていた。
涙は頬を伝い、石粉に汚れた顔に細い跡を残す。
「私に……何をしたの……?」
その声に、ミカゲの胸の奥がひどく軋んだ。
何もしていない。
そう思った。
自分は奪われただけだ。
壊されただけだ。
追いかけて、追い詰めて、裁きを与えようとしているだけだ。
けれど、少女の言葉はまるで。
ずっと前から、ミカゲに何かをされたみたいだった。
グランが低く言う。
「ミカゲ」
その声に、ミカゲはわずかに肩を揺らした。
「終わらせろ」
厳しい声ではなかった。
急かしているわけでもない。
ただ、これ以上は誰にも耐えられないと、そう告げる声だった。
ライトは盾を構えたまま、少女を見ている。
いつでも動けるように。
フェリクスは風を維持していた。
少女の手足を縛る風。
今にも途切れそうな黒い力を、最後まで逃がさないための風。
エイルは少しだけ顔を伏せていた。
いつもの軽さは、もうどこにもない。
「……ミカゲちゃん」
エイルが言った。
「君が、決めて」
ミカゲは剣を握り直した。
自分が決める。
ここまで来た。
このために生きてきた。
あの日、燃えるような憎しみの中で、剣を握った。
この少女に、自分と同じか、それ以上の絶望を与えるために。
そして殺すために。
そのために強くなった。
そのために息をしてきた。
なら、迷うな。
迷う資格なんてない。
ミカゲは一歩、少女に近づいた。
少女はびくりと震える。
それでも、逃げない。
逃げられない。
ミカゲは剣先を少女の胸へ向けた。
少女の呼吸が乱れる。
「……いや」
かすれた声。
「いやだ……」
ミカゲの奥歯が鳴った。
いやだ?
自分だって嫌だった。
両親を奪われるのも。
祖母を失うのも。
何度も何度も夢に見て、起きるたびに現実だと思い知らされるのも。
全部、嫌だった。
「私だって」
ミカゲは言った。
「嫌だったよ」
少女の目が揺れる。
「お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも。みんな、いなくなった」
言葉にするだけで、胸が裂けるようだった。
「何回も、返してって思った」
剣先が震える。
「何回も、どうしてって思った」
少女は何も言わない。
ただミカゲを見ている。
「だから」
ミカゲは息を吸った。
「終わらせる」
少女の顔がくしゃりと歪んだ。
泣くでも、叫ぶでもない。
ただ、もうどうしていいかわからない顔だった。
「わからない……」
少女が呟く。
「何も……わからない……」
黒い霧が、少女の周りで弱々しく揺れた。
「なんで、私が……」
その言葉は途中で途切れた。
少女は胸元を押さえた。
何かを探すように。
失くしたものを、もう一度確かめるように。
「また……」
少女が言う。
「また、これが続くの……?」
ミカゲは眉を寄せた。
また。
続く。
何の話をしているのか、わからなかった。
少女自身もわかっていないようだった。
けれど、その言葉には妙な重みがあった。
一度ではない。
この場だけではない。
そんな、ありえない響きがあった。
「私は……」
少女の声がさらに小さくなる。
「私は、なんで……」
フェリクスの風が揺れた。
「意識が落ちかけている」
彼は冷静に言った。
「もう長くない」
ミカゲは頷いた。
なら、今だ。
今、終わらせる。
少女は最後の力で、ミカゲへ手を伸ばそうとした。
けれど、指先は上がらない。
地面の石粉を弱く掻いただけだった。
「君は……」
少女はまた言った。
「私の、何……?」
ミカゲは目を伏せなかった。
「お前は、私の仇だ」
そう言った瞬間、少女の目からまた涙がこぼれた。
「そっか……」
少女は小さく笑った。
笑ったのに、ひどく悲しそうだった。
「そう、なんだ……」
その声に、ミカゲの胸が締めつけられる。
なぜだ。
なぜそんな顔をする。
なぜ、自分の方が傷ついたような顔をする。
なぜ、まるで。
本当はそうじゃないと、言ってほしそうな顔をする。
「ミカゲ」
ライトの声。
ミカゲは剣を構え直した。
もう迷うな。
復讐を終わらせろ。
この少女を討て。
これ以上、誰にも何も奪わせるな。
ミカゲは剣を引いた。
少女の胸元へ、刃を向ける。
少女は逃げなかった。
ただ、ミカゲを見ていた。
その目が、少しだけ緑に見えた気がした。
いや、違う。
ミカゲ自身の視界が、ほんの一瞬だけ淡く染まったのだ。
採石場の白い石。
黒い霧。
英雄たち。
倒れた少女。
その全部の輪郭が、薄い緑の光を帯びる。
ミカゲは目を見開いた。
何だ。
まただ。
流転を使ったあの時と同じ。
視界の奥で、何かが開くような感覚。
それでも、身体は止まらなかった。
止められなかった。
剣が動く。
少女の胸を貫いた。
柔らかい感触。
骨に当たる硬さ。
肉を裂く音。
少女の身体が小さく跳ねた。
「あ……」
息が漏れた。
黒い霧が、少女の身体から一気に抜けていく。
地面へ落ち、薄く広がり、やがて消えていく。
フェリクスの風も止まった。
ライトが盾を下ろす。
グランが剣を下げる。
エイルは唇を噛んだまま、何も言わなかった。
ミカゲは剣を握ったまま、少女を見下ろしていた。
終わった。
終わったはずだった。
少女は胸を貫かれたまま、ミカゲを見ている。
その瞳から、だんだん光が消えていく。
「……わからない」
少女が言った。
もう声とは呼べないほど小さい。
「君は……私の何……?」
ミカゲは答えなかった。
少女はそれでも続けた。
「なんで……こんなに……」
呼吸が途切れる。
胸の奥で、血が絡む音がした。
「苦しいの……?」
ミカゲの手が震える。
剣を抜けなかった。
抜いたら、本当に終わってしまう気がした。
何を今さら。
終わらせたかったのは自分なのに。
「私に……何をしたの……?」
少女の指が、ほんの少しだけ動いた。
ミカゲの服の裾に触れる。
掴む力なんてない。
ただ、触れただけ。
それだけなのに、ミカゲは息ができなくなった。
少女の目が揺れる。
遠くを見るように。
今ではないどこかを見るように。
「また……これが続くの……?」
ミカゲは何も言えない。
何もわからない。
少女は涙を流した。
もう、痛みによるものなのか、悲しみによるものなのかもわからなかった。
「誰か……」
その声が、採石場の底に落ちた。
ミカゲの心臓が大きく鳴る。
少女は最後の力で、ミカゲを見た。
「助けて……」
時間が止まった気がした。
風も。
石粉の舞う音も。
遠くで崩れた岩の欠片が転がる音も。
何もかもが、ひどく遠くなった。
助けて。
その言葉だけが、ミカゲの中に残った。
少女の瞳から光が消える。
服の裾に触れていた指が、力なく落ちる。
黒い霧はもうない。
少女は動かない。
ミカゲは、剣を握ったまま立ち尽くしていた。
復讐は終わった。
あれほど望んだ終わりが、そこにあった。
なのに。
何も満たされなかった。
胸の奥にあるのは、空っぽの穴だけだった。
「……終わった」
グランが低く呟いた。
誰に向けた言葉でもなかった。
ライトは少女の亡骸を見下ろし、静かに目を伏せた。
フェリクスは何かを考えるように眉を寄せている。
エイルは一度だけ深く息を吐いた。
「……救えなかったね」
乾いた声だった。
ミカゲはその言葉を聞いて、ようやく剣を抜いた。
少女の身体が地面に崩れる。
水色の髪が、白い石粉の上に広がった。
血がゆっくりと染み込んでいく。
ミカゲは剣を下ろす。
手が震えている。
止まらない。
「……なんで」
ミカゲは呟いた。
誰にも聞こえないくらいの声で。
「なんで、最後に……」
助けて。
仇が言う言葉じゃない。
殺される間際に言う言葉じゃない。
少なくとも、ミカゲに向ける言葉ではない。
そう思いたかった。
なのに、あの少女はミカゲを見ていた。
ミカゲに向かって、助けてと言った。
「何なんだよ……」
ミカゲは歯を食いしばった。
涙は出なかった。
泣く理由がわからなかった。
怒りも、憎しみも、悲しみも、全部がぐちゃぐちゃに絡まって、何ひとつ形にならない。
ただ、胸の奥が痛かった。
その時だった。
頭の奥で、声がした。
――思い出せ。
ミカゲは顔を上げた。
「……え?」
英雄たちは誰も口を開いていない。
グランも。
ライトも。
フェリクスも。
エイルも。
誰も、そんなことは言っていない。
なのに、声は確かに聞こえた。
――今の「助けて」の意味を。
ミカゲの視界が、また淡い緑に染まった。
今度は一瞬ではなかった。
採石場の輪郭が、遠ざかっていく。
グランの声が聞こえた。
「ミカゲ?」
ライトが何かを言う。
エイルがこちらへ駆け寄ろうとする。
フェリクスが目を見開き、何かに気づいたように叫んだ。
けれど、もう聞こえない。
世界が薄くなっていく。
足元の感覚が消える。
剣の重みも。
血の匂いも。
石粉のざらつきも。
全部が遠くなっていく。
「待っ……」
ミカゲは手を伸ばそうとした。
何に向けて伸ばしたのか、自分でもわからなかった。
倒れた少女へか。
英雄たちへか。
それとも、今聞こえた声へか。
視界が白く弾けた。
次に目を開けた時、そこに採石場はなかった。
空もない。
地面もない。
あるのは、どこまでも続く暗い空間。
けれど、完全な闇ではなかった。
遠くに、無数の扉のようなものが浮かんでいる。
それぞれが淡く光り、静かに揺れていた。
ミカゲは息を呑む。
足元はある。
けれど、床があるわけではない。
立っている感覚だけがある。
剣は手の中にあった。
血もついている。
さっきまでのことが夢ではないと、嫌でもわかる。
「ここは……」
ミカゲは周囲を見回した。
誰もいない。
グランも、ライトも、フェリクスも、エイルも。
倒れた少女も。
いない。
あるのは扉だけ。
数え切れないほどの扉。
その向こうから、かすかに声が聞こえる気がした。
泣き声。
叫び声。
笑い声。
雨の音。
剣の音。
誰かが誰かの名前を呼ぶ声。
その全部が混ざって、意味を失っている。
ミカゲは一歩踏み出した。
扉のひとつが、かすかに光る。
淡い緑の光。
ミカゲの胸の奥が、嫌なほど強く脈打った。
助けて。
最後の言葉が、耳から離れない。
仇の言葉。
殺した相手の言葉。
なのに。
どうしてこんなにも、胸に残るのか。
「……何なんだよ」
ミカゲはもう一度呟いた。
声は暗い空間に吸い込まれていく。
「私は、終わらせたんだぞ……」
誰も答えない。
「殺したんだぞ……」
扉の光が強くなる。
ミカゲは剣を握りしめた。
怖かった。
知らない場所にいることが、ではない。
この先に、自分の知らない答えがあることが怖かった。
あの少女の「助けて」に、意味があったのだとしたら。
自分は何をしたのか。
何を終わらせてしまったのか。
ミカゲは唇を噛む。
血の味がした。
それでも、足は止まらなかった。
扉の前に立つ。
手を伸ばす。
触れる直前、また声が聞こえた。
――助けて。
ミカゲは目を閉じた。
あの少女の声だった。
憎いはずの声。
忘れられない声。
そして、どうしても放っておけない声。
ミカゲは扉に手を触れた。
淡い緑の光が溢れる。
「ここは……」
ミカゲは、震える声で言った。
「どこだ……?」
扉が開いた。
光が、ミカゲを呑み込んだ。
これにて第1部は終了です!
次回は第2部からの始まりとなり、色々明かされていくと思うので、ぜひこの1部の存在を少しでも覚えてもらっていたら幸いです。




