第1話「私の夢」
ここから第2部です
ミカゲとは別視点の少女から物語は始まるので、よろしくお願いします!
鍋の蓋が、かたかたと小さく鳴っていた。
湯気が天井へ昇っていく。
薄く開いた扉の向こうから、火の匂いと、野菜の甘い匂いと、母の鼻歌が流れてくる。
ツカサは寝床の上で、それを聞いていた。
起き上がろうとして、胸の奥がきゅっと痛んだ。
息が少しだけ詰まる。
だから、やめた。
無理をすると母に怒られる。
父には心配そうな顔をされる。
ツバサには、泣きそうな顔で布団を掛け直される。
そんな顔を見るくらいなら、ここで大人しくしていた方がいい。
「ツカサ、起きてる?」
扉の向こうから、母の声がした。
「うん。起きてる」
ツカサは返事をする。
少しだけ明るく聞こえるように。
少しだけ元気そうに聞こえるように。
それくらいは、もう上手になっていた。
扉が開いて、母が顔を覗かせる。
手には木の匙を持っていて、頬には少しだけ粉がついていた。
「体、つらくない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当」
母は困ったように笑った。
大丈夫、という言葉を信じていない顔だった。
ツカサはその顔を見るたびに、少しだけ申し訳なくなる。
けれど、大丈夫ではないと言ったところで、母にできることが増えるわけではない。
なら、大丈夫と言った方がいい。
その方が、母は少しだけ笑える。
「今日はね、ツバサが手伝ってくれてるの」
「ツバサが?」
「うん。すごく張り切ってる」
その言葉とほとんど同時に、台所の方から大きな音がした。
がしゃん、と。
母は一度、目を閉じた。
「あら」
「……大丈夫?」
「たぶん」
母はそう言って、慌てて台所へ戻っていった。
少し遅れて、ツバサの声が聞こえる。
「ご、ごめんなさい! 落としただけ! 割れてない! たぶん!」
「たぶんって言わないの、ツバサ」
「だって割れてないように見えるもん!」
「見える、じゃなくて、ちゃんと見て」
「見てる!」
ツカサは布団の中で、小さく笑った。
ツバサは、あまり器用ではない。
同じ顔をしているのに、いろんなことが違った。
ツカサは本を読むのが好きだった。覚えるのも早かった。教えられたことは、大抵すぐにできた。
けれど、体が弱かった。
ツバサは走るのが好きだった。転ぶのも早かった。教えられたことは、大抵一度は間違えた。
けれど、いつも元気だった。
それでよかった。
ツバサが元気に走っているのを見るのは、嫌いじゃない。
むしろ好きだった。
自分の分まで外を走っているように見えたから。
「お姉ちゃーん!」
今度はツバサが顔を覗かせた。
水色の髪が、ところどころ跳ねている。
頬には母よりも多く粉がついていた。何をどうすればそうなるのか、ツカサには少しわからなかった。
「見て! 今日は私も手伝ってる!」
「見たらわかるよ」
「えへへ。えらい?」
「うん。えらい」
ツバサはそれだけで、ぱっと笑った。
その笑顔を見ると、ツカサはいつも胸の奥がやわらかくなる。
羨ましいと思ったことはある。
けれど、嫌いになったことは一度もない。
ツバサはツバサだ。
自分の、大切な妹だ。
「お姉ちゃんも来る?」
「今日は、ちょっと無理かな」
「そっか」
ツバサは少しだけ寂しそうな顔をした。
でも、すぐに笑い直す。
「じゃあ、私が持ってきてあげる!」
「こぼさないでね」
「こぼさない!」
その自信は、あまり信用できなかった。
ツカサが黙って見ていると、ツバサは少しむっとする。
「なにその顔」
「別に」
「今、絶対こぼすって思ったでしょ」
「思ってないよ」
「嘘だ!」
「ちょっとだけ」
「お姉ちゃん!」
ツバサは頬をふくらませた。
それから、また台所へ走って戻っていく。
走らないで、と母が言った。
はーい、とツバサが返事をした。
返事の直後に、また足音が速くなった。
ツカサは布団の上で、天井を見上げる。
この家は、あたたかい。
外に出られない日が多くても。
寝ている時間の方が長くても。
父と母とツバサの声が聞こえるなら、それだけでよかった。
それだけで、十分だと思っていた。
でも。
台所から聞こえる音に耳を澄ませていると、少しだけ胸が疼く。
鍋をかき混ぜる音。
皿を並べる音。
母が味見をして、少し悩む声。
ツバサが何かを褒められて、嬉しそうに笑う声。
ツカサは、それを見ているだけだった。
いつも、見ているだけ。
それが嫌だと思ったことは、何度もある。
「私も……」
小さく呟く。
誰にも聞こえないくらいの声だった。
私も、作ってみたい。
ただ食べるだけじゃなくて。
ただ運んでもらうだけじゃなくて。
誰かのために、何かを作ってみたい。
たとえば、家に帰ってきた人に、あたたかいご飯を出す。
お腹を空かせた子供に、たくさん食べなさいと言う。
その子が笑って、お母さんの作るご飯が一番おいしいと言ってくれる。
そんなことを、考えた。
とても小さな夢だった。
英雄になりたいわけじゃない。
誰かに褒められたいわけでもない。
ただ、あたたかい家があって。
そこに帰ってくる人がいて。
その人のために、料理を作る。
年を取ったら、今度は孫に作ってあげる。
おばあちゃんのご飯が好きだと言われたら、きっと嬉しい。
それだけでいい。
それだけで、ツカサはよかった。
「お姉ちゃん!」
ツバサがまた顔を出す。
今度は両手で皿を持っていた。
母が後ろから、危なっかしいものを見る顔でついてきている。
「できたよ!」
皿の上には、少し形の崩れた卵料理が乗っていた。
「ツバサが作ったの?」
「うん! ちょっとだけ!」
「ちょっとだけね」
母が横から付け足した。
「ほとんどお母さんがやったけど、私は応援した!」
「それは手伝ったって言うのかな」
「言うよ!」
ツバサは当然のように言った。
ツカサは笑って、体を少し起こす。
母がすぐに背中に手を添えてくれた。
「無理しなくていいのよ」
「大丈夫。食べたい」
「なら、少しだけね」
皿を膝の上に置かれる。
湯気が立っていた。
卵と塩の匂いがする。
ツカサは匙を持って、ひと口食べた。
少ししょっぱかった。
火の通りも、少しだけ硬い。
でも。
「おいしい」
そう言うと、ツバサが目を輝かせた。
「本当!?」
「うん」
「やった!」
ツバサは両手を上げて喜んだ。
母も笑っている。
ツカサはもう一口食べる。
おいしい、と思った。
味だけじゃない。
きっと、そういうことではないのだと思う。
誰かが自分のために作ってくれたものは、あたたかい。
だからいつか、自分も。
誰かに、そう思ってもらえるものを作りたい。
「お姉ちゃん?」
「なに?」
「大きくなったらさ」
ツバサは寝床の横に座って、にこにこと笑う。
「一緒にご飯作ろうね」
ツカサは少しだけ目を丸くした。
それから、ゆっくり頷いた。
「うん」
その約束が、どれくらい先のものなのかはわからない。
叶うのかもわからない。
それでも、ツバサが当たり前みたいに言ってくれたから。
その未来が、本当にあるような気がした。
「約束ね」
「約束」
ツバサが小指を差し出す。
ツカサも、細い小指を絡めた。
母がそれを見て、少しだけ目を細める。
台所から、父の声がした。
「おーい、こっちはもう食べていいのか?」
「ちょっと待って。今行くから」
「父さん、先に食べちゃだめだよ!」
「わかってるって」
「絶対わかってない!」
ツバサがばたばたと部屋を出ていく。
母も笑いながら、その後を追った。
扉が少しだけ開いたままになる。
そこから、家族の声が流れてくる。
ツカサは皿を抱えたまま、そっと笑った。
私の夢。
それは、きっと大きなものではない。
誰かを救うことでも。
世界を変えることでも。
英雄になることでもない。
ただ、あたたかい家で。
大切な人と食卓を囲むこと。
誰かのために料理を作って。
おいしい、と笑ってもらうこと。
それだけでよかった。
それだけで、よかったのだ。




