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第2話「産声」

 シス村は、静かな村だった。


 王都から見れば地図の端に小さく記されるだけの場所で、旅人がわざわざ足を運ぶような名所もなければ、大きな商いが生まれるような道もない。


 畑があり、家があり、井戸があり、季節ごとの祭りがある。


 それだけの村だった。


 けれど、その村にはひとつだけ、他の村とは違うものがあった。


 祈りだ。


 村の中央には、小さな祠がある。


 立派なものではない。石を積み、古びた布をかけ、枯れないように花を供える。ただそれだけの場所。


 そこに祀られているのは、死の英雄だった。


 かつて世界を救った六人の英雄。


 剣の英雄。


 盾の英雄。


 風の英雄。


 癒しの英雄。


 豊穣の英雄。


 そして、死の英雄。


 そのうち最後のひとりだけは、語られる時、いつも少しだけ声が低くなる。


 死を司る力。


 命を奪う力。


 戦場では恐れられ、味方には頼られ、敵には憎まれた力。


 救いのために使われたはずのそれは、いつの時代からか、忌むべきものとしても語られるようになった。


 それでも、シス村の者たちは死の英雄を恐れなかった。


 むしろ、敬った。


 命を奪う力がなければ、守れない命もある。


 死を背負った者がいたから、生き残った者がいる。


 村の老人たちは、子供たちにそう教えた。


 だから、この村では死の英雄を悪く言う者はいなかった。


 少なくとも、表向きは。


     *


 ツカサたちの両親がシス村に来たのは、双子が生まれる少し前のことだった。


 父は穏やかな人だった。


 背が高く、声が低く、笑うと目尻に皺が寄る。怒鳴ることはほとんどなく、困ったように笑ってから、相手の話を最後まで聞くような人だった。


 母はよく喋る人だった。


 明るくて、よく笑って、でも大事なところでは絶対に退かない。細い腕で大きな荷物を抱えながら、「大丈夫、大丈夫」と言って本当にどうにかしてしまう人だった。


 ふたりがなぜシス村に来たのか、ツカサは知らない。


 まだ生まれてすらいなかったからだ。


 けれど、後に何度も聞かされた話によれば、母はシス村に着いた日の夕方、村の入口で立ち止まってこう言ったらしい。


「ここ、静かでいいね」


 父はその隣で、少し心配そうに村を見ていた。


「本当にここでいいのか?」


「いいよ。静かだし、空気も綺麗だし」


「それだけで決めていいのか」


「それだけじゃないよ」


 母は自分のお腹を撫でた。


 大きく膨らんだ腹の中で、ふたり分の命が動いていた。


「この子たちが、ゆっくり眠れそうだから」


 父はそれを聞いて、少しだけ黙った。


 それから、同じように母のお腹に手を添えた。


「なら、ここにしよう」


 そうしてふたりは、シス村に住み始めた。


 村人たちは最初、よそ者であるふたりを珍しがった。


 けれど父はよく働いたし、母は誰とでもすぐに話した。畑仕事を手伝い、壊れた柵を直し、井戸端で笑い合う。


 少しずつ、ふたりは村に馴染んでいった。


 そして冬の終わり。


 雪が解け、土の匂いが戻り始めた頃。


 双子は生まれた。


     *


 最初に泣いたのは、ツカサだった。


 ツカサは、ほとんど泣かなかった。


 小さく息をして、目を閉じて、ただ母の腕の中に収まっていた。


 母は一瞬、不安そうに顔を曇らせた。


「この子……」


 父が身を乗り出す。


 助産の女が急いで様子を見る。


 ツカサは弱々しく、それでも確かに息をしていた。


 やがて、小さく、本当に小さく泣いた。


 それは産声というにはあまりにも頼りない声だった。


 けれど母は、その声を聞いた瞬間に涙をこぼした。


「よかった……」


 父は膝から崩れるように座り込み、顔を覆った。


 そしてそのあとツバサが産まれた。


 大きな声だった。


 生まれたばかりの赤ん坊とは思えないほど、肺いっぱいに空気を吸って、世界に文句でも言うみたいに泣いた。


 母は疲れ切った顔で笑った。


「元気だねえ」


 助産をしていた村の女が、赤ん坊を布で包む。


「この子は強い子になるよ」


 父は泣きそうな顔で、その小さな命たちを見つめていた。


 ツバサはまだ大きな声で泣いていた。


 ツカサは、その隣で小さく息をしていた。


 同じ日に生まれた双子。


 けれど、ふたりは最初から少し違っていた。


     *


 ツカサの髪は、水色だった。


 淡く、光を受けると透けるような色をしていた。


 髪は柔らかく、母が指で梳くと、すぐにさらりと流れる。


 目は静かな青だった。


 幼い頃から、誰かの話を聞く時、じっと相手を見る癖があった。まるで言葉だけではなく、その奥にある気持ちまで拾おうとしているみたいに。


 ツバサの髪も同じ水色だった。


 けれどツバサの髪は、ツカサより少しだけ癖が強く、跳ねやすかった。朝になると必ずどこかがぴょこんと立っていて、母が笑いながら直していた。


 ツバサの目は明るい青だった。


 よく笑い、よく怒り、よく泣いた。


 思ったことがすぐ顔に出る。隠し事は下手で、叱られる前から自分で泣きそうになる。


 顔立ちは似ていた。


 声も似ていた。


 けれど並んでいれば、誰でもすぐに見分けられた。


 静かに考えてから動くのがツカサ。


 考えるより先に動いて転ぶのがツバサ。


 身体が弱く、外に出られない日が多いのがツカサ。


 転んでも泥だらけになって帰ってくるのがツバサ。


 姉はツカサだった。


 生まれた順番で言えば、ほんの少しだけ。


 けれどツカサは、その「ほんの少し」を大事にしていた。


 身体は弱かった。


 走れない日も多かった。


 熱を出して寝込むことも珍しくなかった。


 それでも、ツカサは姉であろうとした。


 ツバサが転んで泣けば、寝床から手を伸ばして頭を撫でた。


 ツバサが母に叱られてふてくされれば、あとでこっそり話を聞いた。


 ツバサが外で見たものを楽しそうに話せば、ツカサはそれを最後まで聞いた。


「それでね、鳥がいたの」


「うん」


「すごく大きいやつ。たぶん、私より大きい」


「それはさすがに嘘じゃない?」


「ほんとだもん!」


「じゃあ、今度見つけたら教えて」


「ツカサも見る?」


「見たい」


「じゃあ、私が連れてくる」


「鳥を?」


「うん」


「無理だと思う」


「できるもん」


 ツバサが胸を張る。


 ツカサは少しだけ笑った。


「じゃあ、お願いしようかな」


 そんな会話を、母は台所から聞いていた。


 父は外で薪を割りながら、その声に耳を澄ませていた。


 その頃の家には、まだ穏やかな時間があった。


 大きな不幸はなく、取り返しのつかない何かもなく、ただ少し身体の弱い姉と、元気すぎる妹がいて、両親がそれを見守っているだけの時間。


 それだけで、十分だった。


     *


 ツバサが五歳になった年。


 変化は、唐突に訪れた。


 最初は小さなことだった。


 庭先に落ちていた虫が、ツバサの手の中で動かなくなった。


 ツバサは驚いて泣いた。


 母は、子供が虫を強く握りすぎたのだと思った。


 次は、畑の端に咲いていた花だった。


 ツバサが摘もうと触れた瞬間、花びらが黒ずみ、茎が崩れた。


 ツバサはまた泣いた。


 父はそれを見て、少しだけ表情を変えた。


 それから、家の中で飼っていた小鳥が死んだ。


 ツバサは何もしていないと言った。


 ただ、具合が悪そうだったから撫でただけだと。


 母はツバサを抱きしめた。


 父はその小鳥を埋めに行った。


 その夜、両親は長い間話していた。


 ツカサは寝床の中で、薄く目を開けていた。


 何を話しているのか、はっきりとは聞こえない。


 けれど、母の声が震えていることだけは分かった。


「違うよね」


 母は何度もそう言っていた。


「あの子は、そんな子じゃない」


 父は答えなかった。


 ただ、とても長い沈黙があった。


     *


 シス村の祠には、その頃から花が増えた。


 村人たちは以前よりも熱心に祈るようになった。


 ツバサが祠の前を通ると、大人たちは声を潜めた。


 優しく微笑む者もいた。


 けれど、その笑みは少し硬かった。


 死の英雄。


 その力。


 命を奪うもの。


 村に伝わる祈りは、いつの間にか、ひとりの幼い少女へ向かい始めていた。


 ツバサはまだ何も知らなかった。


 自分に何が宿っているのか。


 なぜ大人たちの目が変わったのか。


 どうして母が以前よりも強く抱きしめるようになったのか。


 何も分からなかった。


 ただ、ひとつだけ分かっていた。


 自分が触ると、時々、何かが死ぬ。


 だからツバサは、だんだんツカサに触れなくなった。


 ツカサが手を伸ばしても、ツバサは一歩下がる。


「ツバサ?」


「……だめ」


「どうして?」


「だめなの」


 ツバサは泣きそうな顔で首を振った。


「ツカサ、弱いから」


 ツカサは何も言えなかった。


 その言葉は、ツバサの優しさだった。


 けれど、幼いツカサには、それが少しだけ寂しかった。


 姉なのに。


 守りたいのは自分の方なのに。


 そう思っても、身体は思うように動かなかった。


 寝床から起き上がるだけで息が切れる。


 外で遊ぶツバサを、窓の向こうから見ていることしかできない。


 ツバサがこちらを振り返って笑う。


 でも、家に戻ってきても、もう前みたいに抱きついてはこない。


 ツカサは布団の中で、自分の手を見つめた。


 細くて、力のない手だった。


 何も守れない手だった。


     *


 ある夜、母がふたりの髪を結ってくれた。


 ツバサは外で走り回るから、邪魔にならないように短めにまとめる。


 ツカサの髪は少し長く伸びていたから、ゆるく後ろで結んだ。


「ツカサは髪、綺麗だね」


 ツバサが言った。


「ツバサも同じ色だよ」


「でもツカサの方がさらさら」


「ツバサは跳ねてるね」


「跳ねてないもん」


「跳ねてるよ」


「お母さん!」


 ツバサがむくれると、母は笑いながらその髪を撫でた。


「ふたりとも可愛いよ」


 父が横から言った。


「そうだな。ふたりとも、ちゃんと可愛い」


「ちゃんとって何?」


 母が笑う。


 父は真面目な顔で悩んだ。


「……とても?」


「急に雑」


 ツバサがけらけら笑った。


 ツカサもつられて笑った。


 その日、ツバサは少しだけ油断した。


 笑いながら、昔みたいにツカサの手を握ろうとした。


 けれど、触れる寸前で止まった。


 ツバサの指が震える。


 ツカサはそれに気づいた。


 気づいて、何も言わなかった。


 代わりに、自分からそっと手を引いた。


「大丈夫」


 ツカサは笑った。


「触らなくても、ここにいるから」


 ツバサは唇を噛んだ。


 母はそのやり取りを見て、泣きそうな顔をした。


 父は黙って、祠のある方角を見た。


 窓の外は暗かった。


 村は静かだった。


 けれど、その静けさの底で、何かが少しずつ形を変えていた。


 祈りは、いつしか期待になる。


 期待は、いつしか役目になる。


 役目は、いつしか鎖になる。


 その鎖が誰の首にかかるのかを、この時のツカサはまだ知らない。


 ツバサも、まだ知らない。


 ただふたりは、同じ家で眠っていた。


 水色の髪をした双子。


 弱い姉と、元気な妹。


 誰かに選ばれた子と、まだ何も選ばれていない子。


 その夜、母はふたりの寝顔を見ながら、小さく呟いた。


「普通でよかったのにね」


 父は答えなかった。


 ただ、母の肩にそっと手を置いた。


 祠の花が、夜風に揺れていた。

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