第3話「狂気の村と双子」
ツバサが五歳になってから、家の空気は少しずつ変わっていった。
朝起きて、母が火を起こす。
父が外へ出て、畑や村の手伝いに向かう。
ツバサが外に飛び出して、ツカサが寝床からそれを眺める。
形だけ見れば、以前と何も変わらない。
けれど、変わらないものほど、壊れた時に目立つ。人間、こういう時だけ観察力が鋭くなる。普段からやれ。
ツバサは、前より静かになった。
いや、正確には静かでいようとしていた。
もともとは、思いついたらすぐ走り、転び、泣き、笑う子だった。畑の畦道を裸足で駆けて、虫を追いかけて、母に叱られて、それでも次の日には同じことをする。
けれど、もう前みたいには走らない。
走って転んだ時、誰かが助け起こそうとしてくれるかもしれない。
その誰かに、自分が触れてしまうかもしれない。
そう思うと、足が止まる。
ツバサはまだ幼かった。
幼いのに、自分が怖かった。
それはあまりにも早すぎる恐怖だった。
*
ツカサは、身体が弱かった。
熱を出す日は珍しくない。少し寒い風に当たれば咳が出て、長く起きているだけで顔色が悪くなる。
けれど、覚えは早かった。
母が本を読めば、すぐに文字を覚えた。
父が数を教えれば、翌日には簡単な計算をしてみせた。
母が料理の下ごしらえをしているのを見ていれば、手順を覚えた。
身体が動かない代わりに、目と耳と頭をよく使う子だった。
「ツカサはすごいね」
ツバサは何度もそう言った。
嫌味ではなかった。
本当に、まっすぐそう思っていた。
「本、もう読めるの?」
「少しだけ」
「私、まだ全然わかんない」
「一緒に読む?」
「うーん……眠くなる」
「じゃあ無理だね」
「ツカサ、今ちょっと馬鹿にした?」
「してないよ」
「した顔だった」
ツバサが頬を膨らませる。
ツカサは少し笑う。
それだけなら、ただの姉妹の会話だった。
けれど、母はそのたびに、胸の奥を締めつけられるような顔をした。
ツバサは元気だった。
身体は強く、よく食べ、よく眠る。
けれど、できないことが多かった。
文字を覚えるのも遅い。
手先も不器用。
言われたことを忘れる。
皿を運べば落とす。
掃除をすれば、掃除した場所より汚した場所の方が増える。
それでもツバサは、笑っていた。
「ごめんなさい!」
そう言って、すぐに頭を下げる。
母が笑う。
「次は気をつけようね」
「うん!」
父が壊れた皿を片づける。
「怪我はないか?」
「ない!」
「ならいい」
ツカサはそれを見ていた。
寝床から。
あるいは椅子に座りながら。
何かを手伝いたくても、身体がついてこない。
だから、せめて覚えたことを伝えた。
「ツバサ、そこは先に布を絞った方がいいよ」
「こう?」
「絞りすぎると水がなくなる」
「難しい!」
「力を半分にして」
「半分ってどれくらい?」
「……ツバサの半分は難しいね」
「また馬鹿にした!」
「してない」
ツバサはむっとする。
けれどすぐに笑う。
ツカサも笑う。
その時間だけは、まだやわらかかった。
*
村人たちは、ツバサを見る目を変えていった。
最初は恐れだった。
次に、好奇心。
その次に、期待。
そして最後に、崇拝に近い何か。
「ツバサ様」
ある日、村の老婆がそう呼んだ。
ツバサはきょとんとした。
「さま?」
母の顔色が変わった。
父がすぐにツバサを自分の後ろへ隠す。
「やめてください」
父の声は低かった。
普段の穏やかさとは違う。
相手を遠ざける声だった。
老婆は目を細めた。
「なぜです。あの子は選ばれた子でしょう」
「娘です」
父は即答した。
「ただの、私たちの娘です」
老婆は笑った。
その笑みは、優しそうで、ひどく気持ち悪かった。
「死の英雄様も、きっと幼い頃はそう呼ばれていたのでしょうね」
母がツバサの手を握ろうとして、止まった。
ツバサが触れられるのを怖がるからだ。
その一瞬のためらいを、老婆は見た。
そして、祠の方へ深く頭を下げた。
「お役目は、逃げられませんよ」
ツバサはその言葉の意味が分からなかった。
けれど怖かった。
父の服の裾を、触れないように、ぎゅっと握った。
*
それから、家の周りに人が来るようになった。
最初はひとり。
次はふたり。
やがて、何人も。
祈りに来たのだという。
死の英雄の力が宿った子に、村の守りを願いに来たのだという。
母は扉を閉めた。
父は追い返した。
けれど村人たちは去らなかった。
家の外から声が聞こえる。
「ツバサ様」
「どうか村をお守りください」
「死の英雄様のお力を」
「我らは信じております」
ツバサは部屋の隅で震えた。
ツカサは寝床から起き上がろうとして、咳き込んだ。
「ツバサ……」
呼ぶと、ツバサが振り返る。
今にも泣きそうな顔だった。
「私、何もできないよ」
ツバサは言った。
「守るって何? 英雄って何? 私、虫も殺しちゃうのに」
ツカサは布団を握った。
「ツバサは悪くないよ」
「でも死んだよ」
「悪くない」
「でも、私が触ったら死んだ」
「悪くない」
ツカサは同じ言葉を繰り返した。
それしか言えなかった。
姉なのに。
ちゃんとした答えをあげたいのに。
ツバサの怖さを消してやりたいのに。
身体は弱く、声も小さく、手を伸ばして抱きしめることすらできない。
ツバサは床に座り込んだ。
「ツカサに触れなくなるの、嫌だよ」
その言葉で、ツカサは黙った。
胸が痛かった。
熱の時とは違う痛みだった。
*
両親は村を出ようと考えた。
それは当然だった。
父は荷物をまとめた。
母は必要な服と薬を選んだ。
ツカサの身体では長い移動は難しい。
それでも、ここにいるよりはいい。
そう判断した。
「夜明け前に出よう」
父が言った。
「村の人に見つかる前に」
母は頷いた。
ツバサは不安そうに父を見上げた。
「どこ行くの?」
「別の場所だ」
「ツカサも?」
「もちろん」
ツバサは少しだけほっとした顔をした。
ツカサは寝床の中で、それを聞いていた。
出ていく。
この村から。
ツバサが怖がらなくていい場所へ。
父と母が笑える場所へ。
それはきっと、いいことのはずだった。
けれど、その夜。
家の外に、人の気配が集まった。
*
扉が叩かれた。
父が剣を取った。
農具に近い、護身用の古い剣だった。
母はツバサとツカサを奥の部屋へ押し込んだ。
「絶対に出てきちゃだめ」
母の声は震えていた。
「何があっても、ここにいて」
「お母さん」
ツバサが泣きそうに呼ぶ。
母は抱きしめようとして、また止まった。
けれど今度は、止まらなかった。
ツバサを強く抱きしめた。
ツバサの身体がびくりと震える。
母は構わなかった。
「大丈夫」
母は言った。
「あなたは私の子だよ」
それからツカサの頬に触れる。
ツカサの顔は青白かった。
「ツカサ。ツバサをお願い」
ツカサは小さく頷いた。
母は笑った。
それが最後だった。
扉が破られる音がした。
*
村人たちは、松明を持っていた。
刃物を持っている者もいた。
祠に供えるはずの花を握っている者もいた。
泣いている者もいた。
怒っている者もいた。
祈っている者もいた。
全員が、同じ方向を見ていた。
奥の部屋。
ツバサのいる場所。
「その子は村のものだ」
誰かが言った。
「死の英雄様のお力だ」
「あなたたちだけで隠していいものではない」
「逃がすつもりだったのか」
「裏切るのか」
父は剣を構えた。
「娘を渡すつもりはありません」
「娘ではない」
村の男が言った。
「器だ」
その瞬間、父が動いた。
迷いはなかった。
普段は穏やかな人だった。
けれど、目の前で娘を器と呼ばれて黙っているほど、壊れてはいなかった。
父は男を押し倒し、道を作ろうとした。
母も近くの椅子を掴み、扉の前に立った。
「来ないで!」
母は叫んだ。
「あの子に近づかないで!」
奥の部屋で、ツバサが泣いていた。
ツカサはその横で、必死に身体を起こしていた。
けれど足に力が入らない。
息が苦しい。
胸が痛い。
壁の向こうで、何かが倒れる音がした。
父の声。
母の悲鳴。
誰かの怒号。
祈りの言葉。
すべてが混ざって、意味がなくなっていく。
ツバサが立ち上がった。
「だめ……」
ツカサは手を伸ばした。
「ツバサ、だめ」
ツバサは首を振った。
「お父さんとお母さんが」
「だめ」
「でも!」
「だめ!」
ツカサにしては珍しい大きな声だった。
ツバサが振り返る。
ツカサは涙を浮かべていた。
「行ったら、ツバサが怖い思いする」
「でも、私のせいだもん!」
「違う!」
「私のせいだよ!」
ツバサが叫んだ。
「私が変だから! 私が死なせるから! だからみんな、あんな顔するんだよ!」
ツカサは何も言えなくなった。
ツバサは扉へ向かった。
その小さな背中を、ツカサは止められなかった。
*
ツバサが部屋を出た時、父は床に倒れていた。
母はその前に立ち、血のついた腕でまだ村人を押し返そうとしていた。
ツバサは固まった。
「お父さん……?」
父は動かなかった。
「お母さん……?」
母が振り返った。
顔に血がついていた。
それでも、母は笑おうとした。
「ツバサ、戻って」
村人たちがざわめいた。
「出てきた」
「死の英雄様だ」
「やはり」
「お守りください」
「我らを」
ツバサは震えた。
近づいてくる手。
祈る声。
期待する目。
恐れる目。
全部が怖かった。
母がツバサの前に出る。
「この子に触らないで!」
その時、誰かが母を突き飛ばした。
母の身体が倒れる。
ツバサの中で、何かが切れた。
触れたわけではなかった。
願ったわけでもなかった。
ただ、怖いと思った。
嫌だと思った。
来ないでと思った。
その瞬間、近くにいた男が膝から崩れた。
次に、女が倒れた。
松明を持っていた老人が、声もなく地面に落ちた。
村人たちが悲鳴を上げた。
「やはり力だ!」
「死の英雄様だ!」
「違う、化け物だ!」
「逃げろ!」
「お守りを!」
「殺される!」
崇拝と恐怖は、紙一枚より薄い。紙ならまだ字が書ける分ましだ。
ツバサは泣いていた。
何が起きているのか分からなかった。
自分が何をしたのかも分からなかった。
ただ、目の前で人が倒れていく。
母が手を伸ばした。
「ツバサ……」
ツバサは母に駆け寄ろうとして、止まった。
触れたら。
そう思ったからだ。
母はそれでも手を伸ばした。
「大丈夫……」
母の声はかすれていた。
「あなたは……悪くない……」
ツバサは首を振った。
「違う……違う……」
奥の部屋から、ツカサが這うように出てきた。
床に手をつき、息を荒げながら。
そして見た。
倒れた父。
血を流す母。
泣き崩れるツバサ。
逃げ惑う村人。
その中心にいる妹。
ツカサは何も言えなかった。
ただ、喉の奥から息だけが漏れた。
母がツカサを見た。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「ツカサ……」
「お母さん……」
「ツバサを……」
そこまで言って、母の声は途切れた。
ツカサは動けなかった。
ツバサも動けなかった。
家の中には、もう祈りの声はなかった。
あるのは、燃え残った松明の音と、誰かのすすり泣きだけだった。
*
その夜から、シス村は変わった。
いや、もともと変わっていたものが、隠しきれなくなっただけだった。
両親の死は、村の者たちによって別の物語にされた。
死の英雄の力が暴れた。
選ばれた子を親が隠そうとしたから、罰が下った。
あるいは、力を正しく祀らなかったから災いが起きた。
誰も、ふたりを守ろうとした両親の話はしなかった。
都合の悪い事実を削れば、物語はいくらでも綺麗になる。ほんと便利だね、人間の編集機能。
ツカサとツバサは、両親を失った。
ツバサはさらに、村人たちから特別視されるようになった。
恐れられながら。
崇められながら。
避けられながら。
必要とされながら。
ツカサは身体の弱いままだった。
それでも、頭だけはよく働いた。
だから分かってしまった。
この村は、もう自分たちを子供として見ていない。
ツバサは役目。
自分は、その横にいる弱い姉。
守られるべきでも、守れるわけでもない、ただそこにいるだけの存在。
それでもツカサは、ツバサの姉だった。
夜、ふたりだけになった家で、ツバサはずっと泣いていた。
「私が殺した」
ツバサは何度も言った。
「私が、お父さんとお母さんを」
「違う」
ツカサは言った。
「違うよ」
「でも」
「違う」
「でも!」
「違う!」
ツカサは声を荒げた。
そのせいで咳き込む。
苦しくて、涙が滲む。
それでもツカサは、ツバサを見た。
「ツバサは、悪くない」
「……じゃあ、誰が悪いの?」
ツバサが聞いた。
ツカサは答えられなかった。
村人。
死の英雄の力。
祈り。
恐怖。
期待。
いろんなものが悪かった。
けれど、幼いツカサには、その全部に名前をつけることができなかった。
だから、ただ言った。
「私が、考える」
ツバサが顔を上げる。
「私が考えるから」
ツカサは震える手で、自分の胸元を掴んだ。
「だからツバサは、もう自分を悪いって言わないで」
ツバサは泣きながら首を振った。
「ツカサは、身体弱いのに」
「うん」
「私の方が元気なのに」
「うん」
「私、何もできない」
「そんなことない」
「できないよ」
ツバサは膝を抱えた。
「私は、できない子だよ」
ツカサはそれを聞いて、胸が痛くなった。
ツバサは出来が悪いわけじゃない。
ただ、普通の子供だった。
間違えて、転んで、忘れて、泣いて、笑う。
それだけの子だった。
でもこの村は、普通の子供に、英雄の器であることを求めた。
できるわけがない。
できる方がおかしい。
ツカサはそっと手を伸ばした。
ツバサはびくりとした。
それでも、逃げなかった。
ツカサの指先が、ツバサの袖に触れる。
肌ではない。
ただ布に触れただけ。
それでも、ふたりにとっては十分だった。
「ツバサ」
ツカサは言った。
「私が、お姉ちゃんだから」
ツバサは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「私が、なんとかするから」
何をどうするのか、ツカサにも分からなかった。
身体は弱い。
外にも満足に出られない。
村人に逆らえる力もない。
死の英雄の力が何なのかも分からない。
それでも、言わずにはいられなかった。
姉だから。
たったそれだけの理由で、ツカサは自分にできもしない約束をした。
そしてツバサは、それを信じた。
信じるしかなかった。
ふたりはその夜、同じ部屋で眠った。
けれど、同じ布団には入れなかった。
ツバサが怖がったからだ。
自分が触れたら、ツカサまで死んでしまうかもしれない。
その恐怖が、妹を姉から遠ざけた。
ツカサは寝床の中で、天井を見つめていた。
隣の部屋から、ツバサの小さな泣き声が聞こえる。
それを聞きながら、ツカサは目を閉じた。
守りたい。
そう思った。
何もできないくせに。
何も持っていないくせに。
それでも、守りたいと思った。
その願いは、まだ小さかった。
けれど小さな願いほど、踏みにじられた時によく歪む。
シス村の祠には、その夜も花が供えられていた。
死の英雄を讃える花だった。
その花の香りが、冷たい夜風に乗って、両親のいなくなった家の窓をかすめていった。




