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第4話「ツバサ」

 その夜、ツカサは眠っていた。


 眠っていた、というより、起きていられなかった。


 熱があった。


 何日も前から続いている熱だった。


 額に触れれば、手のひらがじわりと温かくなる。呼吸は浅く、喉の奥でかすかに音が鳴っている。時折、何かを言おうとするように唇が動くけれど、そこから言葉は出てこなかった。


 ツバサは、ずっとその隣にいた。


 薄い布団の端を握って、姉の顔を見ていた。


「……お姉ちゃん」


 呼んでも、返事はない。


 いつもなら、どれだけ弱っていても、ツカサは目を開けてくれた。


 眠そうな目で、それでも優しく笑ってくれた。


 大丈夫、と言ってくれた。


 ツバサが何か失敗しても、泣いても、怒られても、ツカサだけはいつも言ってくれた。


 大丈夫だよ、ツバサ。


 でも、その夜のツカサは何も言わなかった。


 ただ、苦しそうに眠っていた。


 部屋の外から、低い声が聞こえていた。


 大人たちの声だ。


 最近、その声はいつも家の近くにあった。


 両親がいなくなってから、村人たちは前よりもずっとこの家に来るようになった。


 食べ物を持ってきてくれる人もいた。


 火の番をしてくれる人もいた。


 ツカサの体にいい薬草だと言って、煎じたものを置いていく人もいた。


 だから、親切なのだと思うべきだった。


 思うべきだったのに、ツバサは少し怖かった。


 やさしいのに、怖かった。


 笑っているのに、目だけが違っていた。


「姫御前」


 ふすまの向こうから、声がした。


 ツバサはびくりと肩を震わせる。


 姫御前。


 村人たちは、いつの頃からかツバサをそう呼ぶようになった。


 最初は嫌だった。


 自分の名前じゃないみたいだった。


 でも、嫌だと言ったら、大人たちは困ったように笑った。


 それはあなたの中におられる方への敬意なのです。


 そう言われると、ツバサは黙るしかなかった。


 自分の中にいるもの。


 死の英雄。


 人を終わらせる力。


 村がずっと祀ってきた、尊いもの。


 それが自分の中にあるのだと、大人たちは言った。


 ツバサには、よく分からなかった。


 分からないまま、怖かった。


「姫御前。入ってもよろしいですか」


 ツバサは返事をしなかった。


 けれど、ふすまは静かに開いた。


 入ってきたのは、村の年寄りたちだった。


 白い布をまとった女たち。


 古びた木箱を持った男たち。


 香の匂い。


 乾いた土の匂い。


 そして、どこか冷たい匂い。


 ツバサは、布団の前に立ちはだかるように座った。


「お姉ちゃん、寝てるから」


 声が震えた。


 それでも言った。


「静かにして」


 年寄りの一人が、痛ましそうに目を細めた。


 その表情は、たしかにやさしかった。


 けれど、そのやさしさはツバサに向けられているようで、ツバサを通り過ぎて、もっと別のものを見ているようだった。


「分かっております。ツカサ様は、もう長くはありません」


「……ちがう」


 ツバサは即座に首を振った。


「ちがう。お姉ちゃんは治る」


「姫御前」


「治るもん」


 女が膝をついた。


 そして、ツバサに目線を合わせる。


「あなたも、分かっているはずです」


「分かんない」


「ツカサ様のお身体は、もう限界です」


「分かんないって言ってる!」


 叫んだ声に、ツカサの指がかすかに動いた。


 ツバサは慌てて振り返る。


 でも、ツカサは目を覚まさない。


 浅い呼吸だけが、苦しそうに続いている。


 ツバサの喉が詰まった。


 年寄りの男が、木箱を床に置いた。


 中には、黒い石のようなものが入っていた。


 丸くも四角くもない、不思議な形の石。


 石なのに、見つめていると吸い込まれそうだった。


「死の英雄の力は、命を終わらせる力です」


 男が言った。


「しかし、終わりは、ただ奪うだけではありません」


 他の大人たちが、静かにうなずく。


 まるで、ずっと練習してきた言葉を確認するみたいに。


「終わりがあるから、命は渡せる」


「死があるから、生は繋がる」


「姫御前の中の御力ならば、ツカサ様を救えます」


 救える。


 その言葉だけが、ツバサの耳に残った。


「……お姉ちゃん、助かるの?」


 女は微笑んだ。


「はい」


「ほんとに?」


「あなたが望むなら」


「わたしが……?」


 ツバサは自分の胸を押さえた。


 そこに何かがあると言われても、何も分からない。


 胸の奥にあるのは、怖さだけだった。


 姉を失いたくないという気持ちだけだった。


「方法があります」


 男が言った。


「姫御前の命を、ツカサ様へ渡すのです」


 その瞬間、部屋の音が消えた気がした。


 香の匂いも。


 夜の虫の声も。


 ツカサの呼吸も。


 全部、遠くなった。


「……わたしの、命?」


「はい」


「そしたら、わたしは?」


 誰も、すぐには答えなかった。


 それが答えだった。


 ツバサは笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


「死ぬの?」


 女が、静かに首を伏せた。


「命は、終わります」


 死ぬとは言わなかった。


 命は終わる。


 その言い方が、ツバサにはひどく怖かった。


「でも、あなたの命は無駄にはなりません」


「ツカサ様の中で生き続けます」


「村のためにもなります」


「死の英雄の御力も、より正しく受け継がれる」


「姫御前は、尊い役目を果たされるのです」


 言葉が重なっていく。


 やさしい声。


 ありがたいことのような声。


 誰も怒鳴っていない。


 誰もツバサを責めていない。


 だからこそ、逃げ道がなかった。


 ツバサは布団の中の姉を見た。


 ツカサは苦しそうだった。


 白い顔。


 乾いた唇。


 細い指。


 それでも、ツバサの知っている誰よりも優しい姉だった。


 何でもできる姉だった。


 体が弱くても、ツバサよりずっと賢くて、ずっとしっかりしていて。


 ツバサが泣くと、必ず手を伸ばしてくれる人だった。


 その手は今、布団の上で力なく開かれている。


 ツバサはその手を握った。


 冷たかった。


「お姉ちゃんは」


 ツバサは小さく言った。


「生きたいって、言ってないよ」


 女が瞬きをした。


「ツカサ様は、声を出す力もないのです」


「でも、言ってない」


「姫御前」


「お姉ちゃんが、わたしに死んでほしいなんて、言うわけない」


 初めて、大人たちの顔がわずかに固まった。


 その沈黙を破ったのは、奥にいた老婆だった。


 村で一番古くから祈りを捧げている女だった。


 老婆は、ゆっくりとツバサの前に膝をつく。


「ツバサ」


 姫御前ではなく、名前で呼ばれた。


 ツバサは顔を上げた。


「あなたは、お姉ちゃんが好きですか」


「……好き」


「助けたいですか」


「助けたい」


「なら、それでいいのです」


 老婆の声は、柔らかかった。


「ツカサ様が望むかどうかではありません。あなたが望むのです。あなたが、お姉ちゃんを助けたいと願う。それは誰にも否定できない、尊い心です」


 ツバサの目に涙がにじんだ。


 違う。


 どこかで、違うと思った。


 でも、何が違うのか分からなかった。


 お姉ちゃんを助けたい。


 それは本当だった。


 死にたくない。


 それも本当だった。


 でも、ツカサが死ぬのはもっと嫌だった。


 ツカサがいない朝を考えただけで、胸が潰れそうになった。


 あの手がもう動かないこと。


 あの声がもう聞こえないこと。


 大丈夫だよ、ともう言ってもらえないこと。


 それだけは、嫌だった。


「わたしがやったら」


 ツバサは涙をこぼした。


「お姉ちゃん、起きる?」


「起きます」


「歩ける?」


「歩けます」


「ご飯、食べられる?」


「食べられます」


「笑える?」


 大人たちは、少しだけ黙った。


 老婆が答えた。


「きっと」


 きっと。


 それは嘘かもしれなかった。


 でも、ツバサはその言葉にすがった。


「……お姉ちゃん、料理したいって言ってた」


 ツバサはツカサの手を握ったまま言った。


「お母さんみたいに、ご飯作りたいって。わたしに食べさせたいって。いつか、普通の家で、普通に暮らしたいって」


 言葉にすると、止まらなくなった。


「わたし、ちゃんとできないから。お姉ちゃんみたいにできないから。いつも迷惑かけてたから」


「ツバサ様」


「でも、お姉ちゃんが生きるなら」


 ツバサは顔を上げた。


 涙でぐちゃぐちゃだった。


 それでも、笑おうとした。


「わたし、お姉ちゃんのためになれる?」


 老婆は、深く頭を下げた。


 他の大人たちも一斉に頭を下げる。


 その動きはあまりにも揃っていて、ツバサはまた少し怖くなった。


「なれます」


「村のためにも?」


「なれます」


「お姉ちゃん、怒らない?」


 老婆は答えなかった。


 ツバサは、ツカサを見た。


 眠っている姉は、何も知らない。


 何も知らないまま、苦しそうに息をしている。


「怒るよね」


 ツバサは小さく笑った。


「お姉ちゃん、絶対怒るよ。そういうのだめって言うもん」


 それでも。


 それでも、と思ってしまった。


 怒ってほしい。


 泣いてほしい。


 どうしてこんなことしたのって、叱ってほしい。


 そのためには、生きていてほしい。


 ツバサは姉の手を、自分の額に当てた。


「ごめんね、お姉ちゃん」


 その声は、誰にも聞かせないためのものだった。


 でも、大人たちは聞いていた。


 聞いていて、止めなかった。


「わたし、できること少ないから」


 ツバサは泣きながら笑った。


「これくらいしか、できないから」


 黒い石が、床の上に置かれた。


 大人たちは輪を作る。


 香が増えた。


 小さな鈴の音がした。


 誰かが祈りの言葉を唱え始める。


 それは歌のようでもあり、呪いのようでもあった。


 ツバサはツカサの隣に寝かされた。


 手と手を重ねられる。


 ツカサの手は冷たい。


 ツバサの手は震えている。


「目を閉じてください」


 老婆が言った。


「怖くありません」


 嘘だ。


 怖かった。


 ものすごく怖かった。


 でも、ツバサは目を閉じた。


 暗闇の中で、姉の顔を思い出した。


 笑っている顔。


 困っている顔。


 少し怒った顔。


 料理の本を見て、いつか作ってあげるねと言った顔。


 ツバサ、と呼ぶ声。


 大丈夫だよ、と言う声。


 ツバサは、それを抱きしめるように胸の奥で握った。


 そして、願った。


 お姉ちゃんが、生きますように。


 お姉ちゃんが、笑えますように。


 お姉ちゃんが、普通の朝を迎えられますように。


 自分の分まで。


 どうか。


 どうか。


 鈴の音が止まった。


 胸の奥で、何かがほどける感覚がした。


 痛みはなかった。


 ただ、寒かった。


 ものすごく寒かった。


 体の輪郭が、少しずつ遠くなる。


 自分がどこにいるのか分からなくなる。


 でも、手だけはまだ分かった。


 ツカサの手。


 お姉ちゃんの手。


 ツバサは最後の力で、その手を握ろうとした。


 けれど、もう指は動かなかった。


 声も出なかった。


 だから、心の中で言った。


 お姉ちゃん。


 わたしのぶんまで、生きてね。


 そこで、ツバサの夜は終わった。


     ◇


 翌朝。


 ツカサは、目を覚ました。


 最初に感じたのは、静けさだった。


 鳥の声がする。


 遠くで誰かが水を汲む音がする。


 朝の匂いがする。


 それから、違和感。


 息が苦しくない。


 体が重くない。


 喉が痛くない。


 熱がない。


 ツカサはゆっくりと瞬きをした。


 天井がはっきり見える。


 いつもはぼやけていた木目が、一本一本まで見えた。


「……あれ」


 声が出た。


 かすれていない。


 ツカサは自分の手を見た。


 指を動かす。


 動いた。


 体を起こす。


 起こせた。


 あまりにも簡単に。


 嘘みたいに。


 まずは喜んだ。何が起きたかは分からないけど、治ったのだと。これでみんなみたいに外で遊べて、料理もできて、普通な女の子になれると。


 ツバサにも迷惑をかけずに、むしろお姉ちゃんとして助けてあげられると。


「ツバサ!私元気に…」


 違和感があった。


「……ツバサ?」


 隣を見た。


 誰もいなかった。


 布団は一つしかない。


 ツバサが眠っていたはずの場所には、白い布が畳まれていた。


 その上に、小さな髪飾りが置かれている。


 ツバサが気に入っていたものだった。


 ツカサの呼吸が止まった。


「ツバサ?」


 もう一度呼んだ。


 返事はない。


 立ち上がろうとして、やはり足に力が入ったことに驚いた。


 その驚きが、すぐに恐怖に変わる。


 歩ける。


 走れるかもしれない。


 こんなに元気になっている。


 なぜ。


 どうして。


「ツバサ!」


 部屋を飛び出した。


 足がもつれない。


 胸が痛まない。


 廊下を走れる。


 それが怖かった。


 怖くてたまらなかった。


 家の外には、村人たちがいた。


 何人も。


 昨日よりずっと多く。


 彼らはツカサを見ると、一斉に頭を下げた。


「お目覚めになられましたか」


 老婆が言った。


 その顔は晴れやかだった。


 泣いた跡がある者もいた。


 祈るように手を合わせている者もいた。


「成功だ」


「やはり姫御前は尊い方だった」


「死の英雄の御力が、正しく渡った」


「これで村は守られる」


 言葉が、ツカサの周りを回った。


 意味が分からなかった。


 でも、分かりたくなかった。


「ツバサは?」


 ツカサは聞いた。


 誰も答えない。


「ツバサはどこ?」


 老婆が、静かに目を伏せた。


「ツバサ様は、役目を果たされました」


「役目?」


 ツカサの声が震える。


「何、それ」


「あなたを救うためです」


「何をしたの」


「ツバサ様の命は、あなたの中に」


 最後まで聞けなかった。


 ツカサの耳が、音を拒んだ。


 目の前が白くなる。


 息ができない。


 昨日までとは違う。


 体は元気なのに、呼吸ができない。


「……うそ」


 ツカサは首を振った。


「うそだよね」


 誰かが泣いた。


 誰かが笑った。


 誰かが祈った。


「尊い犠牲です」


「姉妹の絆です」


「村のためにもなった」


「ツバサ様は、あなたの中で生きておられる」


 ツカサは、自分の胸を押さえた。


 鼓動がある。


 力強い鼓動。


 昨日までの弱い音ではない。


 生きている。


 自分は生きている。


 ツバサがいない。


「やだ」


 声が漏れた。


「そんなの、やだ」


 老婆が近づいてくる。


「ツカサ様」


「来ないで」


「あなたはこれから、死の英雄として」


「来ないで!」


 叫んだ瞬間、周囲の空気がわずかに冷えた。


 老婆の足が止まる。


 誰かが息を呑んだ。


 ツカサ自身も、自分の胸の奥にあるものを感じた。


 昨日までなかった何か。


 ツバサの命だけではない。


 もっと重いもの。


 もっと冷たいもの。


 死の英雄の力。


 それが、自分の中にある。


 分かってしまった。


 分かりたくもないのに。


「……何、これ」


 ツカサは震える手で自分の胸元を握った。


「何なの、これ……」


 老婆は、震えながらも笑った。


 恐れているのに、喜んでいる。


 その顔を見て、ツカサの背筋が冷たくなった。


「本当に、受け継がれた……」


「違う」


 ツカサは後ずさった。


「違う、違う、違う」


「ツカサ様」


「私はそんなのいらない」


 その声は、叫びではなかった。


 掠れて、今にも消えそうだった。


 けれど、村人たちは一様に目を伏せるだけだった。


 まるで、幼い子どもの我儘を聞いているみたいに。


 まるで、もう決まったことだから仕方がないと言っているみたいに。


「ツバサを返して」


 ツカサは言った。


 誰も答えなかった。


「返してよ」


 また、誰も答えなかった。


 返せないことを、みんな知っていた。


 知っていて、それをした。


 ツカサはその場に座り込んだ。


 体は軽い。


 息は苦しくない。


 熱もない。


 指も動く。


 足も動く。


 姉妹で一番欲しかったはずの健康な体が、そこにあった。


 ツバサがいない世界で。


「……なんで」


 ツカサは、髪飾りを握りしめた。


 小さな飾りは、手のひらの中で少し痛かった。


 その痛みだけが、まだ現実だった。


「なんで、私なの」


 村人たちは何も言わない。


 ただ、頭を下げている。


 祈るように。


 敬うように。


 押しつけた罪を、尊さという布で覆い隠すように。


 ツカサは泣かなかった。


 泣けなかった。


 涙の出し方を忘れたみたいに、ただ息だけを震わせていた。


 朝の光は、あまりにも明るかった。


 鳥の声も、水を汲む音も、いつも通りだった。


 ツバサだけがいなかった。


 ツカサは、髪飾りを胸に抱いたまま、静かに目を伏せた。


 何もかもが終わったような朝だった。


 それでも、村はまだ終わっていなかった。


 その日、ツカサはお姉ちゃんですらなくなった。

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