第5話「肉の塊」
ツバサがいなくなっても、朝は来た。
腹立たしいくらい、当たり前に。
鳥が鳴く。
村の誰かが水を汲む。
遠くで、薪を割る音がする。
畑へ向かう人の足音も聞こえる。
何も変わっていないみたいだった。
ツカサだけが、変わっていた。
布団から起き上がれる。
立てる。
歩ける。
窓際まで行って、外を見ることができる。
朝の光に目を細めても、倒れない。
喉は痛くない。
胸は苦しくない。
指先に力が入る。
足は震えない。
熱もない。
健康だった。
ずっと欲しかったものだった。
欲しくて欲しくて、でも手に入らないと思っていたものだった。
そのはずなのに。
ツカサは、自分の両手を見下ろした。
白くて細い手。
昨日までより、少しだけ血色がいい。
握る。
開く。
動く。
ちゃんと動く。
それが、気持ち悪かった。
「……ツバサ」
呼んでも、返事はない。
当たり前だった。
いないのだから。
ツバサはもういない。
いないのに、ツカサは生きている。
ツバサの命で。
ツバサがくれた命で。
胸に手を当てる。
鼓動がある。
どくん、どくん、と規則正しく鳴っている。
その音が、自分のものなのか、ツバサのものなのか、分からなかった。
「……返して」
小さく言った。
誰に言ったのか分からなかった。
村人にか。
死の英雄にか。
それとも、自分にか。
返せるはずがない。
そんなことは、ツカサにも分かっていた。
分かっているから、余計に苦しかった。
◇
村人たちは、前よりも丁寧になった。
丁寧すぎるくらいだった。
「ツカサ様」
「お身体の具合はいかがですか」
「何か必要なものはございますか」
「食事をお持ちしました」
誰も、ツバサの名前を出さなかった。
まるで最初からいなかったみたいに。
いや、違う。
いなかったことにしたいのではない。
もっと嫌なものだった。
尊い犠牲。
役目。
姫御前。
村人たちは、ツバサを悼んでいるようで、同時に誇っているようだった。
それがツカサには耐えられなかった。
ツバサは、役目なんかじゃない。
妹だった。
泣き虫で、不器用で、転びやすくて、字を書くのも遅くて、料理を手伝うと大体こぼして、でも笑うと家の中が少し明るくなるような子だった。
ツカサの妹だった。
それを、尊い、なんて言葉で片づけていいはずがなかった。
「食べなければ、身体がもちません」
村の女が、膳を置いて言った。
粥と、漬物と、少しの煮物。
前なら、それだけで嬉しかった。
ちゃんと食べられることが嬉しかった。
けれど今は、箸を持つことさえ嫌だった。
「……いりません」
「ですが」
「いりません」
ツカサが言うと、女は困ったように目を伏せた。
その困り方さえ、どこか芝居じみて見えた。
この人も、昨日の夜、あの輪の中にいたのだろうか。
祈っていたのだろうか。
ツバサの命が自分に移ることを、正しいことだと思って見ていたのだろうか。
考えるだけで、胃がひっくり返りそうだった。
けれど、胃はちゃんと動いていた。
腹が減っていた。
それも嫌だった。
ツバサが死んだのに、自分の体は生きようとしている。
なんて図々しい体なんだろう。
女が部屋を出ていったあと、ツカサは膳を見つめた。
食べなかった。
でも、捨てることもできなかった。
しばらくして、粥の表面が冷えて膜を張った。
それを見ていると、なぜかツバサの声を思い出した。
『お姉ちゃんが作ったご飯、食べたい』
昔、ツバサはそう言った。
まだ両親が生きていた頃だった。
母が台所に立っていて、ツカサは布団の中からそれを見ていた。
包丁の音。
煮える匂い。
湯気。
母の背中。
ツカサはその全部に憧れていた。
体が治ったら、料理をしたい。
自分の手で、誰かにご飯を作りたい。
ツバサに食べさせたい。
そう思っていた。
ツバサは笑って言った。
『ハンバーグがいい』
『ハンバーグ?』
『うん。お肉のやつ。丸いやつ。おいしいやつ』
『作れるかな』
『お姉ちゃんならできるよ』
何の根拠もない言葉だった。
でも、ツバサは本気でそう思っている顔をしていた。
お姉ちゃんならできる。
なんでもできる。
ツカサは、そう言われるたびに少し困って、少し嬉しかった。
今なら、動ける。
台所に立てる。
包丁を持てる。
火の前にいられる。
ツバサに食べさせることは、もうできない。
でも。
せめて。
ツカサは、ゆっくり立ち上がった。
◇
台所は、母がいた頃のままだった。
全部がそのままではない。
使われなくなった道具もある。
棚の中身も少ない。
けれど、場所は変わっていなかった。
包丁の置き場。
鍋の場所。
まな板の傷。
柱のそばにある、少し低い台。
ツバサが昔、そこで背伸びをして母の手元を覗いていた。
ツカサは、そこを見ないようにした。
村人が持ってきた食材の中に、肉があった。
ひき肉ではない。
塊の肉。
それを見て、ツカサはしばらく固まった。
ハンバーグ。
作り方は、知らない。
母が作っていたところを、遠くから見たことはある。
でも、ちゃんと覚えているわけではない。
何を入れるのか。
どうやって形にするのか。
火はどのくらいなのか。
何も分からない。
それでも、ツカサは肉を取った。
包丁を握る。
握れた。
手が震える。
それでも、握れる。
肉を細かく刻もうとした。
うまくいかなかった。
ぐにぐにと刃が沈む。
力を入れると、変な形に裂ける。
まな板の上が汚れていく。
肉の匂いが鼻についた。
吐きそうになった。
でも、やめなかった。
刻む。
叩く。
また刻む。
ひき肉のようなものが、できた。
たぶん、違う。
見た目からして違う。
それでも、ツカサはそれを手で集めた。
丸める。
ぼろぼろ崩れる。
何かを混ぜるのだろうか。
母は何かを入れていた気がする。
白いもの。
細かいもの。
玉ねぎだったかもしれない。
パンだったかもしれない。
牛乳だったかもしれない。
分からない。
「……分かんない」
声が落ちた。
ツカサは肉を握りしめた。
手が汚れる。
指の間に肉が入り込む。
気持ち悪い。
でも、離せなかった。
「お姉ちゃんならできるよ」
ツバサの声が、頭の中で響いた気がした。
「……できないよ」
ツカサは答えた。
誰もいない台所で。
「ツバサ、できないよ……」
それでも、肉を丸めた。
無理やり。
固めるだけ。
形を作るだけ。
丸くもない。
平たくもない。
ただの肉の塊。
それを火にかけた。
油を引く量も分からない。
火加減も分からない。
じゅう、と音がした。
肉の匂いが強くなる。
外側だけが焦げていく。
中に火が通っているのかも分からない。
ひっくり返そうとして、崩れた。
崩れた肉を、また寄せた。
焦げたところと生っぽいところが混ざった。
それでも焼いた。
焼いて、皿に乗せた。
茶色くて、黒くて、ところどころ赤い。
ハンバーグではなかった。
肉の塊だった。
ツカサは、皿を前に座った。
箸を持つ。
少しだけ口に入れる。
硬い。
臭い。
焦げている。
中は嫌な柔らかさが残っている。
味なんて、ほとんどない。
ずっと食べてきたペーストじゃないのに、夢に見た常食の固形なのに。
飲み込めなかった。
口の中のものを、無理やり飲み込む。
喉が詰まりそうになった。
咳き込む。
涙が出た。
不味いからではなかった。
いや、不味いのもある。
ちゃんと不味い。
救いようがないくらい不味い。
でも、それ以上に。
「……食べて、ほしかった」
ツカサは、皿を見つめて言った。
「ツバサに」
作れるようになりたかった。
ちゃんとした料理を。
温かくて、美味しくて、誰かが笑ってくれるようなものを。
母みたいに。
いつかの夢みたいに。
ツバサに、食べさせたかった。
お姉ちゃんの作るご飯、おいしいね。
そう言ってほしかった。
なのに、目の前にあるのは肉の塊だった。
ツカサは箸を置いた。
泣きたくなかった。
泣いたら、ツバサの命で生きている自分が、かわいそうぶっているみたいだった。
それが嫌だった。
でも、涙は勝手に落ちた。
ぽた、ぽた、と皿の横に落ちる。
肉は冷めていく。
台所も冷えていく。
朝はとっくに終わっていた。
◇
それから、ツカサは何度も作った。
肉を刻んだ。
丸めた。
焼いた。
焦がした。
崩した。
捨てられなかったから、食べた。
吐きそうになりながら食べた。
次の日も作った。
その次の日も。
村人たちは食材を持ってきた。
肉も、野菜も、米も、薬草も。
ツカサ様のお身体に。
ツカサ様のために。
死の英雄様のために。
そう言って置いていった。
ツカサは、礼を言わなかった。
言えなかった。
けれど食材は使った。
使わないと、腐るから。
腐らせるのは、もっと嫌だった。
玉ねぎを入れてみた。
大きすぎた。
焼いたら焦げた。
何か白い粉を入れてみた。
変な固まり方をした。
水を入れてみた。
べちゃべちゃになった。
卵を入れてみた。
ぐずぐずになった。
全部、違った。
母のハンバーグにはならなかった。
ツバサに食べさせたかったものには、ならなかった。
日に日に、台所に立つ時間は短くなった。
最初は何時間も粘った。
次は一時間。
次は半刻。
やがて、肉を見ただけで手が止まるようになった。
作っても、どうせ違う。
食べてくれる人もいない。
おいしいと言ってくれる人もいない。
怒ってくれる人もいない。
何してるの、お姉ちゃん下手だねって笑ってくれる妹もいない。
ツカサは、包丁を置いた。
それから、あまり料理をしなくなった。
◇
村の外れに、小さな店があった。
弁当を売っている店だった。
畑仕事の人や、山へ行く人が買っていく。
ツカサはある日、そこへ行った。
村人たちは、ツカサが外に出ると道を開けた。
頭を下げる者もいた。
手を合わせる者もいた。
何か言いたそうにする者もいた。
ツカサは誰も見なかった。
店の前に立つ。
店主がぎょっとした顔をして、それから慌てて頭を下げた。
「ツカサ様、何を」
「……お弁当を」
「え?」
「ひとつください」
店主は少し戸惑い、それからすぐに弁当を包んだ。
「お代は」
「払います」
「いえ、そんな、ツカサ様からは」
「払います」
ツカサがそう言うと、店主は何も言えなくなった。
小銭を渡す。
弁当を受け取る。
それだけのことに、ひどく疲れた。
家に帰って、弁当を開けた。
白い米。
漬物。
焼いた魚。
煮物。
小さな卵焼き。
ちゃんとした食事だった。
ちゃんと誰かが作ったものだった。
ツカサはそれを食べた。
「いただきます…」
当然返事は返ってこない。
味がした。
おいしい、と思った。
その瞬間、涙が出そうになった。
自分で作った肉の塊より、ずっとおいしかった。
当たり前だ。
当たり前なのに、悔しかった。
ツカサは弁当を食べきった。
空になった箱を見つめる。
それから、静かに蓋を閉じた。
「……ごちそうさまでした」
これも当然返事はなかった。
いただきます、と言っても。
ごちそうさま、と言っても。
返ってくる声はない。
それからツカサは、弁当を買うようになった。
毎日ではない。
けれど、料理をするよりはずっと多くなった。
村人たちは、それを見て少し安心したようだった。
ツカサ様が外に出た。
食事をされた。
お元気になられている。
そんなふうに見えたのかもしれない。
馬鹿げている。
生きていることと、元気でいることは同じではないのに。
でも、誰もそこまでは見なかった。
ツカサも、見てほしくなかった。
◇
夜になると、ツカサはツバサの髪飾りを握って眠った。
眠れる日もあった。
眠れない日もあった。
眠ると、夢を見た。
ツバサがいる夢。
母が台所にいる夢。
父が薪を運んでいる夢。
ツカサがハンバーグを作って、ツバサがそれを食べる夢。
おいしい、と笑う夢。
目が覚めると、全部なかった。
健康な体だけが残っていた。
最低の置き土産だった。
ツカサは胸に手を当てる。
鼓動は止まらない。
どれだけ願っても止まらない。
ツバサからもらったものだから。
捨てられない。
死にたいと思っても。
消えたいと思っても。
この命は、自分だけのものではなくなってしまった。
だから、ツカサは生きていた。
ただ生きていた。
肉の塊を作って。
弁当を買って。
誰とも目を合わせず。
誰にも本当のことを言えず。
ツバサのいない朝を、何度も迎えた。
そしてある日。
ツカサは、自分の中にある冷たい力が、少しずつ大きくなっていることに気づいた。
胸の奥。
鼓動のさらに奥。
そこに、何かがいる。
眠っているようで、眠っていない。
黙っているようで、ずっとこちらを見ている。
ツカサは、それに名前をつけなかった。
つけたら、認めてしまう気がした。
けれど村人たちは、もう名前を知っていた。
死の英雄。
尊い力。
村を守るもの。
ツカサは、髪飾りを握りしめる。
「……ツバサ」
返事はない。
その代わりのように、胸の奥で冷たい何かが、かすかに脈打った。
まるで、次はお前の番だとでも言うように。




