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第6話「死の英雄」

 ツカサが弁当を買うようになってから、村人たちは少し安心したようだった。


 あの子は食べている。


 外にも出ている。


 以前より顔色もいい。


 なら、大丈夫だ。


 そんなふうに思ったのだろう。


 大丈夫なわけがなかった。


 でも、人は見たいものだけを見る。


 見たくないものは、見えないふりをする。


 ツカサが毎晩、ツバサの髪飾りを握りしめたまま眠っていることも。


 朝になるたび、自分の体がまだ動くことに絶望していることも。


 食事の前に「いただきます」と言って、返事がないことに息を詰まらせていることも。


 誰も知らなかった。


 知ろうともしなかった。


 村人たちはただ、ツカサを見ていた。


 少女としてではなく。


 姉としてでもなく。


 死の英雄として。


     ◇


 ある朝、家の前に白い布が掛けられていた。


 それは、祭事に使う布だった。


 ツカサは戸を開けて、それを見上げた。


 家の柱にも、戸口にも、軒先にも、白い布が結ばれている。


 その下には、小さな香炉が置かれていた。


 煙が細く立ち上っている。


 冷たい匂いがした。


「……何、これ」


 ツカサがつぶやくと、近くにいた村の男が慌てて頭を下げた。


「ツカサ様のお住まいを、清めさせていただきました」


「清める?」


「はい。ここは、これより御座所となりますので」


「御座所?」


「死の英雄様がおられる場所です」


 ツカサは、ゆっくり男を見た。


 男は目を合わせなかった。


 怖いからではない。


 恐れ多いから。


 そういう目の伏せ方だった。


「やめて」


 ツカサは言った。


「こういうの、やめてください」


 男は困ったように笑った。


「お気に召しませんでしたか」


「違う。そうじゃなくて」


「では、布の色を変えましょうか。黒を混ぜるべきという者もおりましたが、まずは清めの白がよいと」


「そういう話じゃない」


 ツカサの声が少し強くなった。


 男の肩が揺れる。


 けれど、すぐにまた頭を下げた。


「申し訳ありません。まだ幼い身に、急な役目を背負わせる形となり」


「役目じゃない」


「ですが、死の英雄の御力はすでにあなたの中に」


「違う」


 ツカサは胸元を押さえた。


 そこには、昨日も今日も、変わらず鼓動がある。


 ツバサから渡された命がある。


 それに混じって、冷たい何かがある。


 分かっている。


 分かってしまっている。


 だからこそ、認めたくなかった。


「私は、そんなものになりたくない」


 男は黙った。


 少し離れた場所にいた女たちも、老人たちも、静かにこちらを見ている。


 その中の一人が、小さく言った。


「おかわいそうに」


 その声に、ツカサの指が震えた。


「まだ、己の尊さを受け入れられないのだわ」


「ツバサ様のお命を受け継いだのだから、戸惑うのも無理はない」


「でも、いずれ分かる」


「死の英雄様は、村を守るためにお戻りになったのだから」


 戻った?


 誰が。


 何が。


 ツカサは思った。


 ツバサは戻ってこないのに。


     ◇


 それから、村は少しずつ変わった。


 いや、もしかしたら最初からそうだったのかもしれない。


 ツカサが見ていなかっただけで。


 家の前には毎日供物が置かれるようになった。


 野菜。


 米。


 肉。


 布。


 水。


 花。


 そのどれにも、白い紙が添えられていた。


 死の英雄様へ。


 ツカサ様へ。


 村の守り手へ。


 ツカサはそれらをなるべく見ないようにした。


 けれど、見ないようにしても、そこにある。


 戸を開ければある。


 外へ出ればある。


 家の中にいても、香の匂いが入り込んでくる。


 逃げ場がなかった。


 村人たちは、ツカサにひれ伏すようになった。


 以前よりも近づかなくなった。


 けれど、距離を取るくせに、目は離さなかった。


 見守る。


 見張る。


 崇める。


 怯える。


 その全部が混ざった視線だった。


 ツカサは日に日に外へ出なくなった。


 弁当を買いに行くことも減った。


 食材が置かれるから、わざわざ買わなくてもよくなった。


 料理はしなかった。


 置かれたものを、ただ茹でたり焼いたりして食べた。


 味はあまり分からなかった。


 でも体は動く。


 健康だった。


 腹も減る。


 眠りもする。


 ひどい話だった。


 心だけが死んでいるのに、体は何事もなく生き続けている。


     ◇


 ある日、村の老婆が家に来た。


 あの夜、ツバサに命の譲渡をすすめた老婆だった。


 ツカサはその顔を見た瞬間、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「……何の用ですか」


 老婆は深く頭を下げた。


「お話がございます」


「私はありません」


「大切なことです」


「帰ってください」


「ツカサ様」


 その呼び方に、ツカサは顔を歪めた。


「その呼び方、やめて」


「では、なんと」


「普通に呼んで」


「普通とは」


「ツカサでいい」


 老婆は、ひどく困ったような顔をした。


 ツカサという名前で呼ぶことが、難しいことのように。


 それがまた、ツカサには苦しかった。


 自分はもう、ただのツカサではないのだと突きつけられる。


「……ツカサ」


 老婆はゆっくり呼んだ。


 その声は少し硬かった。


「村は、あなたを必要としています」


「私は必要としてません」


「それでもです」


 老婆は顔を上げた。


 皺の多い顔。


 穏やかな目。


 その奥に、動かない信念があった。


 狂気というのは、叫んでいるものだけじゃない。


 こうやって、静かに座っていることもある。


「あなたの中には、死の英雄の御力があります」


「だから何」


「力には、役目があります」


「私は頼んでない」


「ツバサ様が望まれました」


 その瞬間、部屋の空気が止まった。


 ツカサは、老婆を見た。


 老婆は逃げなかった。


 ただ、まっすぐツカサを見ていた。


「ツバサ様は、あなたに生きてほしいと願われた」


「……それを」


 ツカサの声が震える。


「あなたたちが言うの?」


「事実です」


「あなたたちが、ツバサを殺したのに?」


 老婆の表情がわずかに曇った。


 けれど、それは罪悪感ではなかった。


 悲しみだった。


 自分たちが責められている悲しみではなく、ツカサがまだ分かっていないことへの悲しみ。


 そういう顔だった。


「殺したのではありません」


「じゃあ何」


「捧げたのです」


 ツカサは息を止めた。


「ツバサ様ご自身が望み、命を繋いだのです」


「言わせたんでしょ」


「選ばれたのです」


「追い詰めたんでしょ」


「救われたのです」


「黙って!」


 叫んだ。


 老婆の肩が揺れた。


 それだけだった。


 ツカサは荒い息を吐いた。


 自分でも分かる。


 胸の奥の冷たいものが、また脈打っている。


 怒りに呼応するように。


 悲しみに餌をもらうように。


 これ以上話したら、何かが起きる。


 そんな気がした。


「帰って」


 ツカサは低く言った。


「お願いだから、帰って」


 老婆はしばらく黙っていた。


 そして、立ち上がる。


 最後に一度だけ頭を下げた。


「いずれ、分かる日が来ます」


「来ない」


「死の英雄様は、人を終わらせるためだけの存在ではありません」


 老婆は静かに言った。


「正しく導けば、村を救う力となります」


「……正しく?」


 ツカサは笑った。


 自分でも驚くくらい、乾いた笑いだった。


「ツバサを死なせた人たちが、正しく?」


 老婆は答えなかった。


 答えないまま、家を出ていった。


 戸が閉まる。


 香の匂いだけが残った。


 ツカサはその場に座り込んだ。


 胸が苦しい。


 体は健康なのに。


 何も病んでいないのに。


 ただ、生きていることが苦しかった。


     ◇


 夜。


 ツカサは眠れなかった。


 ツバサの髪飾りを握って、布団の中で丸くなる。


 目を閉じると、あの夜のことを想像してしまう。


 ツバサは怖かっただろうか。


 泣いただろうか。


 最後に何を思っただろうか。


 自分のことを恨んだだろうか。


 それとも、最後まで助けたいと思ってくれたのだろうか。


 どちらでも苦しかった。


 恨まれていたなら苦しい。


 愛されていたなら、もっと苦しい。


「……ごめん」


 布団の中でつぶやく。


「ごめん、ツバサ」


 そのとき。


 胸の奥で、何かが揺れた。


 声ではなかった。


 言葉でもなかった。


 けれど、何かがこちらを見ている。


 ずっと。


 静かに。


 ツカサは息を止めた。


「誰……?」


 返事はない。


 代わりに、ぞっとするほど冷たい感覚が胸の奥から広がった。


 心臓を撫でられているような。


 命の形を確かめられているような。


 そんな感覚。


 ツカサは胸元を握った。


「やめて」


 冷たさは消えない。


「やめて……」


 消えない。


 布団の中で震えていると、ふいに外から声が聞こえた。


 村人たちの声だった。


 夜なのに、家の前に人がいる。


 複数人。


 小さな声で何かを話している。


「……まだ不安定だ」


「ツバサ様の方が素直だったのでは」


「しかし器としてはツカサ様の方が優れている」


「力を扱えるようになれば、村は安泰だ」


「早く御役目を理解していただかねば」


「明日、あらためて祈りの場へ」


 ツカサは起き上がった。


 足音を立てないように、戸口へ近づく。


 隙間から外を見る。


 白い布をまとった大人たちがいた。


 手には鈴。


 香炉。


 縄。


 黒い石。


 あの夜と似たもの。


 ツカサの呼吸が浅くなる。


「無理にでも?」


「荒ぶる前に鎮める必要がある」


「恐れることはない。これは村のためだ」


「ツバサ様の犠牲を無駄にしないためにも」


 その言葉を聞いた瞬間、ツカサの中で何かが音を立てた。


 ツバサの犠牲。


 無駄にしない。


 そのために自分を縛る。


 自分を祀る。


 自分を使う。


 ツバサの名前を、その理由にする。


「……やめて」


 小さく言った。


 外の人間には聞こえない。


「ツバサを、そういうふうに使わないで」


 声は届かない。


 村人たちは話し続けている。


「明日の朝、御座所を整える」


「ツカサ様には祈りの間にお移りいただく」


「食事もそこで」


「外との接触はしばらく控えた方がいい」


「逃げられては困る」


 逃げる。


 その言葉で、ツカサは初めて気づいた。


 自分は逃げてもいいのだと。


 ここにいなくてもいいのだと。


 でも、どこへ。


 両親はいない。


 ツバサもいない。


 この家には思い出がある。


 母が立っていた台所。


 父が直した戸。


 ツバサが座っていた低い台。


 全部ここにある。


 でも、もうここは家ではなかった。


 御座所になっていた。


 村のための場所になっていた。


 ツカサは髪飾りを握りしめた。


 胸の奥の冷たいものが、また脈打つ。


 行け。


 そう言われた気がした。


 違う。


 これは自分の意思だ。


 ツカサは自分に言い聞かせる。


 この力の声じゃない。


 村人の言葉でもない。


 自分で決める。


 ここにはいられない。


     ◇


 夜が深くなってから、ツカサは家を出た。


 荷物はほとんど持たなかった。


 小さな袋に、水と、少しの食べ物。


 それから、ツバサの髪飾り。


 台所の前で、一度だけ足が止まった。


 まな板。


 包丁。


 焦げた跡の残る鍋。


 肉の塊を作った場所。


 ツバサに食べさせたかったものを、結局一度も作れなかった場所。


 ツカサは目を伏せた。


「……ごめんね」


 誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。


 家を出る。


 空は暗い。


 月が細い。


 村の家々は眠っている。


 けれど、祈りの場だけは灯りがついていた。


 白い布が揺れている。


 鈴の音がかすかに聞こえる。


 ツカサはそちらを見ないようにして歩いた。


 村の出口へ向かう。


 足はちゃんと動く。


 健康な体は、逃げることもできる。


 皮肉だった。


 ツバサがくれた命で、ツバサを殺した村から逃げる。


 最低だと思った。


 でも、止まらなかった。


 出口に近づいたとき、背後から声がした。


「どこへ行かれるのですか」


 ツカサは振り返った。


 若い男が立っていた。


 手には松明。


 顔には驚きと、焦りと、怯え。


「ツカサ様」


「……見逃してください」


「それはできません」


「お願い」


「村にはあなたが必要です」


 その言葉に、ツカサの中の何かが少しだけ冷えた。


 またそれだ。


 必要。


 役目。


 村のため。


 ツバサのため。


 誰も、ツカサがどうしたいかは聞かない。


「私は必要じゃない」


「そんなことはありません」


「私は、ただ」


 ツカサは喉を詰まらせた。


「ただ、ここにいたくないだけ」


 男は困ったように眉を寄せた。


 その顔を見て、ツカサは分かってしまった。


 この人は悪人ではない。


 たぶん、本気で困っている。


 本気でツカサを案じてもいる。


 でも、その根っこには村がある。


 信仰がある。


 役目がある。


 ツカサ個人ではなく、死の英雄を逃がしてはいけないという考えがある。


「戻りましょう」


 男が一歩近づいた。


 ツカサは一歩下がる。


「来ないで」


「大丈夫です。乱暴なことは」


「来ないで」


「ツカサ様」


「来ないでって言ってる!」


 叫んだ瞬間、男の松明の火が消えた。


 風もないのに。


 あたりが一気に暗くなる。


 男が息を呑んだ。


 ツカサも固まった。


 胸の奥が冷たい。


 足元の草が、じわりと黒く変わっていた。


 ほんの少し。


 ほんの狭い範囲。


 けれど、たしかに。


「……あ」


 男が後ずさった。


 その顔に浮かんだのは、恐怖だった。


 初めて、はっきりとした恐怖だった。


 ツカサはその顔を見た。


 見てしまった。


 自分が何か恐ろしいものになっていると、突きつけられた。


「違う」


 ツカサは首を振った。


「私、何も」


 男は声を張り上げた。


「誰か!」


 村が起きる。


 犬が吠える。


 家々に灯りがつく。


 足音が増える。


 ツカサは逃げ出した。


     ◇


 村の中を走る。


 息が切れない。


 足がもつれない。


 速い。


 自分でも怖いくらい速い。


 でも、道を知っている村人たちは先回りしてくる。


 白い布。


 松明。


 縄。


 鈴。


 祈りの声。


「鎮めろ!」


「御力が荒ぶっている!」


「逃がすな!」


「村の外へ出してはならない!」


「ツカサ様! お戻りください!」


 ツカサは耳を塞ぎたかった。


 でも走っているから塞げない。


 声が刺さる。


 祈りが刺さる。


 敬称が刺さる。


 ツカサ様。


 死の英雄様。


 村の守り手。


 姫御前の願い。


 全部が、ツカサを縛る縄みたいだった。


「やめて……」


 道の先に老婆がいた。


 両手を広げている。


 逃がすまいとしているのか。


 抱きしめようとしているのか。


 分からなかった。


「ツカサ」


 老婆は、今度は名前で呼んだ。


「落ち着きなさい」


「どいて」


「あなたは混乱しているだけです」


「どいて!」


「ツバサ様の命を背負っているあなたが、そんなふうに逃げてはいけません」


 その言葉で、ツカサの足が止まった。


 ツバサ。


 また。


 またその名前。


 まるで、ツバサが自分を縛る鎖みたいに。


 そんなはずないのに。


 ツバサは、そんなことのために死んだんじゃない。


 いや。


 死んだんじゃない。


 死なされた。


 そして自分は、生かされた。


「……言わないで」


 ツカサは小さく言った。


「ツバサの名前を、言わないで」


「ツバサ様は」


「言うな!」


 空気が軋んだ。


 それは音ではなかった。


 けれど、その場にいた全員が何かを感じた。


 老婆の足元で、白い花が黒く萎れた。


 老婆の顔が、初めて恐怖で歪んだ。


 ツカサはそれを見て、泣きそうになった。


 怖がらせたかったわけじゃない。


 傷つけたかったわけじゃない。


 ただ、やめてほしかっただけ。


 ツバサをこれ以上、使わないでほしかっただけ。


「私は……」


 ツカサは震える声で言った。


「死の英雄なんかじゃない」


 誰も答えない。


「村のものでもない」


 誰かが息を呑む。


「ツバサの代わりでもない」


 胸の奥が冷える。


 冷たさが、今度は痛みに変わっていく。


「私は……ツカサだよ」


 そう言った瞬間。


 どこかで鈴が鳴った。


 村人の誰かが、祈りの鈴を鳴らしたのだ。


 鎮めるために。


 祓うために。


 従わせるために。


 その音が、ツカサの中の最後の何かを切った。


「やめろおおおおおおおおおっ!」


 叫びは、夜に裂けた。


     ◇


 何が起きたのか。


 ツカサには分からなかった。


 ただ、冷たいものが胸の奥から溢れた。


 怒りでも、悲しみでも、恐怖でもない。


 それら全部を飲み込んだ、もっと大きな何か。


 地面が黒く染まる。


 香炉の火が消える。


 白い布が、端から腐るように崩れる。


 近くにいた村人が倒れる。


 悲鳴。


 足音。


 叫び声。


「荒ぶりだ!」


「逃げろ!」


「死の英雄様が!」


「鎮めろ!」


「近づくな!」


 祈りは恐怖に変わった。


 敬意は悲鳴に変わった。


 それでも、誰かがまだ言っている。


「お許しください!」


「村をお守りください!」


「ツバサ様!」


 ツバサの名前。


 その名前だけが、また耳に届いた。


 ツカサは両手で耳を塞いだ。


 でも、聞こえる。


 胸の奥から聞こえる。


 自分の中で、何かが笑った気がした。


 低く。


 遠く。


 深い場所で。


 声ではない。


 まだ声にはならない。


 けれど、それは確かにそこにいた。


 ツカサは叫んだ。


 もう言葉になっていなかった。


 ただ、嫌だった。


 全部が嫌だった。


 ツバサがいないこと。


 自分が生きていること。


 村人が祈ること。


 自分を見ないこと。


 ツバサの名前を使うこと。


 この力が自分の中にあること。


 健康な体が、ちゃんと立っていること。


 何もかもが嫌だった。


 黒い力が広がっていく。


 家の壁が崩れる。


 木が枯れる。


 水瓶の水が濁る。


 人が倒れる。


 動物が暴れる。


 鈴の音が途切れる。


 夜のシス村は、少しずつ音を失っていった。


 ツカサはその中心にいた。


 泣いていたのかもしれない。


 叫んでいたのかもしれない。


 何かを壊していたのかもしれない。


 誰かを殺していたのかもしれない。


 分からなかった。


 分かりたくなかった。


 ただ、胸が痛かった。


 ツバサの髪飾りを握る手だけが、最後までほどけなかった。


     ◇


 気づいたとき、朝になっていた。


 空は薄く明るい。


 鳥の声はなかった。


 水を汲む音もなかった。


 薪を割る音もなかった。


 昨日まで当たり前にあった朝が、どこにもなかった。


 ツカサは、村の道の真ん中に座っていた。


 周りには、何もなかった。


 いや、あった。


 壊れた家。


 黒く枯れた草。


 倒れた人。


 転がった鈴。


 破れた白い布。


 焦げたわけでもないのに、命だけを抜かれたみたいな景色。


 シス村だったもの。


 ツカサは、自分の手を見た。


 血はついていなかった。


 それが余計に怖かった。


 刃物で殺したわけではない。


 殴ったわけでもない。


 でも、死んでいる。


 村が死んでいる。


 ツカサはゆっくりと立ち上がった。


 足が動いた。


 健康な体は、まだ動いた。


 膝も震えない。


 息も苦しくない。


 倒れもしない。


 それが、どうしようもなく嫌だった。


「……私が」


 声がかすれた。


「私が、やったの……?」


 答える者はいない。


 ツバサもいない。


 父も母もいない。


 村人もいない。


 誰もいない。


 ツカサは歩き出した。


 どこへ行くのか、自分でも分からなかった。


 ここにはいられない。


 それだけは分かった。


 足が勝手に進む。


 村の外へ。


 道へ。


 知らない場所へ。


 背後に、シス村が残っている。


 両親がいた場所。


 ツバサがいた場所。


 ツカサが生まれた場所。


 全部が、壊れている。


 ツカサは振り返らなかった。


 振り返ったら、動けなくなる気がした。


 胸の奥の冷たいものは、もう静かだった。


 まるで満足したように。


 それが恐ろしくて、ツカサは歩き続けた。


 昼になった。


 夕方になった。


 足は痛まない。


 体はまだ動く。


 健康だった。


 最低だった。


 やがて遠くから、かすかな音が聞こえた。


 人の声。


 笑い声。


 笛の音。


 太鼓の音。


 どこかで祭りをしているのかもしれない。


 ツカサは顔を上げた。


 夕暮れの向こうに、灯りが見えた。


 温かそうな光だった。


 楽しそうな音だった。


 誰かが誰かと笑っている場所。


 誰かが誰かと帰る場所。


 誰かが誰かに、ご飯を作って待っているかもしれない場所。


 ツカサは、その光に向かって歩いた。


 理由はなかった。


 ただ、足がそちらへ向いた。


 胸の奥で、冷たい何かが小さく脈打つ。


 ツカサはそれを押さえるように、ツバサの髪飾りを握った。


「……行こう、ツバサ」


 返事はない。


 それでも、ツカサは歩いた。


 メーランの街では、その日、豊穣祭が開かれていた。

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