第7話「不幸な少女とエーレ」
7話「不幸な少女とエーレ」
メーランの街は、光っていた。
夕暮れの中、吊るされた灯りが通りを照らしている。
屋台からは甘い匂いがした。
焼いた肉の匂い。
煮込んだ野菜の匂い。
果物を煮詰めた蜜の匂い。
人の声が重なっている。
笑い声。
呼び込みの声。
子どもが走る足音。
笛と太鼓の音。
誰かが誰かの名前を呼ぶ声。
どれも、ツカサの知らない明るさだった。
ツカサは、その中を歩いていた。
水色の髪は少し乱れている。
服は汚れている。
手には、小さな髪飾りを握っている。
誰にも見られたくないのに、誰かに見つけてほしいような顔をして。
ツカサは、人々の間をすり抜けるように歩いた。
「見て、あれ!」
「すごいね、今年は去年より飾りが多い」
「豊穣の英雄様のおかげだな」
「カーレの方でも今年は雨が降ったらしいぞ」
「ありがたいねえ」
そんな会話が聞こえる。
豊穣の英雄。
雨。
祭り。
ツカサには、もう何も関係ない言葉だった。
でも、人々は嬉しそうだった。
誰かが誰かと手を繋ぎ、笑っている。
親が子を抱き上げて、屋台の灯りを見せている。
老人が店先に座り、通り過ぎる人たちに手を振っている。
若い男女が、照れくさそうに並んで歩いている。
そこにある全部が、ツカサには遠かった。
遠いのに、目の前にあった。
おかしいと思った。
自分の村は、朝を失った。
父も母もいない。
ツバサもいない。
村人もいない。
ツカサがいた場所は、もうどこにもない。
それなのに。
ここでは、夜がこんなに明るい。
誰かの一日が、当たり前に続いている。
ずるい。
そう思った瞬間、ツカサは足を止めた。
ずるい。
そんな言葉が自分の中に出てきたことが、怖かった。
誰も悪くない。
この街の人たちは何も知らない。
ツバサのことも。
シス村のことも。
死の英雄のことも。
ツカサが何をしたかも。
何も知らない。
だから笑っているだけだ。
それだけなのに。
ツカサの胸の奥で、冷たいものが少しだけ揺れた。
どくん。
鼓動とは違う。
もっと深い場所の音。
ツカサは胸を押さえた。
「……やめて」
小さく言う。
誰にも聞こえない声だった。
「やめて……」
だが、祭りの音は止まらない。
灯りは揺れる。
笑い声は続く。
幸せそうな顔が、いくつもいくつも視界を横切る。
ツカサは、息ができなくなった。
体は健康なのに。
熱もないのに。
胸だけが苦しい。
「お母さん、あれ食べたい!」
「あとでね。先にお父さんを探しましょう」
近くで、幼い少女の声がした。
ツカサはそちらを見た。
黒髪の少女だった。
歳は自分と同じくらいか、少し下。
綺麗な服を着て、目を輝かせている。
隣には母親らしき人がいて、少し困ったように笑っていた。
「ミカゲ、走っちゃだめよ」
「大丈夫だって!」
「あなたの大丈夫は大丈夫じゃないの」
「ひどい!」
少女が頬を膨らませる。
母親が笑う。
少し離れたところから、父親らしき男が手を振った。
「ミカゲ、こっちだ」
「あ、お父さん!」
少女がぱっと笑って駆け出す。
母親が慌てて追う。
父親が両手を広げる。
その光景は、きっとどこにでもあるものだった。
珍しくもない。
特別でもない。
ただ、家族が祭りを楽しんでいるだけ。
それだけの光景。
ツカサは、それを見てしまった。
父がいて。
母がいて。
娘がいて。
誰かが名前を呼んでくれて。
走れば受け止めてくれる腕がある。
その当たり前が、ツカサの中に刃物みたいに入ってきた。
胸の奥の冷たいものが、また大きく脈打つ。
どくん。
どくん。
ツカサは後ずさった。
「違う」
何が違うのか分からない。
でも言った。
「違う、私は……」
視界が揺れる。
灯りが滲む。
人の声が遠くなる。
なのに、笑い声だけが耳に残る。
楽しそうな声。
幸せそうな声。
ツバサの声ではない。
母の声でもない。
父の声でもない。
知らない誰かの声。
なのに、どうしてこんなに痛いのだろう。
「……なんで」
ツカサは、自分の手の中の髪飾りを握りしめた。
「なんで、私たちじゃなかったの……?」
その言葉が落ちた瞬間。
胸の奥の冷たいものが、静かに開いた。
◇
最初に倒れたのは、屋台の火を見ていた男だった。
誰かが悲鳴を上げるより早く、男の膝が崩れた。
手から串が落ちる。
地面に転がる。
隣にいた女が、何が起きたのか分からず男を揺すった。
「ねえ? どうしたの?」
返事はない。
次に、近くの灯りが消えた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
まるで夜が、指でつまんで火を潰していくみたいに。
人々のざわめきが、疑問から不安に変わる。
「何だ?」
「誰か倒れたぞ」
「おい、医者を」
その声も、すぐに途切れた。
道の端にいた老人が胸を押さえて倒れる。
走っていた子どもが足を止め、泣き出す。
屋台の布が黒ずんでいく。
花飾りが枯れる。
果物が腐る。
水の入った桶が濁る。
そして、悲鳴が上がった。
そこからは早かった。
祭りの音が、壊れた。
笛の音が止まり、太鼓が転がり、人々が逃げ惑う。
何が起きているのか、誰にも分からない。
火事ではない。
獣でもない。
盗賊でもない。
ただ、命が消えていく。
目に見えない何かが通りを舐めるように広がって、人を、花を、灯りを、温かさを奪っていく。
その中心に、ツカサがいた。
ツカサ自身には、何も分からなかった。
見えているのに、見えていない。
聞こえているのに、聞こえていない。
ただ、胸の奥が冷たくて。
ただ、苦しくて。
ただ、全部が遠くて。
気づけば、周りの人々が倒れている。
誰かが自分を見ている。
恐怖の目で。
「ばけもの……」
誰かが言った。
ツカサはその言葉を聞いた。
聞いたはずなのに、意味が入ってこなかった。
化け物。
それは自分のことだろうか。
そんなはずない。
そんなはずないのに。
足元で、誰かの手が動いた。
さっきの黒髪の少女だった。
ミカゲと呼ばれていた少女。
彼女は物陰に倒れ込むようにして、震えていた。
顔は涙で濡れている。
声も出せないほど怯えている。
遠くで、少女の母親が倒れていた。
父親も、すぐ近くで動かない。
ミカゲは、そこへ行こうとしている。
でも足が動かない。
怖くて、怖くて、ただ手を伸ばしている。
「……おかあ、さん」
その声が聞こえた。
ツカサの胸が、ぎゅっと縮む。
お母さん。
その言葉だけが、はっきり聞こえた。
ツカサは一歩下がった。
自分が何をしたのか、少しだけ分かりかけた。
分かりかけて、壊れそうになった。
「違う……」
声が漏れる。
「違う、違う……」
誰も聞いていない。
悲鳴の中で、そんな声は消える。
ツカサは逃げるように歩き出した。
どこへ向かうのか分からない。
とにかく、この場にいられなかった。
背後では、まだ誰かが泣いている。
ミカゲが、壊れた街の中で両親を呼んでいる。
ツカサは振り返らなかった。
振り返ることができなかった。
◇
その惨劇の中で、ひとりの青年が走っていた。
名を、エーレという。
メーランの街で暮らす、二十歳を少し越えたばかりの青年だった。
特別な英雄ではない。
王都に名を知られる剣士でもない。
魔法の才能があるわけでもない。
ただ、困っている者を見ると放っておけない。
そういう、面倒なほど善良な人間だった。
街の人間からは、よく呆れられていた。
また首を突っ込んでる。
また余計なことをしてる。
自分の飯もまともに用意できないくせに、誰かに飯を分けてる。
そう笑われながら、でも嫌われてはいなかった。
優しすぎる。
それがエーレへの、街の共通した評価だった。
その日も、彼は祭りの手伝いをしていた。
荷物を運び、迷子の子どもを親のところへ連れていき、酔った男を道の端に座らせ、屋台の老婆に頼まれて水を汲みに行っていた。
だから、異変に気づいたのは少し遅れた。
悲鳴。
逃げる人々。
倒れる人。
黒く枯れた花飾り。
壊れた灯り。
エーレは水桶を捨てて走った。
「おい! 無事な奴はこっちへ!」
声を張る。
倒れた人を抱えようとする。
だが、その体はもう冷たかった。
エーレは歯を食いしばる。
次。
まだ息がある者を探す。
泣いている子どもを抱き上げ、安全そうな路地へ押し込む。
「動けるなら走れ! 広場から離れろ!」
誰かが叫ぶ。
「化け物だ!」
エーレはその方向を見た。
通りの向こう。
壊れた灯りの中。
ひとりの少女が歩いていた。
水色の髪。
汚れた服。
手の中に、小さな髪飾り。
その周囲だけ、空気が異様に冷たい。
彼女が一歩進むたび、近くの草花が枯れていく。
倒れた人間が増えていく。
誰が見ても、原因はその少女だった。
逃げるべきだった。
叫ぶべきだった。
殺せと怒鳴る者がいても、おかしくなかった。
それなのに、エーレは立ち止まった。
少女の顔を見てしまったから。
その顔は、悪意に満ちていなかった。
笑ってもいない。
怒ってもいない。
勝ち誇ってもいない。
ただ、分からないという顔をしていた。
自分がどこにいるのか。
何をしたのか。
どうしてこうなったのか。
何も分からないまま、壊れている顔だった。
「……子どもじゃねえか」
エーレは呟いた。
この状況でその感想が出るあたり、正気とは言い難い。
でも、そういう男だった。
世界が「敵だ」と雑に札を貼ったものを見ても、まず顔を見る。
顔を見てしまう。
そのせいで、いつも面倒を背負う。
少女がふらついた。
膝をつきそうになる。
エーレは考えるより先に走っていた。
「おい!」
声をかける。
少女は反応しない。
近づいた瞬間、胸を冷たい手で掴まれたような感覚がした。
息が詰まる。
体が拒絶する。
近づくな、と本能が叫んでいる。
それでも、エーレは足を止めなかった。
「おい、聞こえるか!」
少女の肩を掴んだ。
その瞬間、指先が痺れた。
命を抜かれるような感覚。
エーレは奥歯を噛んだ。
痛い。
苦しい。
でも、少女はもっとひどい顔をしていた。
少女がゆっくり顔を上げる。
焦点の合わない目が、エーレを見る。
「……だれ」
「エーレ」
エーレは即答した。
「俺はエーレだ。お前は?」
少女は答えない。
唇が震える。
その手の中の髪飾りだけを、必死に握っている。
「……私」
少女は声を絞った。
「私、何を」
そこで言葉が途切れた。
周囲の悲鳴が、遠くで上がる。
誰かが叫んだ。
「そいつから離れろ!」
「殺されるぞ!」
「そいつがやったんだ!」
エーレは振り返らなかった。
少女がその声に怯えたから。
びくりと肩を震わせ、逃げるように後ずさろうとする。
エーレは反射的に、少女の手首を掴んだ。
「待て」
「離して」
「落ち着け」
「離して……!」
少女の周囲の空気がまた冷える。
エーレの腕に鋭い痛みが走った。
皮膚が裂けたわけではない。
血が出たわけでもない。
ただ、命そのものを削られているような痛み。
それでも離さなかった。
「落ち着けって」
「私が……私がやったの?」
少女の目に涙が浮かぶ。
「また?」
また。
エーレはその一言を聞き逃さなかった。
また。
つまり、この子はすでに何かを失っている。
すでに壊れている。
今初めて化け物になったんじゃない。
なるしかない場所まで、誰かに追い込まれてきた。
そんな気がした。
根拠は薄い。
でも、エーレはそういう勘だけは妙に当てる。
「お前、名前は?」
少女は答えない。
「言えないか?」
「……ツカサ」
ほとんど聞こえない声だった。
「ツカサっていうのか」
エーレは頷いた。
「じゃあツカサ。とりあえず、ここから離れるぞ」
「なんで」
「ここにいたら、たぶんお前も周りももっとまずい」
「私を……捕まえないの?」
「捕まえてどうすんだよ」
「私、人を」
ツカサの目が揺れる。
「人を、殺した」
言葉にした瞬間、彼女の顔が崩れた。
自分で認めたくなかったものを、認めてしまった顔。
エーレは、ほんの一瞬だけ黙った。
軽く言っていいことではない。
大丈夫、なんて言ったら嘘になる。
悪くない、なんて言っていい場面でもない。
でも。
「そうか」
エーレは言った。
「じゃあ、まずはこれ以上殺さない場所に行く」
ツカサが目を見開いた。
「……責めないの?」
「後で責めるかもしれない」
エーレは正直に言った。
「俺だって、今ここで何が起きたのか全部分かってるわけじゃない。でも、お前が今この場にいたら、また誰かが死ぬかもしれない。それは止める」
「私を、殺すの?」
「殺さずに済むなら殺さない」
「なんで」
「子どもだから」
ツカサは言葉を失った。
エーレは続けた。
「あと、悪いことをしたくてした顔には見えない」
その言葉に、ツカサの唇が震えた。
「そんなの……分からないじゃん」
「分からないな」
「じゃあ」
「だから確かめる」
エーレはツカサの手を引いた。
今度は少しだけ優しく。
「来い。歩けるか?」
「……分からない」
「じゃあ歩け。分からない時は、とりあえず足を出す。人間、意外とそれで進む。雑な生き物だからな」
ツカサは困惑したまま、少しだけ足を出した。
その足取りは危うかった。
けれど歩いた。
エーレは周囲を見た。
人々の視線が突き刺さる。
恐怖。
怒り。
混乱。
当然だった。
この少女のせいで、多くの人が死んだ。
エーレ自身も、それを忘れたわけではない。
でも、今ここで群衆に任せれば、この子は殺される。
そして誰も何も分からないまま終わる。
それだけは違うと思った。
「エーレ!」
誰かが叫んだ。
「そいつをどこへ連れていく!」
「俺の家!」
「馬鹿か!」
「よく言われる!」
怒鳴り返して、エーレはツカサを連れて走り出した。
ツカサは引きずられるようについていく。
途中で何度もふらついた。
そのたびにエーレが支える。
触れるたびに、命を削られるような痛みが走る。
それでも支えた。
路地を抜ける。
人通りの少ない道へ入る。
祭りの音が遠ざかる。
悲鳴も遠ざかる。
ツカサは何度も振り返りかけた。
でも、振り返らなかった。
振り返ったら、壊れると分かっていたのかもしれない。
◇
エーレの家は、街の端にあった。
小さな家だった。
物が多く、少し散らかっている。
干しかけの布。
積まれた薪。
直しかけの椅子。
台所には鍋が置きっぱなし。
エーレは戸を閉め、鍵をかけた。
それから、ツカサを椅子に座らせる。
「座ってろ」
ツカサは素直に座った。
目は虚ろだった。
手の中の髪飾りだけを握っている。
エーレは水を持ってきた。
「飲めるか」
ツカサは首を振った。
「飲まなくてもいい。持ってろ」
器を手に持たせる。
ツカサの指は冷たかった。
エーレは自分の腕を見た。
掴んだところが、妙に青白くなっている。
痛みも残っている。
普通ではない。
この子の中には、本当に何かがある。
人を殺す何かが。
分かったうえで、エーレはため息をついた。
「……さて」
ツカサがびくりとする。
「別に怒鳴らない」
エーレは少し離れた場所に座った。
「怒鳴ったら、お前たぶんまたおかしくなるだろ」
ツカサは何も言わない。
「名前はツカサ。歳は?」
「……九」
「九歳か」
エーレは天井を見上げた。
「九歳でこれはきついな」
軽く言ったつもりだった。
だが、ツカサの目から涙がこぼれた。
ぽろ、と。
音もなく。
「……私」
ツカサは震えながら言った。
「私、悪い子なのかな」
エーレは即答しなかった。
即答できなかった。
人が死んでいる。
悪くない、とは言えない。
でも、目の前の子を悪い子だと切り捨てるには、あまりにも幼かった。
「悪いことはした」
エーレは言った。
「それはたぶん、間違いない」
ツカサの肩が震える。
「でも、お前が悪い子なのかは、まだ俺には分からない」
「……分からない?」
「ああ」
「じゃあ、どうしたら分かるの」
「見てれば分かる」
エーレは言った。
「だから、しばらくここにいろ」
ツカサは顔を上げた。
信じられないものを見る目だった。
「……なんで?」
「何回も言わせるな。俺も自分で自分の行動に困惑してるんだよ」
「私、危ないよ」
「見りゃ分かる」
「また、殺すかも」
「そうならないようにする」
「できるの?」
「分からん」
「じゃあ」
「でも放っておくよりはましだ」
エーレは立ち上がり、戸の方を見た。
外はまだ騒がしい。
いずれ誰かが来る。
ツカサを探す者も。
責める者も。
殺そうとする者も。
それでも、今はまだ少し時間がある。
「ツカサ」
エーレは言った。
「お前、何があった」
ツカサは口を開きかけた。
でも、声は出なかった。
代わりに、涙だけが増えた。
エーレはそれを見て、無理に聞くのをやめた。
「今はいい」
彼は棚から毛布を引っ張り出した。
少し埃っぽい。
ぱんぱんと払って、ツカサの肩にかける。
「寝ろ」
「寝られない」
「目を閉じるだけでいい」
「……エーレ」
「何だ」
「私、ここにいていいの?」
エーレは少しだけ黙った。
そして、短く答えた。
「今夜はな」
ツカサは毛布を握った。
「明日は?」
「明日は明日考える」
「適当」
「九歳に言われたくねえな」
ツカサは笑わなかった。
けれど、ほんの少しだけ表情が崩れた。
泣きそうなまま、眠りそうなまま、壊れそうなまま。
エーレはその顔を見て、思った。
この子はきっと、とんでもないことをした。
けれど。
とんでもないことをするしかない場所まで、誰かに追い込まれた子でもある。
それを見ないふりはできなかった。
だから、エーレは椅子に座ったまま、朝まで眠らなかった。
少女がまた暴れないように。
少女が一人で泣かないように。
そして、自分がこの選択を後悔する日が来るかもしれないと、どこかで分かりながら。
それでも、目を逸らさなかった。




